小宮友根『実践の中のジェンダー』

 副題は「法システムの社会学的記述」。
 正直、タイトルでこの本を「面白そう」と感じる人は少ないと思いますが(「法システム」という表現に「ルーマンか!」と反応する人くらいかな?)、これは面白い!
 ここ数年、以前ほど社会学の本を読まなくなっていたのですが、久々に「社会学の存在意義」みたいなものを感じさせてくれた本でした。


 この本は2部仕立てになっていて、第1部「社会秩序の記述」は理論編、第2部の「法的実践の中のジェンダー」はその理論を使って強姦罪とその裁判をめぐる問題、ポルノグラフィの規制問題を分析した内容になっています。
 第1部はジュディス・バトラーの理論の分析から始まり、オースティンとデリダのオースティン批判を扱って、さらにウィトゲンシュタインを絡めながらルーマンやゴフマン、そしてエスノメソドロジーへと理論を進めていくという非常に濃密な内容で、理論社会学に興味があるなら「とにかく読め」と言いたいです。
 特にルーマンエスノメソドロジーに関しては、「そもそもあれは何をやっているんだ?」と常日頃から疑問を持っている人もいるでしょうから(そもそも知らない人が多いのでしょうが…)、そういう人にはこの本は非常におすすめです。


 ただ、この本の内容は非常に濃密で自分の力ではきれいに要約したりするのは不可能なので、ここからは自分の視点から見て面白かったところからこの本の問題意識を再構成してみたいと思います(あくまで自分なりの視点なので著者の言いたいところを外しているかもしれません)。


 まず、この本で感心したのはルーマンの社会秩序についての考えを次のようにまとめている所。

 ・可能なふるまいの限定(構造)が、あるふるまい(作動)を それとして理解可能にしていること
 ・あるふるまい(作動)が、可能なふるまいの限定(構造)をそれとして理解可能にしていること(75p)

 
 例えば、ある男がのこぎりを材木に当ててそれを前後に動かしているとします。このことを「運動している」「おがくずを作り出している」などとも記述することができますが、のこぎりの使用目的を知っている私たちはそのふるまいを「材木を切っている」と記述するでしょう。また、知り合いのおばさんが「今日も暑いですね」と言ってきたら、それは「暑い」ということを報告しているのではなく「挨拶」として捉えられるでしょう。
 このように、私たちはあるふるまいをある構造(社会的な常識、慣習など)のもとで理解しています。無理をすればいくらでも解釈ができるふるまいを、一定の意味連関のもとで理解するのです。
 

 逆に、あるふるまいが構造を可視化することもあります。例えば、あるメーカーが「女子向けスマートホン」として「色がピンクでマニュアルがシンプル、占いアプリ搭載」という特徴の商品を売りだしたとしたら、少なくともそのメーカーでは「女子はピンクが好きで複雑なマニュアルを読むのが苦手で占いが好き」という想定をしていることがわかります(まあこのような古いイメージに反発する人も多いでしょうが)。また、災害が起こったあとの避難所で、誰が命令するわけでもないのに男性が外の様子を見に行き女性が食事の準備をしたとします。そうすると、ここではある種の男性と女性の役割のちがいが人びとに共有されていることがわかります。


 しかし、この構造が常に「正しい」わけではありません。特に後半にあげた「女子向けスマートホン」と「避難所での役割分担」の例については、「古臭い男女の色分けだ」あるいは「女性差別だ」と感じた人もいるでしょう。
 「ジェンダー」の問題とはまさにここにあります。先進国では人権概念が浸透してきたこともあって、女性へのあからさまな差別はなくなってきました。法律上はだいたい「男女平等」の社会になっています。ところが、女性を「従属的なものとしてみる」「性的なものとしてみる」といった社会の「構造」のようなものはがなくなったとはいえません。


 例えば、「酒宴の席でお酌を期待される」「カラオケでデュエットを強要される」「職場で恋人の有無やデートの内容などを聞かれる」といったことは未だに存在するでしょう。
 これに対して「若手の男性社員だってお酌をさせられるし、若手の男性社員は酒宴の席で一発芸を強要されるし、先輩に職場で恋人の有無やデートの内容などを聞かれることもある」と反論することは可能です。確かに個々の事例を見れば女性に限ったことではないかもしれません。
 けれども、男性社員は年齢が上がれば、例えば入社10年とかになればこうしたことをさせられるケースはかなり稀になるでしょう。一方、入社10年の女性社員ならまだこうしたことをされる可能性があるのではないでしょうか?
 やはり、ここには女性を「性的なものとしてみる」文化があり、そうした「性的なものとしてみる」文化を告発するために「セクハラ」という言葉が導入され、そしてこの言葉がここまで広がったのだと思います(もちろん、ここであげた例はすべて「パワハラ」となるのかもしれませんが、流れをみていると「セクハラ」あっての「パワハラ」という感じに見えます)。


 この本の第2部ではそうした「ジェンダー」の問題を、「強姦罪」、「ポルノグラフィ」に対する法のあり方から読み解いていきます。
 まずは「強姦罪」の問題。もちろん強姦罪の被害者のほとんどが女性であり、「女性に対する犯罪」と言っていいほどのものですが、それ以外にも強姦罪では常に被害者の意思、さらには被害者のパーソナリティが問題になります。
 強姦か和姦かを区別するのは被害者の意思です。しかし、被害者女性が当初は同意したのにあとから何らかの理由によって「強姦だった」と主張する可能性は排除できません。だから、法廷では被害者の同意があったかどうか、そして被害者の供述が信用できるかが焦点になります。
 ところが、普通の殺人罪などではまず第一に重視されるのは加害者の意思(=殺意)の有無であり、被害者が「殺されたがっていたか?」ということは嘱託殺人などごく特殊なケースを除き問題になりません。あくまでもその意思やパーソナリティが問われるのは加害者です。
 一方、強姦罪では加害者の意思よりも被害者の意思が重要視され、その意志の有無はときに被害者のパーソナリティから類推されます。被害者が風俗店に勤めていたり、直前に性的内容を含む王様ゲームをやってたり、男性経験が豊富であれば、「同意があった、あるいは強い抵抗はなかった」と見られがちですし、逆に被害者が性体験のない少女であれば「被害者は怖くて抵抗できなかった」などと考えられがちです。
 強姦罪の裁判は、裁判官や弁護士にその意思はなくても、ときに「強姦されても仕方がない女性」というカテゴリーをつくり出してしまう歪んだ構造を内包しているのです。


 さらに著者は最後の第7章でキャサリン・マッキノンらによる「反ポルノグラフィ法」について検討しています。
 1983年、マッキノンは法哲学者のドゥウォーキンらと「反ポルノグラフィ公民権条例」の草案をつくり、それを元にした条例がミネソタ州ミネアポリス市やインディアナ州インディアナポリス市に提案され、インディアナポリスでは成立したましたが、最終的に連邦最高裁判所によって「表現の自由」に反し違憲であるとされ、条例は無効になりました。
 実際、この本の252pに載っている「ポルノグラフィの定義」を読み、これにひっかかる「表現」が規制されるとなると明らかに「表現の自由」と衝突します。低俗で不快であってもすべての「表現」を守ることに「表現の自由」の意義があり、それが民主主義の根幹を支えるものだからです。
 けれども、マッキノンはポルノグラフィを一種の「行為」として捉え、「表現」とは違うレベルでポルノグラフィを規制しようと考えています。それらは、例えば「ポルノグラフィへの強制行為」、「ポルノグラフィの押し付け」、「ポルノグラフィを原因とする暴行行為」、「ポルノグラフィを通じた名誉毀損」、「ポルノグラフィの取引行為」などです(著者も指摘するように最後の「ポルノグラフィの取引行為」を問題視すると当然ながら「表現の自由」と衝突する(254p))。


 個人的にはこの論考を読んでも、「反ポルノグラフィ公民権条例」には賛成しないでしょうが(かなり範囲が広くとれるポルノグラフィの定義と「ポルノグラフィの押し付け」、「ポルノグラフィの取引行為」の禁止はやはり問題が多いと思う)、この第7章の論考はかなり鋭いものも含んでいて、「ポルノグラフィの規制」、あるいは広く差別の問題などを考えるときに重要になる見方を提示していると思います。
 以下、長いですがこの章の結論部分を引用します。

 ポルノグラフィの被害についての議論が、ひとたび起こると脅迫的なまでに「検閲の是非」「法規制の是非」へと収斂していくことは、ちょうどそれと同じような意味で、女性が女性の経験を語る権利を奪ってしまうように思う。表現をおこなう「個人」が他の「個人」に与える影響はどの程度有害なのか。このように問いを立てたとたん、「女性であるがゆえに受ける被害」を語る空間は失われてしまうからである。本章が辿ってきたのは、その収斂が、「表現か行為か」という問いのもとで生じていく、論理的な過程である。
 だが、この収斂は奇妙なことである。あきらかに、「表現の自由」をめぐる議論は、ポルノグラフィをめぐる被害についての議論の一部分でしかないからだ。にもかかわらず、「表現の自由」という議論空間こそポルノグラフィについて「正しく」語るための空間だとされてしまうなら、そこで生じているのは、専門的な法的概念のもとでおこなわれる世界記述によって、私たちの(とりわけ女性の)日常的な経験の重みが上書きされてしまうような、ひとつの「中傷効果」だということができるだろう。それゆえ、マッキノンたちが「ポルノグラフィ」という言葉を定義しなおそうとしたことは、多様な文脈にわたる性暴力被害の経験を、女性の身体に与えられる文化的<意味>のもとで生じる、「同じ」性差別的被害として理解しなおさせ、その経験について語る権利を取り戻そうとする、「革命」の試みだったのである。(284p)


 ここ最近、経済学が大量のデータを処理して社会問題を洗い出したり(例えば、スティーヴン・レヴィット , スティーヴン・ダブナー『ヤバい経済学』とか)、ランダム化対照試行によって社会問題の解決の糸口を探ったり(アビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』とか)していて、「社会学もいずれ経済学に吸収されていくのではないか?」と危惧を抱いていましたが、この本を読んで、データだけでは捉えられない社会問題の語られ方と構造の複雑な関係を読み解くことが社会学の一つの役割なんだと改めて認識出来ました。


実践の中のジェンダー−法システムの社会学的記述
小宮友根
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