水島治郎編『アウトサイダー・ポリティクス』(岩波書店)

 なんといってもトランプが代表例ですが、近年の政治では政治経験がほとんどない、あるいはまったくない人物が大統領などの指導者の地位につくケースが増えています。

 また、議院内閣制の国においても、新興政党が勢力を伸ばして無視しがたい勢力になっている国も増えています(ドイツのAfDなど)。

 こうした状況を本書では「アウトサイダー・ポリティクス」と名付けています。

 既存の政治の外側からのチャレンジャーはいつの時代にもいましたが、そうした勢力が短期間で政権に手の届くような位置まで上り詰めるようになったのが近年の特徴と言えるでしょう。

 

 目次を見ればわかるように、さまざまな国の事例が取り上げられており、特にラテンアメリカ、フィリピン、日本のれいわ新選組といった欧米以外の事例が取り上げられているのが大きな特徴だと思います。

 以下では、面白かった章だけ簡単に紹介していきますが、現代の民主主義を考えるうえでの重要な知見が詰まっている本になっています。

 

 目次は以下の通り。

 

はじめに アウトサイダーの時代なのか……………水島治郎 

第Ⅰ部 現代政治をどう見るか

 第一章 欧州ポピュリスト政党の多様性――概念設定と比較分析(古賀光生)
 第二章 西ヨーロッパにおける自由化・市場化の進展と反移民急進右翼政党の「主流化」
     ――世紀転換期の民衆層急進化の政治史に向けて(中山洋平)
 第三章 「アウトサイダー」時代のメディアと政治
     ――脱正統化される「二〇世紀の主流派連合」(水島治郎)

第Ⅱ部 転回するヨーロッパ政治――既成政治の融解

 第四章 英国における左右のポピュリズムの明暗

     ――問われる統治力と応答力(今井貴子)
 第五章 右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の「主流化」
     ――若者と旧東ドイツにおける支持とその背景(野田昌吾)
 第六章 アウトサイダーのジレンマ
     ――イタリアにおける五つ星運動の政治路線(伊藤武
 第七章 フランスから見みた「ヨーロッパの極右・ポピュリスト政党」(土倉莞爾)
 第八章 鼎立するベルギーのポピュリズム(柴田拓海)
 第九章 福祉の代替か、アートの拠点か、犯罪か
     ――オランダにおける空き家占拠運動の六〇年(作内由子)

第Ⅲ部 環太平洋世界はいま――交錯する新旧の政治

 第一〇章 トランプ派の「メインストリーム化」と民主党の「過激化」?
     ――二〇二四年アメリカ大統領選挙の分析(西山隆行)
 第一一章 なぜラテンアメリカの人びとは「異端者」を選ぶのか?(上谷直克)
 第一二章 フィリピン――食いものにされる「変革」への希望(日下渉)
 第一三章 れいわ新選組を阻む壁
     ――日本の左派ポピュリズム政党の限界(中北浩爾)
 第一四章 ポピュリズムへの防波堤としての参議院
     ――郵政民営化日本維新の会希望の党と第二院(高宮秀典)

 おわりに……………水島治郎

 

 第2章・中山洋平「西ヨーロッパにおける自由化・市場化の進展と反移民急進右翼政党の「主流化」

 これは論争的で面白い論考。急進右派支持の理由には経済説と文化説があり、マスコミとは違って政治学では後者が優勢ですが、「主流化」を考える上では前者も外せないと主張する論文になっています。

 経済説(急進右派の支持層はグローバル化の敗者)が否定されるのは、これを肯定すると既存の欧州の緊縮・市場化路線を否定しなければならないからではないかと著者は考えており、そこに一種のバイアスを見ています。

 

 ちなみに本章の1つの仮想敵が中井遼『欧州の排外主義とナショナリズム』であり、経済説がいくら論破しても蘇ってくる「ゾンビ仮説」などとは言えないということを主張するものです。

 

 また、この流れで出てくる注1の次の記述は興味深いですね。

 幸か不幸か、この文脈は日本には全く当てはまらない。言うに足る反移民(排外主義)急進右翼政党が(これまでのところ)存在していないこと以上に、膨大な国内貯蓄を食い潰すまでは無制約に財政赤字を積み上げて、市場化や(相対的に緩やかな)緊縮に伴う民衆層の痛みを和らげる政策を打ち続ける、という、(コロナ期を除く)この40年の西ヨーロッパではおよそ現実的ではない選択肢を実際に採りえたからだ。(50p)

 

 第3章・水島治郎「「アウトサイダー」時代のメディアと政治」

 医者や弁護士と比べてジャーナリストや政治家への信頼が下がっているのは後者が「半専門職」だからだという指摘が興味深い。

 20世紀は主流メディアや政党に入らなければ活動ができないため、それが一種の資格となり「専門職」のような形で機能していましたが、ネットの普及などによって情報発信のための資本や、政治活動のための中間組織へのアクセスなどが必須ではなくなり、ジャーナリストや政治家の専門職性が薄れたと指摘しています(政治家については特に比例代表制をとる国ではこの傾向が強くなる)。

 

 第4章・今井貴子「英国における左右のポピュリズムの明暗」

 近年の英国政治ではファラージが移民問題や反EUでイシュー・オーナーシップを握り続け、自らの政治目的を実現させる一方で、EU離脱の責任は全部保守党が背負うことになったと指摘しています。

 イギリスでは、ポピュリズムの嵐が吹き荒れたあとに保守党の一方的な敗北によって政権をとった労働党のスターマーは明確に反ポピュリズム的な立場を打ち出していますが、このスターマー政権がうまくいくかどうかは今後の先進国の政治を見るうえでも参考になりそうです。

 

 第5章・野田昌吾「右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の「主流化」」

 AfDの東独地域での強さについて単純な経済格差だけではなく、資産面での格差、各界の指導的地位における東出身者の過小代表といったことが指摘されていて興味深いです。

 

 第6章・伊藤武アウトサイダーのジレンマ」

 アウトサイダー政党が政権入りすることで難しい立場に立たされることをイタリアの五つ星運動の盛衰を追いながら分析した論考。五つ星運動の左寄りの経済政策に他党が追随すると、差異化のために急進的にならざるを得なかったことをマニフェストの分析などを通じて明らかにしています。
 五つ星運動イデオロギー色の薄いポピュリスト政党であり、アウトサイダーだった時期は他党の位置を考えながらさまざまな政策を打ち出して差異化に成功していましたが、政権に入ると逆に政策争点を主導する地位を奪われ、インサイダーとしての負の遺産を抱えることになったしまったと。

 

 第9章・作内由子「福祉の代替か、アートの拠点か、犯罪か」

 オランダにおける空き家占拠運動についての論考。政治というよりも社会運動の話という感じで、本書の中ではやや異色な論文ですが、一時はお墨付きを与えられた空き家占拠運動が住宅政策の市場化によって退潮したのは興味深いです。
 70年代後半以降のいわゆる「新自由主義」的な動きは、効率化や経済成長のためということに加えて、行政のやっかない問題を切り離したいという思いが原動力になったんでしょうね。

 

 第10章・西山隆行「トランプ派の「メインストリーム化」と民主党の「過激化」?」

 本人にそれほど強い立場があるわけではないがリベラルなカリフォルニアを地盤にするがゆえにリベラルに振る舞い、それゆえにそれに反する政策を出すと反発されるハリスのジレンマについての記述が興味深いです。

 日本にいるとわかりにくいですが、アメリカの有権者の中にはハリスを「極端だ」と考える人がトランプを「極端だ」と考える人と同じくらいいます。そしてトランプとハリスの双方を「極端だ」と考える人の67%がトランプに投票したというのです。(230p)

 

 第11章・上谷直克「なぜラテンアメリカの人びとは「異端者」を選ぶのか?」

 ポピュリズムの伝統を持つラテンアメリカにおけるアウトアイダーについて。もともと政治の属人化が進み、伝統的な政党システムが崩壊しているラテンアメリカではそもそも現職が弱く、つねにアウトサイダーが参入しやすい状態にあります。。

 さらに近年に関してはコモディティブームで豊かになった新しい中間層がブームの終焉で不安定化し、相対的剥奪感を抱いていることがボルソナロやミレイの当選の背景にあるのではないかと分析されています。

 

 第12章・日下渉「フィリピン」

 フィリピンではクライエンテリズムが地方選挙では根強く残る一方で、全国区の正副大統領選や上院選ではそれが効かず、属人的な政治が行われてきました。

 エストラダに代表される貧困層向けのポピュリズムは経済成長とともに下火になりましたが、その経済成長は海外就労や先進国からのコールセンターなどのアウトソーシングによって支えられており、単身赴任、感情労働アメリカの時差に合わせた労働などかなり労働者に無理がかかっているとのことです。

 また、中間層の規律や秩序を重んじる権威主義的志向が、ドゥテルテやマルコスJr当選の背景にあるのではないかとも指摘されています。

 

 第13章・中北浩爾「れいわ新選組を阻む壁」

 政治学者による政治家山本太郎論でもありけっこう新鮮。山本太郎の政治遍歴をたどりながら、れいわ新選組の躍進と、ぶち当たっている限界について論じています。

 最後の山本太郎小沢一郎とともに国民民主→立憲民主に移っていたらコービンやサンダースのような存在になっていたか? という問いは興味深いですね。

 

 相変わらず「ポピュリズム」は政治の世界のバズワードですし、さまざまな形で論じられていますが、どうしても分析対象を低く見る形になったしまいやすいです。

 その点、本書では「アウトサイダー」という言葉を使うことで、よりフラットな形で現代の政治現象を捉えることができているのではないかと思いました。

 

 自分に興味のある国についての論考を読むだけでも十分に得るものがあるかもしれませんが、各国の事情をそれぞれ掘り下げることで見えてくるところもあります。

 個人的にはポピュリズムの瞬間最大風速のピークを超えた感のあるイギリスとイタリアの政治の今後に注目したいと思いましたね。

 

 

 

 

『遠い山なみの光』

 カズオ・イシグロの小説を映画化した作品。

 1982年のイギリスと1952年の長崎を行き来するような形で進むストーリーで、82年に娘のニキが長崎からイギリスに移り住んだ母の悦子の過去を聞くという形で話が進んでいきます。

 1952年の長崎は、朝鮮戦争の特需もあって復興が進んでいますが、原爆の傷を背負った人間も多く、悦子が知り合う佐知子の娘万里子も被爆しています。

 ちょうど戦争の傷に蓋がされようとしている時で、このあたりは団地に住む悦子と、あばら家に住む佐知子の対比という形で描かれます。

 

 こうした時代を描こうとするとき、問題となるのは俳優が現代的すぎて浮かないか? という心配なのですが、その点、本作は広瀬すずが安定の存在感を見せ、1950年代の女性をしっかりと演じています。

 このあたりは今までくだらない仕事を受けてこなかったキャリアが生きていますね。映画女優としての貫禄あります。

 佐知子を演じる二階堂ふみも悦子の夫の松下洸平もいいですし、役者に関してはいいと思います。画に関していうともうちょい予算があれば…という部分もありますが、撮影に関してもいいと思います。

 

 

 以下、ネタバレ的な部分も含めて書きます。未見の人は読まないほうがいいかも。

 

 

 

 

 この映画にはある種の仕掛けがあって、それが映画の中で感じさせる違和感を最終的には解消されるんですが、個人的には三浦友和のエピソードをどう位置づけるべきなのかはちょっとよくわかりませんでした。悦子の語る話が虚構であるならば、三浦友和の存在も虚構なのでしょうか?(このあたり原作を読めばわかるのかもしれませんが)

 あと、広瀬すずが猫を沈めるカットがあっても良かった気がするのですが、ここはどうなんでしょう?

 

ダニロ・キシュ『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』(松籟社)

 20世紀屈指の長編の『砂時計』「泣ける短編」として分画市場でも屈指の作品である「少年と犬」(『若き日の哀しみ』所収)を送り出したダニロ・キシュの連作短編集。

 基本的には、20世紀前半に活動した共産主義者の悲劇的な運命を描いた話ですが、「犬と書物」だけは14世紀のフランスにおけるユダヤ教徒の迫害を扱っています。

 

 歴史は勝者が書く。伝承は民衆が紡ぎ出す。文学者たちは空想する。確かなものは、死だけである。(『死者の百科事典』119p)

 

 これはキシュの『死者の百科事典』の中の言葉ですが、本作品では勝者によって書かれなかった敗者の事績を描こうとしています。

 引用文によれば文学者は空想するわけですが、本書は比較的淡々と進み、『砂時計』や『若き日の哀しみ』に見られた叙情性はほとんどみられません。

 

 ただし、そんな中で異様な迫力を持っているのが表題作の「ボリス・ダヴィドヴィチのための墓」。

 ボリス・ダヴィドヴィチは、ノフスキという名前でロシア革命に参加した人物として描かれており、前半はロシア革命〜内戦期に彼が何をしていたのかということが断片的に語られていきます。

 

 後半はスターリン体制のもとで逮捕されたノフスキと取調官フェデューキンの対決が描かれますが、ノフスキに自白(もちろんでっち上げの)をさせるためのフェデューキンのがとった策は、ノフスキを痛めつけることではなく、ノフスキの眼の前でまったく関わりのない若者を殺していくことでした。

 この短編集の文章はキシュにしては淡々と積み重ねられているのですが、ここの場面の緊迫感、残酷さは際立っています。

 他の短編を読み始めて「いまいちかな」と思っても、この「ボリス・ダヴィドヴィチのための墓」だけは読んでほしいですね。

 

 

 

曽我謙悟『21世紀の日本政治』

 「21世紀の日本政治」とはなかなか大きなタイトルですが、そこは『日本の地方政府』中公新書)で日本の地方自治に関して新書サイズで濃密に分析してみせた著者であり、期待通りの読み応えのある分析がなされています。

 副題は「グローバル化とデジタル化の中で」。日本がグローバル化やデジタル化の波に乗り切れいないのはなぜなのか? ということを論じた本になります。

 

 「日本政治」についての本なので、日本のグローバル化やデジタル化の遅れの原因を政治に求めているのですが、以下のように単純に日本の政治が悪かったという本ではありません。

 変えるのか変えないのか、どの方向に変えるのか。それを提示するのは政治に役割である。日本の政治は、人々にこの方向性をめぐる選択を迫ることなく、政権が次々と浮かび上がる課題への対応を行うものになっている。そして、政権が課題解決を一定程度行うことが、社会の方向性についての争点化を抑えてしまう。こうして皮肉にも、政治がよくやっているからこそ、社会の大きな変化が生じにくくなる。(はじめに ⅰ p)

 

 つまり、政治が国民にグローバル化やデジタル化の是非を正面から問うことなく、時の政権が場当たり的に切り抜けてきたので、大きな変化が生じなかったということです。

 最後の第8章で「最悪の政治と最悪の経済結果でもない。及第点は十分に与えられるであろう」(283p)という見方に賛意を示しつつ、果たしてそれで良かったのか? 今後もこれが続けられるのか? というのが本書の問題意識です。

 

 そのうえで本書は、政治がグローバル化やデジタル化の是非を正面から問うてこなかったこと、その背景にある政治の要因を実証的に明らかにしようとします。

 問題があまりに大きいために、実証的な部分については少し不十分ではないかと思う部分もあるのですが、とりあえずこのような大きな問題意識を持った1冊です。

 

 目次は以下の通り。

はじめに——悪くない政治のほどほどの帰結

第1章 なぜグローバル化・デジタル化を論じるのか

第2章 グローバル化・デジタル化を左右するのはいかなる政策か

第3章 労働政策は日本型雇用を変えたのか

第4章 高等教育政策は大学を変えたか

第5章 政党政治はいかに政策を決めるのか

第6章 政治地理学から政党政治はどう見えるか

第7章 なぜ包括的な利益代表が成立しないのか

第8章 日本政治はどこへ向かうのか

 

 本書が取り組むの日本のグローバル化やデジタル化に対する遅れという問題なのですが、これに政治が向き合ったかどうかというのは何を見ればわかるのでしょうか?

 著者によれば、それは雇用政策と高等教育政策だといいます。グローバル化もデジタル化も雇用不安を生み出す可能性があり、この雇用不安に対する政策が必要になります。また、グローバル化やデジタル化に対応するために高等教育の充実や拡充が必要です。

 しかし、基本的にここ30年ほどで大きな政策転換はなかったし、政策的な対立軸にもならなかったというのが著者の見立てです。

 

 高等教育問題はともかくとして、雇用政策についてはここ30年ほどずっと政治的な問題で有り続けていたと思う人もいると思います。

 例えば、民主党への政権交代を生み出した1つの要因は「年越し派遣村」などに見られる非正規雇用の問題だったと思いますし、第2次安倍政権は「働き方改革」を進めました。

 

 ただ、それによって「日本型雇用」が変わったかといえば、変わっていないと考える人が多いでしょう。

 技能形成を行うための雇用保険を原資とした助成制度、女性の活用、残業規制、最低賃金の引き上げなど、さまざまな手が打たれてきましたが、日本型雇用を変えるような包括的な改革、そして改革をめぐる政党間の対立があったかというと、それはなかったと言えるかもしれません。

 どのような産業を重視し、そのためにどのような技能形成を図るのかといった国家的な戦略はなく、メンバーシップ型雇用と呼ばれる日本の雇用慣行を大きく変えるような動きはなかったと言えます。

 

 高等教育についてみると、ここ30年ほどで大学への進学者は増えました。しかし、それは短大進学者が減って、その分大学進学者が増えたためです(132p図19参照)。

 大学の学部で見ると、STEAM分野の拡張が求められていますが、大きなウェイトを占めるのは減少傾向にあるものの「社会科学‐商学・経済学」であり、伸びているのは「保健‐その他」です(135p図21参照)。

 また、修士課程に進むものは2000年代前半まで伸びましたがその後は横ばいで、博士への進学率は減少傾向となっています。専門職大学院もそれほど伸びておらず、高学歴化はそれほど進んでいない状況です。

 

 高等教育政策については、小泉政権下で国立大学の独立行政法人化が決まったものの、どちらかといえば公務員削減が主眼に置かれており、あるべき国立大学の姿が明確にされたわけではありませんでした。

 第2次安倍政権下の有識者会議では大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型に分けるアイディアなども示されましたが、これについてもその後明確に政策が進められていったわけではありません。

 科学技術政策では「選択と集中」が進められましたが、こちらも現在のところ大きな効果を上げているとは言えません。

 そういった中で、日本の研究能力の伸びは低迷しています。

 

 相変わらず、「日本の高等教育は就業段階前のメリトクラシーの装置という性格が強」(181p)く、企業と大学での技能形成の分担などはあまり進みませんでした。これは大学のせいだけではなく、企業が求める人材に必要な能力を明確化しなかったからでもあります(メンバーシップ型雇用の存置)。

 

 では、なぜ日本では雇用政策や高等教育政策にについて大きな政策転換が行われなかったのか? 著者はその要因を政党間の競争がうまくはたらかなかったことに求めます。

 著者はまずはグローバル化、デジタル化と中間層の関係について次のように述べています。ここで引っかかる人はいると思いますし、自分もそこまで単純に言えないだろと思いますが、とりあえずは著者の議論を追っていくことにします。

 定義上、中間層は成長から果実を享受できると同時に、成長しなければ貧しい状態に陥る。だからこそ、中間層は成長を強く支持し、成長に必要な公共財を政府が提供することを重視する。そして、現在において成長をもたらすのは、グローバル化とデジタル化である。グローバル化もデジタル化も中間層にとっては正の影響を与える。(190−191p)

 

 中間層の声を反映する政治はデモクラシーであり、業績投票にもとづく政党政治が上手く機能することが必要です。つまり、与党が経済を上手く成長させれば与党に票が入り、上手くできなければ野党に票が入るといった形になることがポイントになります。

 上記の説明は小選挙区制のもとでの二大政党制を念頭に置いていますが、比例代表制のもとでの多党制のもとでも政党間の支持獲得競争がうまくはたらけば、中間層の声を反映するような政治は可能です。

 

 日本でグローバル化やデジタル化がうまく争点化されなかった理由として、本書では選挙制度が混合制であることがあげられています。

 衆議院小選挙区が中心ですが、比例代表の部分があり、また、参議院もあることで業績投票にもとづく政党政治は成立しにくいのです。

 

 政党の競争を見ていくうえで、選挙区制をとっている国では有権者の地理的な分布が問題になります。

 日本でも都市部と農村部を比較して、自民党の農村部の強さを指摘する議論がありました。ですが、都市化の進展とともに農村部中心の政策だけでは選挙に勝てなくなっています。

 実際、参議院選挙の選挙区における自民党の相対得票率と都市化の関係を見ていくと、1965年や80年に顕著に見られる都市化とともに自民党の相対得票率が下がる傾きが、2010年や2022年ではかなり緩やかになっています(227p図33参照)。

 

 JGSSの2017年版と18年版の調査を見ると、大都市中心部や大都市郊外は学歴も高く、同性婚への賛成率が高いなどリベラルで、大都市中心部では経済的な再分配傾向がやや弱いです。一方、農山漁村では高卒の割合が高く、同性婚への反対傾向が強いといった特徴があります(235p図39、236p図40、41参照)。

 このような違いと政党支持がどのような関係にあるかというと、農山漁村自民党支持が高いという傾向は見られますが、それ以外の地域(大都市中心部、大都市郊外、中心都市地域、町村部)で大きな違いは見られません(237p図42参照)。

  

 日本の場合、居住地域の違いによって学歴や文化的なスタンスの違いが見られるものの、アメリカのように政党支持を分断する違いにまでは至っていません。

 日本には製造業の比率が高いものの、その雇用を失いつつあるラストベルトのような地域はありませんし、ハイエンド・サービス業が集中する地域は東京に限られており(ただし大阪は製造業の衰退とハイエンド・サービス業の一定程度の変化を経験していると言える)、都市部と非都市部での政党支持の文化は弱くなっています。

 

 本書では、日本におけるピケティの言う「バラモン左翼」の存在を可視化するために、大卒及び大学院卒で同性婚あるいは外国人労働者に賛成、あるいはどちらかといえば賛成と答えている者を取り出して分析しています。

 それによると日本の「バラモン左翼」は有権者の1割強ほどで、自民党以外に投票する割合が5割を超えますが、自民党にも3割近くが投票しており、それ以外の人々(自民以外40%台前半、自民が25〜30%ほど)と特に差はありません(255p)。

 学歴などによる政党支持の違いも日本ではそれほど大きくないと言えます。

 

 こうしたこともあって、日本では知識経済・社会を明確に推進する政党と、そうではない政党との間での政策論議も成立しませんでした。

  本書が取り上げる雇用問題や高等教育問題について、当然ながら国会でも議論の対象となっているわけですが、例えば、高等教育問題について見てみると、国会審議が盛り上がったのは2019年の入試をめぐる議論で(271p図51参照、この年には英語の民間試験の導入見送りなどがあった)、大学のあり方をめぐって与野党が議論を戦わせたという形にはなっていません。

 

 では、どうすればいいのか? 本書の議論の流れから想定されるのは選挙制度改革ですが、著者は小選挙区制に1本化しようと、比例代表に1本化しようと政党同士の政策議論が機能するようになるとは考えてはいません。

 小選挙区の場合は有権者の地理的分布がはっきりしていないという問題がありますし、比例代表の場合はある種の連立政権的な存在である自民党が割れない限り、連立政権をめぐる交渉が可視化されないのではないか? という問題があります。

 90年代の政治改革がそれぞれの改革の整合性を考えないで進められたこともあって、選挙制度改革だけで政党政治が、そして大きな政策をめぐる議論が機能するようになるとは限らないというのが著者の考えです。

 

 というのが、大きく端折った本書の内容です。個々の分析には鋭い部分があり、このまとめでは取りこぼしている部分もたくさんあります。

 そのうえで引っかかるのは、途中でも紹介した「中間層は成長を支持し、その成長をもたらすのはグローバル化とデジタル化である」という認識だと思います。

 

 ここ30年の政治を見ると、確かに小泉政権は「成長」を志向し、規制緩和を行ってグローバル化を進めたと言えますが、これによって「格差」の問題が浮上し、この「格差」もまた中間層の大きな関心になったのではないでしょうか。

 雇用政策を見ても、第1次安倍政権の「成長」を狙ったホワイトカラー・エグゼンプションなどが世論の批判を浴びて失敗する一方で、最低賃金の引き上げなどの「格差是正」を目指した政策は世論の支持を受けて大きく進んでいます。これは中間層の関心が「成長」から「格差是正」へとウェイトを移したことが1つの理由なのではないかと思います(だから、グローバル化については雇用政策よりも外国人労働者政策の不在を問うても良かったのではないかと思う)。

 

 そうした中で、本来は自民党の「成長」に対して「格差是正」を行うべきだった民主党の経済政策が非常に緊縮的だったために支持を得られず、第2次安倍政権の「成長も格差是正も」というスタンスがある程度成功してしまったことも、(経済面での)大きな政策をめぐる政党間の議論が深まらなかった原因ではないかと個人的には考えています。

 もちろん、この背景には本書が指摘するような構造的な要因があるわけですが、それとともに日本の中間層が「成長」志向の政治に比較的早い段階でブレーキを踏み、それに第2次安倍政権が微温的な「成長と格差是正」の政治で応えたとも言えるのではないかと思います。

 そして、アメリカの状況などを見ていると「成長」(グローバル化やデジタル化)へのブレーキが必ずしも悪いものではなかった可能性もあるかと(もちろん、著者も言うように人口減少が続く中でこういうスタンスがいつまで続けられるかはわからない)。

 

 

 

『国宝』

 ようやく見てきました。

 「役者に演技をさせる」という点では李相日監督は今の現役の監督の中ではピカイチという感じですが、今回も役者の演技は素晴らしいです。

 吉沢亮横浜流星はともに期待以上の演技でしたし、吉沢亮の美形っぷりも際立ってました。渡辺謙田中泯もさすがの存在感で、役者の演技で3時間の上映時間を見せますね。

 

 一方、ストーリーとしては父を殺された極道の息子が歌舞伎の芸の道に一生を捧げるという「古さ」を感じさせる話ではありますし、上下巻の長編を映画化するにあたって、主人公を取り巻く女性の描写がおそらく端折られたのではないかということもあって(原作は未読)、女性については「芸の犠牲になった」という役割が目立つようになってしまっています。

 

 ただし、歌舞伎というテーマを描く以上、ある程度話が「古く」なるのは当然と言えば当然で、「血」や「家」といった古い価値観がずっと残り続けている場所を描こうとする限り、「古さ」を感じさせるストーリーとなるのは必然かもしれません。

 渡辺謙が子役たちに稽古をつけるシーンは、今の価値観からすると眉をひそめるものですが、あの虐待が美しい「形」を生み出しているのもまた事実であって、本作では歌舞伎の世界をそういうものだとして描いています。

 

 そして、その歌舞伎のシーンの見せ方、使い方が上手い。

 先程述べたように、かなりのボリュームの小説を圧縮して脚本化しているためにかなり端折られていると感じる部分が多いのですが、そのやや説明不足な感じをおぎなうのが歌舞伎のシーンで、美しいシーンとして観客を惹きつけるとともに、ストーリーの展開に説得力を与えるようなものとなっています。

 また、同じ演目が演じられるシーンが有るのですが、これはあとから見比べたくなりますね。3時間の映画ですが、意外とこれ目当てのリピーターもいるのかもしれません。

 

呉明益『海風クラブ』(KADOKAWA)

 現代の台湾を代表する作家である呉明益の長編。

 今まで日本に紹介されてきた呉明益の作品は、最初の短編集『歩道橋の魔術師』を除くと、日本の植民地統治を含んだ歴史を取り入れた作品である『自転車泥棒』や『眠りの航路』、エコロジー的な視点から台湾の自然を作品に活かした『複眼人』や『雨の島』といった2つの路線がありますが、今回の『海風クラブ』は後者の路線の作品です。

 

 ただし、過去の作風をなぞった作品かというとそんなことはなく、なかなか多面的な性格を持つ作品となっています。

 まず、本作には巨人が登場します。この巨人とはかつてはたくさんいたものの今は自然と一体化しながら滅びつつある存在です。台湾島に横たわっている最後の巨人が本作には登場します。

 この巨人の体内でもある洞窟の中で少年と少女が出会うことから物語が動き始めます。

 このようにこの小説は寓話のような形で始まります。

 台湾の山岳部に暮らす原住民たちの暮らしなどを織り交ぜながら語られる前半は「小説」というより「物語」といった名称が似合う感じです。

 

 ところが、寓話的に始まった物語は、途中で舞台となっている海豊村にセメント工場建設の話が持ち上がり、それに対する反対運動も起こります。

 この出来事は実際に台湾東部の花蓮県の和平村で起きたことをモデルにしており、著者もその反対運動などを取材してこの小説を書いています。

 同時に原住民の若者の苦悩や、セメント工場建設のために補償金を受け取ったものの車を買うくらいしか使い道を思いつかない原住民の姿なども描かれており、寓話的に始まったこの作品はリアルな世界とつながっていくわけです。

 

 さらにラストではまた寓話的な話に戻っていきます。

 ストーリーだけを聞くとエコロジー小説のような印象も受けますが、本書はこうして寓話とリアルな世界を往復することで台湾という島の古層から現代までを描こうとしています。

 個人的には、完成度としては『自転車泥棒』や『眠りの航路』の路線の作品に劣るとは思いますが、この『海風クラブ』が野心作であることは間違いないですね。

 

 

 

 

トマ・フィリポン『競争なきアメリカ』(みすず書房)

 アメリカといえば競争の国で、それがすぐれた製品やサービスを生み出していると考えられていますが、近年についてはそうでもないよ、ということを主張した本。

 著者は「トマ」という名前からもわかるようにフランス人で(ピケティもトマ・ピケティ)、1999年に経済学の博士号をとるためにアメリカに渡りました。そのとき、ノートパソコン、ネットのプロバイダー、航空券、ほとんどものがフランスよりも安かったといいます。

 ところが、2017年になると、ブロードバンドの料金はドイツ35.71ドル、フランス38.10ドルに対して、アメリカは66.17ドルになり(7p表Ⅰ.Ⅰ参照)、航空会社はヨーロッパでは乗客1人あたり7.84ドルの利益を上げたのに対して、北アメリカでは22.40ドルの利益を上げるようになりました(8p)。

 21世紀の最初の20年間で、アメリカは物価が高く、消費者がカモられる国に変貌してしまったのです。

 本書は、しっかりとした分析をもとにしてその理由を探っており、アメリカ経済のイメージを覆す刺激的な1冊となっています。

 

 目次は以下の通り。

はじめに
序論

I アメリカにおける市場支配力の高まり
1 経済学者はなぜ競争が好きなのか……なぜあなたもそうあるべきなのか
2 悪い集中、良い集中
3 市場支配力の増加
4 投資と生産性の低下
5 自由参入の失敗

II ヨーロッパの状況
6 一方、ヨーロッパではどうか
7 アメリカの物価は高すぎるのか
8 ヨーロッパ市場はどのように自由化したのか

III 政治経済学
9 ロビー活動
10 カネと政治

IV いくつかの産業を掘り下げる
11 バンカーの報酬はなぜ高いのか
12 アメリカの医療──自ら招いた禍
13 星を見上げて──トップ企業は本当に違うのか
14 規制すべきか否か、それが問題だ
15 買い手独占力と格差

結論

 

 1999年の段階でアメリカの航空券やネットのプロバイダー料金が安かったのは、70〜80年代にAT&Tの分割や規制緩和が行われたからだと考えられます。

 この政府の規制が新規参入を妨げて価格を高止まりさせているというのはわかりやすい例で、日本でも通信業界などで価格を下げるための新規参入が求められてきました。

 

 ただし、常に企業が増えれば価格が下がり、企業が集中すれば価格が上がるというわけではありません。

 ウォルマートでは1990年代に急成長し、5%以下だった市場シェアを2010年代後半には60%近くにまで引き上げました(36p図2.2参照)。一方、1980年代なかばから2000年代なかばにかけて、小売サービスの価格は急速に下がっており、アメリカの世帯が小売商品の購入費用を約30%節約できたと考えられています(37p)。

 つまり、ウォルマートの効率的な流通システムを構築し市場シェアを増大させたことが、消費者の利益になったと考えられるのです(労働市場の問題などはまた別ですが)。

 

 一方、航空業界の市場シェアをハーフィンダール・ハーシュマン指数(HHI)でみると、80年代に新しい航空会社が参入して下がったものの、2000年をすぎると合併によって上昇しています。

 これに伴って航空料金は上がり、特にサービスの向上があったわけでもないので、この企業集中は消費者にとってはマイナスだったと考えられます。

  

 このように同じ企業集中でも消費者にとってさまざまな影響があるのですが、アメリカ経済のここ20年の特徴の1つが企業利潤の対GDP比が高まっていることです。20世紀の終わりまで6〜7%で安定していたこの数字は近年では10%近くまで上昇しています(64p図3.4参照)。

 

 企業の利潤が増えることは悪いことではないように思えますが、アメリカでは利潤が増える一方で投資は低迷しています。純営業余剰に対する純投資比率はここ20年ほど低迷しており(76p図4.1参照)、資本ストックの伸び率も低迷しています(78p図4.2参照)。

 また生産性の伸びも弱く、企業集中が必ずしも超一流企業の台頭によるものではないこともうかがえます(各業界でウォルマートのような企業が台頭しているのであれば生産性も大きく伸びるはず)。

 企業の新規参入も減っており(97p図5.1参照)、合併・買収が増えたこともあって(100p図5.4参照)、アメリカの上場企業の数は減少しつつあります(101p図5.5参照)。

 

 こうした現象は世界中で起きているわけではありません。EUにおいては、特に企業の利潤が増えている現象は確認できませんし(123p図6.2参照)、アメリカのような企業の集中もありません(124p図6.3参照)。

 労働分配率を見ると、ユーロ圏では横ばい、アメリカでは低下となっており(129p図6.5参照)、IT化などが必然的に企業の利潤を高め、労働分配率を低下させたというわけでもなさそうです。

 

 物価を見ると、アメリカのほうが上昇しています。例えば、ビッグマックの価格を見ると、2000年にはアメリカで2.51ドル、ユーロ圏で2.56ユーロですが、2017年になるとアメリカでは5.30ドル、ユーロ圏では3.91ユーロとなっています(138p表7.1参照)。

 アメリカの価格はヨーロッパよりも15%上昇しましたが、賃金は7%しか上昇しておらず(145p)、マークアップ(企業の利潤)が増えたことがうかがえます。 

 

 つまり、アメリカでは、ヨーロッパに比べて国内競争が減少し、企業は国内の消費者に過大な価格を請求し、それで得た利潤を雇用や投資ではなく、配当や自社株買いに使われている状況です。

 また、参入障壁は上がり、反トラスト法の執行能力も下がっているといいうのです。

 90年代の終わりごろまではアメリカ経済はロールモデルとして機能しましたが、現在はそうとは言えないものになっているのです。

 

 では、なぜこうなってしまったのか? 本書がまず注目するのがロビー活動の問題です。

 ロビー活動には政治家に重要な情報を伝えるという役目もありますが、レント・シーキングをもたらすだけだという見方もあります。

 アメリカの鉄鋼会社はロビー活動を積み増して2018年にトランプ大統領に鉄鋼を輸入する際の関税を引き上げさせましたが、これによってアメリカの企業は鉄鋼を高い価格で買う羽目になりました。

 ここまであからさまなケースは少ないですが、ロビー活動が非効率を生み出している可能性は十分にあります。

 

 1990年代後半から2010年代前半にかけて、アメリカの大企業はロビー活動に費やす費用を大きく増やし、その総額はEUの企業の2倍以上です(196p図9.1参照)。

 S&P1500指数に採用された会社の中で、ロビー活動に積極的な企業は90年代後半には33%ほどでしたが、2010年代前半には42%ほどになっています(198p図9.2参照)。

 特に大企業がロビー活動に多額の費用を使っており、業界別で見ると金融業界がもっともさかんにロビー活動をしています(202p図9.4参照)。

 そして、献金額が大きな企業ほど自分たちに有利な規制を導入させているという研究もあります。

 

 政治家が献金を求める背景としては、選挙費用の増加があります。下院議員に当選するために必要な金額は80年代後半の3倍近くにまでなっています(210p図10.1参照)。

 「新人下院議員のために民主党が用意した2013年の文書では、新しい献金者発掘のために毎日最低でも4時間は電話をかけるように、と助言されていた」(210p)とのことで、アメリカでは選挙資金に対する規制にスーパーPACという抜け道があることもあって、選挙で当選するに政治家はとにかく資金を集める必要があります。

 ヨーロッパの各国と比べても、アメリカの選挙費用は多額であり(228p図10.5参照)、これが資金を持つ企業の政治への影響力を高めているのです。

 

 第4部では、金融、医療、インターネットの巨大企業といった個別のケースを見ています。

 金融業界の相対賃金をみると、1933年まで金融は高賃金の産業でしたが、その後賃金は低下し1980年まで非農業民間部門とほぼ同じになります。しかし、その後賃金は伸び始め、2000年頃には1933年までとほぼ同じレベルになっています(253p図11.4参照)。

 一方、金融仲介の効率はIT化の進展にもかかわらずそれほど上がっていないといいます(送金サービスだけは別ですが)。また、金融業では新規参入が減っており新陳代謝が進まない業界となっています。

 確かにフィンテック企業は出てきていますが、それが金融業の効率をどれだけ改善するかは見通し難い状況だといいます。

 

 医療業界をみると、アメリカの医療費は明らかに高額になっています。OECD諸国は対GDP比で10%程度の医療費を使っていますが、アメリカは対GDP比で18%ほどです(269p図12.4参照)。

 アメリカの医療は確かに高度ではありますが、管理コストが高く、市場が機能していないといいます。アメリカでは病院の合併が進んでいますが、これによって効率が改善しているとは言い難く、航空業界と同じように寡占化とともに料金が上がっているような状況です。

 また、アメリカではこうした病院の合併に対抗するために保険会社の合併も進んでいますが、これも医療の効率性を改善してはいません。

 

 次はインターネットの巨大企業、いわゆるGAFAMたちです。

 これらのスター企業こそアメリカ経済の強みであり、アメリカ経済の効率を大きく改善させたと考える人も多いでしょう。

 ただし、企業活動の影響が及ぶ範囲であるフットプリントを見ていくと、GAFAMの中でも違いが見えてきます。Amazonは雇用などの面で普通の企業とあまり変わりませんが、Amazonを除くGFAMをみると、この4社で株式市場の9.3%を占めがながら、雇用の0.25%しか占めていません(301p)。

 これらの企業の時価総額は確かに巨大ですが、これらの企業に何かあってもアメリカ経済全体の生産性はあまり変わらないと考えられます。

 

 GAFAMはワシントンを距離を取っていましたが、2010年代になってからロビー活動費を増やしています(309p図14.1参照)。独占敵な地位やデータの扱いなどをめぐってGAFAMが問題視されるようになると、それへの対応策としてロビー活動費を増やしたと考えられます。

 GAFAMのようなインターネット企業では、規模の経済とネットワーク効果がはたらき、集中が進みやすくなっています。

 しかし、それだけではなく、これらの企業はその巨大な資金力でライバルになりそうな企業を買収しています。FacebookInstagramやワッツアップを買収したようにです。

 こうした合併をどのように規制していくかは難しい問題ですが、とりあえずアメリカでは規制当局が有効な手を打てていない状況です。

 

 最後に労働市場における買い手独占の話がとり上げられています。独占といえば、売り手の問題と考えられがちですが、労働市場において雇う側の企業が1社しかなければ企業は労働力を買い叩くことができます、これが買い手独占の問題です。

 確かにウォルマートAmazonは消費者に安い製品を提供していますが、同時にサプライヤーや配送業者からリベートを取ったり、低賃金で労働者を働かせたりしているわけです。

 

 最後の結論において、著者は90年代と同じような競争が維持されていたらGDPは5%伸びたと推計しています。そして、競争の欠如が労働者から1.5兆ドルの所得を奪ったと推計しています(347p)。

 

 私たちはアメリカの大企業の株価の伸びなどを見て、アメリカ経済は日本に比べて大きく伸びていると考えがちですが、その恩恵が消費者や労働者に及んでいないということが本書を読むと見えてくると思います。

 本書の帯には、マーティン・ウルフの「ドナルド・トランプは本書で描かれる、欠陥資本主義の産物である」との言葉が載っていますが、本書はアメリカにおいて資本主義の鍵であるはずの競争が失われつつあることを教えてくれる本です。