ブルガーコフ『犬の心臓』

 世紀の傑作『巨匠とマルガリータ』の作者、ミハイル・ブルガーコフの初期の小説。
 いきなり「う、う、う、う、う、う、う、ぐう、ぐうぐ、ぐうう!おお、おれを見てくれ。おれは死にそうだ」という犬の一人称で始まるこの小説は、死んだ男の脳下垂体と精嚢を移植された犬が人間に変身するというSF的設定を持った小説。
 『巨匠とマルガリータ』では、モスクワに現われた悪魔ヴォランドの一味によって次々と精神病院送りになる人々の姿や、魔女となったマルガリータの暴走を圧倒的な筆致で描いてみせたブルガーコフですが、この『犬の心臓』も前半のテンションは非常に高い。
 野良犬シャリコフの一人称語りから、医師のプレオブラジェンスキー教授に拾われて犬の手術に至るまでの一連の流れは、野良犬の語りがあり、プレオブラジェンスキー教授の行う謎の若返り治療があり、ブルジョワ的な生活を続けるプレオブラジェンスキー教授に対するアパートの管理委員会の攻撃がありで息つく暇もない感じ。そしてブルガーコフがかつて医師だったというだけあって、手術のシーンも荒唐無稽なはずなのに真に迫るものがあります。


 ただ、後半の勢いは前半ほどではないかも。
 シャリコフが人間になってからもドタバタは繰り返されそれなりに面白いのですが、社会批判的な側面も色濃く出てくるために当時の社会状況からはなれた現在から読むとやや乗りきれない面もあります。もちろん、この「犬の心臓を持った人間」という設定が、当時の社会主義プロレタリアート、あるいはプロレタリアート的だとされているものを鋭く突いていて、それはそれで興味深いのですが、『巨匠とマルガリータ』のような突き抜けた普遍性のようなものまでには達していない気がします。
 また、全体的に戯曲っぽい感じで、さまざまな語りの工夫はあるものの小説としての密度はやや薄く感じます。


 それでもグロテスクな想像力を使いつつ、世の中のすべてを笑い飛ばしてみせるブルガーコフのパワーはさすが。
 ロシアの小説というとカーニバル的な場面が描かれる場面が多いですが、世界の秩序が転倒し続けるこの小説は最初っから最後までカーニバルのシーンが続くようなもの。『巨匠とマルガリータ』を予感させるような小説です。


犬の心臓 (KAWADEルネサンス)
ミハイル・A・ブルガーコフ 水野 忠夫
4309205879