呉明益『眠りの航路』

 『歩道橋の魔術師』『自転車泥棒』、そして今年に入って『複眼人』と翻訳が相次いでいる呉明益の長編が白水社の<エクス・リブリス〉シリーズで登場。

 ただし、発表順でいうと本作は呉明益の長編デビュー作であり、一番古い作品になります。

 とっつきにくい作品だから後回しにされたと思いきや、奇妙な眠りの病にかかった現代を生きる主人公と、第2次世界大戦時に少年工として日本に渡ることになった主人公の父親(日本名・三郎)の話が交互に語られ、呉明益の作品には欠かせない台北の中華商場をはじめ、のちの作品にも共通するさまざまなモチーフが出てきます。

 そして、神奈川の現在の大和市にある高座海軍工廠で三郎は平岡君という日本人の青年に出会います。実はこの時期の高座海軍工廠では平岡公威、のちの三島由紀夫が勤労動員で働いており、著者は「父がもし三島と出会っていたら…?」という想像力でもって、若き日の三島のことも描いています。

 

 主人公は友人とホウタクヤダケという竹の花を見に行ったことをきっかけに、眠りのリズムが狂っていきます。眠りが3時間ずつ後ろにずれていき、その時間になると必ず眠ってしまうようになったのです。

 規則性があるとはいえ、決まった時間になると必ず眠ってしまうというのは日常生活を営む上で大きな問題です。

 そのため、主人公は眠りについて研究している先生を訪ね、さらには日本にいる先生と父の足跡をたどります。

 

 一方、日本に行けば白米を食べられると聞いた三郎は少年工に志願し、日本と日本人になることを目指します。

 しかし、戦局は悪化の一途をたどり、三郎はB29の空襲に怯えながらB29を迎撃するための「雷電」戦闘機の生産に励むことになるのです。

 主人公は自分ではコントロールできない眠りの中で、この若き日の父の人生とつながっていきます。

 

 父の日本での体験が父にとってどのようなものであったのか、その後の父の人生にいかなる刻印を残したのかが本書の1つのテーマになります。

 「日本人」になろうとして日本に渡り、終戦とともに「戦勝国」の国民に戻り、台湾へと帰ってきた父。戦争が起こってしまったこと、そして終わってしまったことによって父の人生は大きく変化しました。これは同時に平岡君にとっても同じことであり、その後の平岡君の人生を規定しました。

 

 このようにこの小説は父の人生だけでなく、「帝国としての日本」にも切り込むものとなっています。『自転車泥棒』のときにも感じましたが、呉明益の作品には台湾にとどまらず東アジアに広がっていくような視点があります。

 好みもあるでしょうが、個人的にはややありがちな神話的な話である『複眼人』よりも、少しオカルトめいた眠りの話と具体的な歴史をつなげた『眠りの航路』のほうが面白かったですね。

 文句なしに面白い小説だと思います。