與那覇潤『中国化する日本』

 話題の本。面白いとは思います。そして著者の煽りを煽りをきちんと受け止めてスルーした上で第10章をきちんと読み込むことが出来るならば、世間で通用している日本史とは別の日本史の読み方を提示した本として有益な面もあるかもしれない。
 が、同時に歴史学という学問のいい加減さを露呈させている本でもあり、史学科の日本史学専攻出身の人間としては非常に複雑な気持ちで読みました。


 本書の内容は「中国化」と「(再)江戸時代化」というキーワードで平安後期から現代に至る日本史を斬るというものです。
 10世紀に中国では宋が誕生します。東洋史家の内藤湖南はこの宋の成立をもって「近世」が成立したと述べていますが、それほどこの宋の制度というのは画期的なものでした。
 この宋の画期性を著者は内藤湖南の言葉を借りて次のように整理しています(31p)

1、貴族制度を全廃して皇帝独裁政治を始めたこと
2、経済や社会の制度を徹底的に自由化する代わりに政治の秩序は一極支配によって維持するしくみを作ったこと

 1だけを見ると、「逆に中世から古代に先祖返りしただけじゃないか?」と思う人もいるかも知れませんが、ポイントは2です。宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。


 これに対して長年中国から影響を受けてきた日本では中国とは別の形で「近世」が成立することになります。
 宋の時代、日本にも貨幣経済が浸透する気配はあったのですが、結局は源頼朝が東国に農本主義的な鎌倉幕府をつくり、宋では捨てられた封建制が発展していくことになります。
 その後も、後醍醐天皇足利義満など、中国的な専制政治を目指す人物が登場しますが、こういった「中国化」を目指す政権は短命に終わり、戦国の乱世はある意味でアンチ「中国化」の最たるものとも言える江戸幕府の成立で幕を閉じるのです。

 
 ここまでは細かい部分で言いたいことはあるものの基本的には同意できますし、教科書にはないダイナミックな歴史の叙述で面白いです。平安初期まで一生懸命中国の真似をしようとしていた日本が、中国と全く違った形の「近世」をつくったというのは歴史的にも非常に面白い問題なのですが、この本はその疑問に説得力のある解答を示しています。
 また、「西洋化」「西洋化」というけど、19世紀になるまでは中国こそが「普遍」的な存在で、中国こそがある意味でもっとも「進んだ」国で、それにくらべれば西洋は「特殊」な「田舎」に過ぎなかったというのもその通りでしょう。


 が、このあと19世紀以降になっても「中国化」「再江戸時代化」のキーワードを使い続けることでこの本は混乱していきます。しかも、「中国化」=進んでいる、「江戸時代」=遅れている、という価値観が前提とされることで、歴史分析のための道具だった「中国化」「再江戸時代化」という言葉は、歴史的事象をバッサバッサと斬るためのマジックワードとなっていきます。


 さらに「中国化」「再江戸時代化」という言葉も当初の規定を無視して暴走し始めます。
 世界恐慌後のブロック経済に対して、著者は「江戸時代に近い状況が世界に広まったと見ることもできる」(173p)と述べ、経済に政府が介入すべきだとしたケインズの考えを「江戸時代」的として、そういった江戸時代的な封建主義をハイエクは批判したと言っています(175ー176p)。
 これには、多少なりともきちんとハイエクを読んだことのある人なら「は?」と思うでしょう。
 ハイエク自由主義者であると同時に保守主義者であり、たとえ江戸時代の経済を実際に見たからといってそれを強く批判するとは思えません。むしろハイエクは中国の皇帝の絶対的な権力こそを批判するのではないでしょうか?


 後半になればなるほど、著者は自分の価値観にそぐわないものを「江戸時代」と片付けることになります。
 著者に言わせれば、社会主義も日本の軍国主義も中国の大躍進運動も「江戸時代」的です。江戸時代のどの将軍がそんなに強力に経済を統制したことがるのか疑問なのですが、著者の価値観では経済を統制しようとすれば、それは「江戸時代」的なのです。
 しかし、そのように経済に焦点を当てながらも、中国が19世紀に経済的に行き詰まっていったことに関しては触れようとしません(この中国の清朝末期の行き詰まりに関しては岡本隆司『李鴻章』が描いています)。
 この本の「中国化」「再江戸時代化」というキーワードは、ある時には経済体制を分析するときに使われ、あるときには政治システムを分析するときに使われ、あるときは社会制度を分析する時に使われています。
 このへんは分析対象も限定されてなく、方法論でも史料の使いかたなどを除けばコンセンサスのない歴史学のルーズさを象徴しているようです。
 経済学者(の多く)は自分が分析していることが社会事象の経済的側面にすぎないことをわきえているでしょうし、法学者は自分の分析が法的側面からのものであることを自覚しているでしょう。ところが、この著者の分析は1000年近い歴史のすべての側面に渡っていて、そういった限定がありません。
 正直、ここまでくると「進歩的/封建的」で日本史のすべての事象を評価してみせた俗流の左翼史観や、「尊王/非尊王」ですべてを評価してみせた戦前の教科書とやっていることにほぼ変わりはないと思います。


 また、日本の労働組合がヨーロッパのような職種別のものでなく企業別のもので「会社の一部」に近い存在だと紹介した上で次のように述べています。

 要するに、今でも日本に本当の意味での労働組合なんてほとんどないのに、高校の公民科程度の教養しかないわが国の一般労働者は、「企業の下部組織」を労働組合だと信じているだけなのです(本当に、日本の中等教育というのは何を教えているんでしょうか)。(165p)

 これも歴史学者ならではの無責任な発言としか思えません。
 例えば、日本史の教員がいかに足利義満が嫌なやつであるかを力説しても、当時の足利義満の権力が揺らぐことはありません(現代における評判は低下するでしょうが)。ところが、全国の公民科の教員が「日本の労働組合は企業の下部組織にすぎない」と教えれば、現実の労働組合の力も弱まっていくことになります。現代の社会の制度が教育の場でどう語られるかはその制度自体にも影響を及ぼします。もちろん、理想論ばかりを語っても仕方が無いですが、現実を追認強化さればいいというものでもありません。社会の制度について語るとき、その語りには規範的なものが含まれざるを得ないのです。


 というわけで、後半に関しては有害に思える面も多く見られますし、この本を読んで日本の近現代が「わかった!」と感じた人は日本の歴史を対象にした社会科学の本を読んだほうがいいです。


 ただ、第10章はうってかわって「中国化」「西洋化」をともに相対化した上で読み応えのある議論がしてあります。ここでの著者の考えには賛成・反対があるでしょうが、ここでは著者は自らの考えがひとつの見方にすぎないことを示した上で提案をしています。
 おそらくこれは現在進行形の問題を扱っているためにこのような形になっているのでしょうが、やはり過去の問題に関しても同じような慎重な議論が必要でしょう。
 著者は最後に「有用性に乏しい虚学と勘違いされがちな歴史研究が、本当はこれからの国民国家の再建にとっていかに必要な学問であるかを、少しは証明することにつながってくれれば」と述べていますが、歴史放談ではなく「歴史研究学」を名乗るからには、自らの学問についての限界を自覚した上で議論を組み立てていくことが必要になるでしょう。


中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史
那覇
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