ダニロ・キシュ『砂時計』読了

 かなり読む人を選ぶ小説かもしれませんが、これは面白い!

 帯に書かれた若島正の紹介文はこんな感じ。

 『砂時計』には、現実に書かれた一通の手紙が取り込まれている。その手紙の中に封印された、歴史的事実の重みを前にして、わたしたち読者は打ちひしがれるが、それと同時に、そのまわりに複雑な虚構の迷宮を築かずにはいられなかった、作者ダニロ・キシュの不屈の精神にも圧倒されるのだ。

 本を読む前にこの紹介文を読んでも全然ピンと来ないかもしれないけど、読み終えた今はこの紹介文が本当に的確だと思う。
 

 アウシュビッツで命を落としたというユダヤ人で作者ダニロ・キシュの父親エドゥアルド。
 この『砂時計』はこのエドゥアルド(作中ではE・Sと表記される)の人生の一部が、複雑かつ巧妙な構成によって語られます。

 影の揺らめき。それは燃え上がったと思えば消え入りそうになりしぼんでいくぎざぎざの炎のままに、天井と壁を近づけたり遠ざけたりしながら、物体の輪郭を崩し、立方体の表面を壊す。底面の黄色い粘土が、沈没する小舟の底板のように浮き上がり、そして、汚い泥水であふれたかのように、また、闇にひとり沈んでいく。室内全体が揺れている。広くなったり狭くなったり、あるいは体積は変化しないままに空間の位置を数センチメートルほど上下左右している。(9p)

 これがこの小説の冒頭。これは暗い室内にある一つのランプの描写なのですが、一読してわかるように非常に凝った描写で、まさに暗闇を手探りで進むかのような文章。
 そしてこの小説自体も、この文章と同じように暗闇を手探りで進むかのようです。
 

 さらにE・Sという人物名から連想するようなカフカ的な世界がこれに加わります。
 この小説は上記のような凝った文章で語られる部分の他に、「予審」、「証人尋問」という問答で構成されている部分が小説の全体像を浮かび上がらせるために用いられているのですが、これがまた過剰で官僚的で、独特の面白さをこの小説に与えています。
 例えば次のような部分。

 もっとも簡潔に、家が崩れた瞬間の心境について述べよ。
 一瞬の錯乱、茫然自失。
 茫然自失の後は?
 逃亡、動転、助けを呼ぶ。
 最初に駆けつけたのは誰か?
 運送屋が素手で、汚れたハンカチで埃から鼻と口を守りながら、瓦礫に駆け寄って、レンガと重いブロックを取り除いた。
 運送屋はどの階級に属しているか?
 死の親類という大階級に属しており、他にも、消防士、墓掘り、葬儀屋、医師、看護師、裁判官、死刑執行人、警察官、諜報員、強盗、司祭、ホジャ、ラビ、屠殺人(以下略 こんな感じでえんえんつづく)、その他が属している。
 運送屋と葬儀屋の間の、いかなる類似に気付いたか?
 地上に残されたものを、ある住処から別の住処へと移すという行動の類似。梱包された木箱を扱う際の冷ややかな手馴れた様子。ロープを必要とする点。日々の業務における物理学と形而上学。(115ー116p)

 このようなさまざまな断片が組み合わさり、そして最後の手紙へと行き着きます。
 この実在の手紙、これによって小説全体に意味が与えられ、そしてこの小説と手紙が相まって、手紙はそれ自体を超えた意味を、小説は書かれたこと以上の広がりを獲得するのです。

 かなりの難物ではありますが、「読む快楽」というものを充分に味合わせてくれる小説です。
 

 ちなみに松籟社というマイナー出版社で(ムージルの『特性のない男』なんかをだしています)、本屋にはあまりないと思いますが(ジュンク堂にもなかった)、2000円という良心的な価格。海外小説好きなら、ぜひ。
 松籟社のページはこちら
 http://shoraisha.com/modules/tinyd2/index.php?id=17


砂時計 (東欧の想像力 1)
奥 彩子
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