西川賢『分極化するアメリカとその起源』

 現在行われている大統領選挙やその他の政治的な風景を見ても、アメリカの政治が「分極化」していることは容易に見て取れます。共和党民主党では、その世界観や生活スタイルまですべてが違ってしまっている感じです。

 しかし、以前のアメリカでは政党の規律は弱く、議会などでも党派を超えて活動する議員はたくさんいました。ですから、以前はこんなにも分極化はしていなかったのです。

 

 では、一体いつからアメリカ政治の分極化は進んでいるのでしょうか?

 本書の問はこのようなものです。アメリカ政治をさかのぼっていくと、2009年から始まったティーパーティー運動、さらにさかのぼって、1994年の中間選挙でギングリッチが掲げた「アメリカとの契約」、さらには1980年のレーガンの大統領選挙での勝利ときて、さらにニクソンの南部戦略あたりまで分極化の起源は思い浮かびます。必ずしも「保守」政党というわけではなかった共和党が「保守」のイメージを確立していくのが、レーガン、見方によってはニクソンあたりからだと考えられるからです。

 

 ところが、本書は分極化の起源をアイゼンハワーの時代にまでさかのぼります。

 アイゼンハワーといえば「中道」の立場の人なので、「???」となりますが、この謎を解き明かすのが本書の内容です。アイゼンハワー共和党を変えようとしたことが、1964年の予備選でのゴールドウォーターの勝利につながり、以降の共和党の「保守化」を決定づけたというのです。

 

 目次は以下の通り。

序 章 共和党保守化の原因とその起源
第1章 中道主義の確立
第2章 中道主義の試行と挫折
第3章 中道主義の終焉
第4章 二重の敗戦
終 章 共和党保守化の帰結とアメリカ政治への展望

 

 本書のキーとなる概念に「与党の大統領化」というものがあります。

  まず、大統領は与党の組織や行動にさまざまな影響を与えます。特に長年政権から離れていた野党が「選挙の勝てそうな人物」を担いで大統領候補にしようとすると、政党は大統領候補に多くの権限を白紙委任せざるを得なくなります。そこで、候補者は自らの影響力を使って、与党の戦略や組織を自らの望む方向に変革しようとします。これが「与党の大統領化」です。

 1952年の共和党から立候補して勝利したアイゼンハワーはまさにそのような候補でした。20年以上大統領の座から遠ざかっていた共和党は、「勝てる人物」としてアイゼンハワーを担ぎ出し、勝利します。中道主義だったアイゼンハワーは、その影響力を使って共和党を中道に引っ張ろうとしますが、それに失敗してかえって保守化が進んだというのが本書の見立てです。

 

 中道主義アイゼンハワー共和党の保守化をもたらしたというのは一見するとわかりにくい話ですが、例えば、自社さ政権で自民が政権に復帰するために歴史問題などで「左」に寄ったことが、かえって「右派的」な議員の動きを活発化させたことなどを思い起こすと、理解しやすいかもしれません。

 

 1930年代半ばまで、共和党の支持の中心は中西部を拠点とする保守派と西部を拠点とする革新派でした。前者は自由放任を重視しニューディールを否定したのに対して、後者はニューディールを受け入れつつ外交的には孤立政策を支持してF・ローズヴェルトを批判しました。

 しかし、1936年の大統領選でアルフ・ランドンが大敗すると、西部の革新派も中西部の保守派も影響力を低下させ、代わって東部を基盤とする穏健派が台頭します。穏健派はニューディールを受け入れ、国際協調にも前向きでしたが、ローズヴェルトトルーマンの前に大統領選に勝つことはできませんでした。

 ここで共和党としては、(1)より保守化して民主党との差異を際立たせる、(2)より穏健で中道的な方向に進み民主党の支持層を切り崩す、という2つの路線が生まれることになります。

 

 1952年の大統領選挙において、(1)の路線を代表するのがロバート・タフトであり、(2)の人々に担がれたのがアイゼンハワーでした。

 アイゼンハワーは第2次世界対戦におけるヨーロッパ戦線の連合国軍最高司令官を務めた人物であり、その知名度は抜群でした。ただし、アイゼンハワー無党派であり、それまで特に共和党の支持者であったことはありません。ニューディールも支持していました。

 このアイゼンハワーを穏健派は「タフトはミスター・リパブリカンと呼ばれているが、アイゼンハワーはミスター・アメリカンである」(42p)として大統領選への擁立を画策します。

 本人不在のまま、穏健派はアイゼンハワーニューハンプシャー州予備選への出馬を宣言し、そこで勝利を収めます。アイゼンハワーはついに出馬の決意を固め52年の6月1日にNAT軍最高司令官の職を辞し、アメリカに帰国します。

 アイゼンハワーは中道的でありながら、ニューディーラーとは一線を画す政策を掲げて党内をまとめ上げ、52年の大統領選挙に勝利しました。

 

 大統領となったアイゼンハワー共和党の再構築に取り組みます。「与党の大統領化」を目指すわけです。民主党ニューディール期に大統領のもとでの一元的な政策決定を目指しましたが(実際には南部の保守派が抵抗勢力として存在し続けたものの)、アイゼンハワー共和党をより一枚岩の集団にしようとしたのです。

 共和党保守派は減税と財政均衡を主張しましたが、アイゼンハワー財政均衡を目指しつつ減税を後回しにし、住宅政策や社会保障政策を推進しました。社会福祉支出の増加率はアイゼンハワー期はケネディ=ジョンソン政権期の伸びを上回っています(75p)。

 公民権の問題に関しては、人種差別に反対しつつ、その解決策は教育しかないという漸進的な考えで望みましたが、「ブラウン対教育委員会事件」において最高裁が司法長官の見解を求めたことから政権は態度をはっきりさせることを迫られます。ランキン司法次官補が最高裁憲法違反との判決を示したことで、学校における人種隔離は違憲であるという「ブラウン判決」が出ることになりますが、アイゼンハワーの態度はこの後も曖昧なままでした。

 アイゼンハワーは1957年公民権法を成立させますが、黒人の立場からするとそれは十分なものではありませんでした。

 

 1954年の中間選挙共和党が敗北すると、アイゼンハワーはアーサー・ラーソンに共和党の新しい理念の取りまとめを任せます。ラーソンはそれまでの保守的な共和党の考えとニューディール的な考えの中間に「新共和党主義」という中道路線を打ち出そうとします。また、1958年の中間選挙敗北後はパーシー委員会を立ち上げて、共和党の新たな理念の検討を行いました。

 しかし、こうした新しい考えは保守派の容れるとことではなく、ゴールドウォーターらの保守派の動きが活性化するきっかけとなります。

 また、アイゼンハワーは支持拡大のために、今まで「共和党は存在しないも同然」(117p)の南部に進出する南進戦略を立てます。この南部戦略は一定の成功を収めますが、南部に進出するためにその主張は保守的になり、公民権に対して州権を支持する形になっていきます。

 共和党内部ではアイゼンハワーの中道路線はうまくいかず、むしろ保守的な動きが強まっていくことになったのです。

 

  アイゼンハワー中道主義はうまくいきませんでしたが、1960年の大統領選挙でニクソンが勝利すれば、この路線が生き残っていく可能性はありました。ニクソンアイゼンハワーの副大統領であり、基本的にはアイゼンハワーの路線を継承すると考えられたからです。

 

 ニクソンは1968年に大統領になって以降の「法と秩序」のスローガンやその政策から公民権に冷淡だとされてきましたが、必ずしもそうだとは言い切れない部分もあります。例えば、1957年にガーナでニクソンと会って意見交換したキング牧師ニクソンの態度に好感を抱いています。

 しかし、1960年の大統領選では、ニクソン公民権に関してはできるだけ曖昧にする戦略をとっていました。積極的な姿勢を見せても消極的な姿勢を見せてもどちらも反発を受ける可能性があったからです。

 この背景には共和党内部の対立もあります。共和党から出馬してニューヨーク州知事になったネルソン・ロックフェラーは公民権に積極的な立場で、大統領選への出馬も養成されていました。一方、ゴールドウォーターらの保守派も健在で、ニクソンは両者とどのような関係を構築するのか難しい局面に立たされたのです。

 結局、ニクソンはロックフェラーらに配慮する形で公民権に積極的な党綱領の採択に同意しますが、当分裂を回避するために出馬を取りやめたゴールドウォーターの株が上がることにもなりました。

 

 しかし、副大統領候補のヘンリー・カボット・ロッジが、黒人閣僚の入閣を示唆したことから保守が反発し、共和党は混乱します。そして、ニクソンケネディの前に敗北することになるわけです。

 ニクソンは「ロッジの発言は「共和党を南部で殺してしまった」と結論づけ」(178p)ましたが、南部での得票は伸びており、アイゼンハワー政権の南部戦略が間違っていなかったことも明らかになりました。

 共和党は、ロックフェラーの共和党左派、アイゼンハワー路線の中道派、ゴールドウォーター率いる保守派に分裂したまま64年の大統領選挙に臨みます。

 

 ゴールドウォーターは連邦政府の拡大にことごとく反対してきた南部アリゾナ州上院議員で、父や叔父は民主党員ながら、ニューディールへの反発から共和党員となった人物でした。

 ゴールドウォーターは南部で人気があり、その人気はケネディも上回っていました(211p)。しかし、62年11月にケネディが暗殺され、テキサス出身のジョンソンが大統領となると、南部に強いジョンソンの対抗馬としてゴールドウォーターは向いていないんではないかという声が上がります。

 このため、一時期ゴールドウォーターは出馬を取りやめようと考えましたが、草の根保守団体のジョン・バーチ協会などの支持を受けて大統領選に臨むことになります。しかし、このジョン・バーチ協会は反共の陰謀論に凝り固まったような団体であり、共和党の穏健派は警戒感を強めます。

 

 一方、ロックフェラーは自身の離婚問題などで失速し、共和党予備選挙は混迷を深めます。予備選挙ではゴールドウォーターがリードするもののその得票率は低く、土壇場になって穏健派からウィリアム。スクラントンが出馬します。

 この背景にはゴールドウォーターが1964年公民権法に反対票を投じたことがありました。スクラントンはゴールドウォーターが党の理念を裏切っていると考え、アイゼンハワーも「共和党内部の反ゴールドウォーター勢力は彼を妨害する「大義名分」を得たと考え」(241p)ました。

 

 1964年7月の共和党全国党大会は、ゴールドウォーター支持者による黒人代議員への嫌がらせが目立つなど荒れました。アイゼンハワーはゴールドウォーターとスクラントンの間を仲介しようとしますが失敗します。

 最終日にゴールドウォーターが「自由を守るための過激主義は悪徳ではないことを忘れてはならない。正義を追求するための中道は善なるものではないこともまた忘れるべきではない」(248p)との一節を含む指名受諾演説を行って党大会は閉幕しますが、最後まで穏健派とゴールドウォーターの対立は消えませんでした。

 

 結局、1964年の大統領選挙はジョンソンの圧勝に終わります。ゴールドウォーターは深南部の五州を制しましたが、52人の選挙人しか獲得できませんでした。

 共和党内部では、選挙に協力的ではなかったとして穏健派への批判が強まり、穏健派の凋落が決定的になります。ゴールドウォーターもその人気を落とすことになりますが、ゴールドウォーターの保守的な路線の一部はニクソンに引き継がれます。1968年のニクソンの主張は明らかに右傾化しており、「アイゼンハワーの後継者・中道路線の継承者であった1960年のニクソンとは別人」(261p)でした。

 

 以上のように、本書は共和党の保守化の起源を描き出しています。分極化の起源を分極化とは程遠いアイゼンハワーに求めるという問題設定は意外なものですが、本書を読むと、アイゼンハワー路線の行き詰まりがその源流になっていることがわかると思います。

 また、アイゼンハワー政権が取り組んだ南部戦略が結果として共和党の保守化を進めたという点も皮肉なところだと思います。

 一般の読者からすると68年のニクソンについてもう少し触れてくれるとありがたいですが、その前夜の状況まではよく分かるようになっています。

 

 なんとなくトランプの敗色が濃くなってきた2020年のアメリカ大統領選挙ですが(といっても16年もトランプが負けると思い込んでましたが…)、大統領選後の共和党がどうなるのか、「トランプ化」に対する反動で中道に寄るのか、それともペンスあたりを中心に宗教保守で純化するのか、といったことは注目であり、そうしたことを考える上でも本書は興味深いものだと思います。