東浩紀、『動物化するするポストモダン』から『2』への変化

 http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20070325に書いた東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』の補足を少し。

 そこで『動物化するポストモダン』と今作を比べるとけっこう変化が目立つと書きましたが、特に注目されるのは『ゲーム的リアリズムの誕生』の付録として取り上げられている『AIR』に対する評価の違い。

 (『AIR』の)一〇時間以上にも及ぶプレイ時間の後半は、実質的な選択肢もなく、ヒロインのメロドラマが語られていくのを淡々と読むだけだ。そしてそのメロドラマも「不治の病」「前世からの宿命」「友だちの作れない孤独な女の子」といった萌え要素が組み合わせられて作られた、きわめて類型的で抽象的な物語である。物語の舞台がどこなのか、ヒロインの病とはいかなる病なのか、前世はどんな時代なのか、そのような重要な箇所がすべて曖昧なまま、『AIR』の物語はただ設定だけを組み合わせた骨組みとして進んでいく。
  <中略>
 したがって、彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それらの萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。『動物化するポストモダン』(114ー115p)

 
 このように、『ゲーム的リアリズムの誕生』ではメタレベルの工夫を張り巡らすことで一種のオタク批判として機能していると評価されている『AIR』についても、『動物化するポストモダン』では単なる「萌え要素」のうまい組み合わせとして評価されているにすぎません。
 
 また、『動物化するポストモダン』で取り上げられている『YU-NO』は、その紹介を読む限り、明らかに精神分析的なオタク批判であるのに、そういった部分についてはあまり注目していません。

 もともと東浩紀は「庵野秀明は、いかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(『郵便的不安たち』所収)に見られるように、オタク的要素に反応しつつもそれを使ってオタク批判を行うような作品を評価していただけに、今回の『ゲーム的リアリズムの誕生』での分析は、その地点に戻ったような印象もあります。
 逆に『動物化するポストモダン』では「動物化」や「データベース」いったキーワードとオタク的世界観の全面化をするために、オタク批判的なものへの評価はあえて抑圧していたと言ってもいいでしょう。

 さらに『ゲーム的リアリズムの誕生』では、一時期東浩紀がこだわっていた「工学的なもの」への注目もありません。2002年4月号の「大航海」での斎藤環との対談(斎藤環『解離のポップ・スキル』所収)の中で東浩紀は、

 東:たとえば、ゲーム・クリエイターはシステムをデザインする人で、シナリオを書いたり絵を描いたりするわけじゃない。彼らに重要なのはドリームキャストプレイステーション2のプラットフォームの違いであって、文学性であったりメッセージだったりはしない。文学性やメッセージがなくても作品は作れるが、ハードの仕様を知らなくては作品は作れない。これは工学的な知識の優位の一例ですよ。(『解離のポップ・スキル』245p)

と述べていますが、この辺りの発言と、たとえば今作での『ひぐらしのなく頃に』への評価はずいぶん違っているような…。

 自分は美少女ゲームとかをまったくしないので『動物化するポストモダン』での評価と今作での評価のどちらが妥当なのかどうかは分かりませんが、東浩紀文芸時評とかが好きだった身としては、東浩紀の「文学」への帰還を喜びたいところです。