梶谷懐『日本と中国、「脱近代」の誘惑』

 「日本」と「中国」と「欧米」、この三者の間に線を引こうとしたとき、「日本・欧米/中国」、「日本・中国/欧米」、「日本/欧米・中国」、「日本/中国/欧米」という4種類の線の引き方が可能であり、また可能であるだけでなく、それぞれがそれなりの説得力を持っています。
 まず、「日本・欧米/中国」ですが、これは例えば、中国の海洋進出に対して、「法の支配」や「民主主義」といった価値観で対抗しようとする現在の安倍政権のスタンスに重なるものでもありますし、日本でもこの線引に納得する人は多いでしょう。
 一方、「日本・中国/欧米」という線引も日本では根強い人気のあるものになります。いわゆる「アジア主義」はこれですし、日本の左翼の中にも「反欧米」ということから日中(アジア)の「連帯」を訴える人たちがいます。
 3つ目の「日本/欧米・中国」はあまり馴染みのないものかもしれませんが、近年注目を集めた與那覇潤『「中国化」する日本』の議論がこれにあたります。宋代以降の中国を西欧近代と同じような一種の「普遍」と捉えて、それにムラ社会的な「江戸時代」を対置させるやり方は、日本と欧米・中国の間に線を引く試み(あるいは線が引けることを示す試み)と言えるでしょう。
 4つ目の「日本/中国/欧米」とすべてに線を引く試みとしては、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』の議論があげられるかもしれません。ハンチントンは日本を中国とは別の文明に分類し、それぞれの異質性を指摘しました(ただ、ハンチントンの議論には西欧社会を特権化する傾向もあり、欧米からみた「日本・中国/欧米」となっている面もある)。


 しかし、こうした線は単純には引けないし、その線引からこぼれおちるものが必ずあるということを鋭く指摘しているのがこの本。
 著者は中国経済を専門とする経済学者で、中国におけるイノベーションや格差の問題を扱った第3章を除けばその専門とは少しずれるのですが、前著の『「壁と卵」の現代中国論』でみせた経済から人文科学分野への「越境」を、この本ではより大胆な形で見せてくれています。


 目次は以下のとおり

序論 「近代」の限界と暴力にどう向き合うか
第一章 烏坎村重慶のあいだ「一般意志」と公共性をめぐる考察
第二章 左派と右派のあいだ毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか
第三章 「国家」と「民間」のあいだ国家資本主義・格差・イノベーション
第四章 日本と中国のあいだ「近代性」をめぐる考察
あとがき


 この線引からこぼれおちるものとは何か?それは例えば、現在の安倍政権にも顕著に見られます。
 安倍政権はことあるごとに日本がアメリカとの価値観を「共有」していることを強調していますが、足元の自民党では、三原じゅん子参議院議員が国会で「八紘一宇」との言葉を使うなど、その欧米的価値観から背を向けた「復古的」な発言が目立ちます。
 そして、この「八紘一宇」発言はたんに「復古的」なだけではなく、戦前の「アジア主義」に通じる、「反資本主義」的な背景があります(三原じゅん子の発言もタックスヘイブンを問題視する中で行われている)。


 一方、安倍政権を批判する「左翼的」な人々のなかには、現在の中国の状況やその歴史をきちんと把握しないままに、「反資本主義」の立場から、安易に「日本・中国/欧米」の線引に乗ってしまう人もいます。
 この本の第四章では、資本=国家=民族(ネーション)を乗り越えるために、前近代の中華帝国のあり方を持ち上げる柄谷行人の議論が批判的に検討されていますが、この「反資本主義」を主張するために実態のない「アジア」を否定神学的にもちだしてしまうというのは日本の言論の一つの欠点でしょう。

 
 このように「反資本主義」のために引っぱり出されることもある中国ですが、現在の中国が「反資本主義」的かというととてもそんなことは言えないでしょう。現在の中国の社会を見ているとアメリカ以上のむき出しの資本主義が行われているようにさえ思います。
 ところが、歴史を見ると、文化大革命のような苛烈な「反資本主義」が行われたのも中国です(岡本隆司『近代中国史』が描く明代の中国のシステムも「反資本主義」といえるかもしれない)。
 これは、なぜなのか?
 この本が第一章と第二章で問題としてとりあげているのが、中国の権力と「公」と「私」のあり方です。
 

 第一章では、烏坎村事件と薄煕来事件という近年中国を騒がせた2つの事件がとり上げられています。烏坎村事件は、村の汚職に立ち向かった村民によって打ち立てられた民主主義の記録として、薄煕来事件は中国共産党の次期リーダーを目指した男のスキャンダルとして世界に広まったわけですが、著者は2つの事件に共通するものを見出します。
 それは「公」を正義、「私」を悪いものとする見方であり、「公」「私」を分けるよりも、「公」をもって「私」を糺すという正義、そして権力のあり方になります。烏坎村事件では、土地の利用をめぐって農民たちの収益を横取りした村の役人の「自私(=私利私欲の追求)」が批判されましたし、薄熙来も「私」を糺す「打黒運動」(腐敗した政治家やそれと無視日つく企業やマフィアを一掃する運動)によって、大衆的な人気を得ました。両方とも「公」をもって「私」を糺すという構図があるのです。国家権力を危険視する考え方は生まれにくく、むしろ「私利私欲」が国家権力という「公」によって成敗されるという水戸黄門的な展開が望まれるのです。


 こうしたこともあって、中国では「右」と「左」の関係がねじれています。日本では国家権力を支持、あるいは一体化しようとするのが「右」、国家権力に批判的なのが「左」という布陣になりますが、中国では逆に、「右」がリベラルで改革的な政策を求め、「左」は国家権力による平等の実現を目指す保守的な政策を志向します。
 まあ、一応、社会主義革命が行われた中国において「左」が保守であるというのは、言われればその通りということなのですが、「左」が国家権力に親和的、あるいは幻想を持っているというところは注意したいところです。ちょうど日本の戦前の右翼が天皇あるいは天皇制に幻想を持ち、社会改革の鍵をそこに見出していたように、中国の「左」は毛沢東毛沢東主義に社会改革の鍵を見ています。大躍進政策文化大革命といった大失敗があったにも関わらずです。


 ここで中国の「左」の歴史に学ばない姿勢を笑うことは簡単ですが、これはそっくり最近の日本の「右」にも当てはまるといってもいいでしょう。国策を誤って破滅的な敗北を喫したにもかかわらず、大日本帝国憲法教育勅語を評価する日本の一部の「右」も歴史に対して盲目になっているといえるでしょう。
 また、前に「水戸黄門的」と書いたように、日本でも「公」をもって「私」を糺すことを歓迎する雰囲気は根強くあります。
 江戸時代の幕藩体制の経験もあって、中国のような「単一権力社会」とは言えないでしょうが、それでも戦前の天皇制は表向きは「単一権力社会」を目指す体制でした(戦前の日本に関しては裏では各元老、あるいは政党と軍といったように権力が分立するようになっていたけど、タテマエは「単一権力」なので裏のバランスが崩れると一気にファシズム的になったのではないかと思う)。


 このように中国(そして日本)は、「私」が「公」という名の単一権力に飲まれてしまう可能性のある社会なのですが、特に中国では強大な単一権力によって「私」が何度も飲み込まれてきた歴史があります。
 アセモグルらの研究によると、こうした「収奪的」な国家のもとでは経済は発展しないはずです。ところが、中国の経済は猛烈な勢いで発展しており、先ほど述べたように非常に「資本主義的」でもあります。
 この本の第三章では、そうした中国経済躍進の鍵と、これからの成長の足かせとなるかもしれない問題点を指摘しています。
 西欧の経済発展の歴史において、知的所有権の確立の重要性がダグラス・C・ノースらによって指摘されていますが、中国ではこの知的所有権のゆるさが逆に独自のイノベーションを後押しししている面もあります。この第三章では、丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』の議論を追いながら、この独自のイノベーションとそれがはらむ問題点を指摘しています。「右」だ「左」だといったことに興味がない人でも、面白く読める部分でしょう。


 一応、この本の内容を自分なりにざっくりとまとめてみましたが、本ではこれらのことが中国や日本の思想家、実際の事件、経済のデータ等をもとに丁寧に肉付けされており、たんに評論家がうまいことを言っている本ではありません。また、このまとめだとかなりとりとめのない内容だと感じてしまうかもしれませんが、著者の問題意識は一貫しており、著者が広い視野から日本と中国について考えていることがわかると思います。 
 第一章から第三章の大きな展開に比べると、日中関係を中心に論じた第四章がやや小さいものに見えてしまう感はありますが、これは現在の日中関係が非常に見通しにくい場所にいるという面もあるのだと思います。
 中国の経済がもう少し落ち着き、日本の経済がもう少し回復してくればまた違った局面が見えてくる気もしますし、そのときにまた改めてこの本に書いてある見方が必要になってくる気がします。


日本と中国、「脱近代」の誘惑 ――アジア的なものを再考する
梶谷懐
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