待鳥聡史『政治改革再考』

 平成という時代の政治を振り返ってみると、「改革」という言葉が飛び交い、実際に「改革」が行われた時代であったと言えるでしょう。小選挙区比例代表並立制が導入された選挙制度改革と、省庁再編、地方分権、司法改革、さらには日銀法の改正と、憲法の改正に匹敵するような改革が続きました。

 しかし、一方で2度の政権交代はあったものの、結局は自民党が政権を維持し続けており、次の政権交代が見えてこないという55年体制を思わせるような状況も続いています。司法制度改革なども当初の想定通りに進んでいるとは言えないでしょう。

 それはなぜなのか? という疑問に答えようとしているのが本書です。著者は『代議制民主主義』『政党システムと政党組織』『民主主義にとって政党とは何か』などの著作で、現代の民主主義に関する鋭い考察を披露してきた人物ですが、 本書でもここ30年の改革を大きなスケールで鋭く分析しています。

 

 目次は以下の通り。

序章 政治改革への視点
第1章 政治改革の全体像
第2章 選挙制度改革
第3章 行政改革
第4章 日本銀行・大蔵省改革
第5章 司法制度改革
第6章 地方分権改革
終章 改革は終わったのか

 

 本書の特徴は、改革を単体としてではなく、他の改革や変わらなかった制度との関連(マルチレヴェルミックス)で分析しているところ、改革の「アイディア」が実際の制度に落とし込まれる際の「土着化」に注目している点にあります。改革は行われたものの、一部は他の制度と不整合だった面もありますし、また、実際の制度として実現していく過程で、さまざまな妥協や変形を迫られているのです。

 

 また、一連の改革の担い手として「近代主義右派」という立場を想定しているのも本書の特徴と言えるでしょう。この一連の改革の背景に「新自由主義」があげられることが多いですが、例えば、省庁再編を進めた橋本龍太郎を「新自由主義者」と呼ぶのはためらわれますし、政治分野の「改革」の主人公の一人である小沢一郎も筋金入りの「新自由主義者」とは言い難いでしょう。

 日本の社会が古い因習を捨てて「近代化」すべきであるという「近代主義」は、明治以来、知識人の1つの伝統となっていますが、戦後になると近代主義は主に左派によって担われるようになり、右派はその存在感が薄まります。

 しかし、そうした中でも60年代後半以降になると、『中央公論』の編集者・粕谷一希の周囲に高坂正堯永井陽之助山崎正和といった人物が集まり自民党政治にも一定の影響力を持ち始めます。こうした素地に、牛尾治朗小林陽太郎といった海外経験を持つ経済人が加わって改革が進められていくことになるのです。

 

 80年代になると、自民党の派閥政治の弊害や官僚機構の現状維持志向が問題視されるようになってきます。対外的には日米貿易摩擦アメリカからのさまざまな要求、冷戦の終結と新しい国際貢献の必要性などから、それに対応できる新しい政治というものが求められるようになりました。

 さらにリクルート事件、佐川急便事件といった一連の政治腐敗事件が、政治家を「改革」せざるを得ない状況に追い込んでいくのです。

 

 こうしたことを踏まえた上で第2章以降では具体的な改革を見ていきますが、まずは選挙制度改革です。

 現在では中選挙区制を懐かしむ声も聞かれますが、定数が複数でしかも有権者が一人の候補者にしか投票できないという単記非移譲式は、世界的に見てもあまり例がない制度で、利益誘導を生みやすいということは、政治学者の書いたさまざまな本で指摘されていることです。

 先ほど述べたように、リクルート事件をはじめとするさまざまな政治腐敗事件が、選挙制度改革を用意するわけですが、単純に腐敗防止のため、つまり政治の自浄能力を高めるためであれば、選挙制度は変えずに違反に対する罰則を強化し、政治資金の流れを透明化するという方向性もありましたが、同時の当時の日本では政治が国際情勢などの変化に適切に対処できるのか? という応答性が問われていました。

 そこで、イギリスのウェストミンスターモデルをお手本とした大きな改革が動き出すことになります。

 

 しかし、ここで「土着化」の問題が出てきます。イギリスのような単純小選挙区制を導入しようとすると中小政党の賛成は得られません。そこで民意の集約や意思決定の責任の明確化には小選挙区制が優れているとの認識のもとで、一種の妥協として比例代表部分が付け加えられ、小選挙区比例代表並立制が成立します。

 この改革は、日本の政治に二大政党制への志向をもたらし、実際に2009年には民主党による政権交代が成し遂げられました。また、介護保険子ども手当、TPPへの参加といったマクロ志向で普遍主義的な政策は、選挙制度改革によってもたらされたという分析も可能でしょう。

 

 ただし、いくつかの想定外の出来事も起こりました。まず1つは、比例部分が残ったことで小政党が残り続け、むしろ大政党の分裂を促すような結果となったことです。また、小政党が比例の票の掘り起こしのために勝算がなくても小選挙区に候補者を立てたことも想定外だったと言えます。これらは野党の結集の大きな妨げとなりました。

 さらに日本にはイギリスと違って参議院というかなり大きな権限を持ったもう1つの議院があり、しかも、その改革は比例代表に非拘束名簿が導入されたことを除けば手つかずでした。地方議会の選挙に関しても選挙制度改革は行われず、これらの存在が二大政党制への移行を妨げることになります(地方議会の選挙制度がもたらす影響に関しては砂原庸介『分裂と統合の日本政治』参照)。

 

 第3章は行政改革をとり上げています。行政改革自体は、1960年代前半の第1次臨時行政調査会、70年代末〜80年代前半の第2次臨時行政調査会と取り組まれてきた経緯がありますが、90年代後半の橋本行革はやや違う流れの上にあるというのが著者の見立てです。

 中曽根内閣による行革は、基本的に「小さな政府」の流れに沿うものでしたが、橋本行革は、統治機構の再編を通じて、「国のあり方」、さらには「国民のあり方」を問い直すべきものでした。

 そのために、省庁再編によって行政の無駄を削るとともに、内閣府の強化によって首相のリーダーシップが発揮できる体制の構築が目指されました。

 

 橋本行革もその「土着化」の中でさまざまな変更を迫られることになります。特に省庁再編に関しては「「羊羹の総量を変えずに切り幅を変えた」に過ぎない」(149p)といった批判も寄せられましたが、一方で内閣機能の強化はほぼ無傷のまま生き残りました。「多数派形成の過程において省庁再編や「小さな政府」志向が前景化されることで、「強力な政府」志向の内閣機能強化は行政改革会議の最終報告後の政治過程を息抜き、実現できた」(149p)のです。

 さらに著者はこの「生き残り」の要因として、内閣機能の強化は行政部門に対する政治部門の全般的な優越を確保するものだと思われたこと(だから政治家からは反対意見が出にくい)、官僚が組織防衛に追われていたことなどがあげられています。

 

 このように改革当時には大きな注目を浴びていなかった内閣機能の強化ですが、これが大きな改革であったことは、小泉内閣、そして第2次以降の安倍内閣で明らかになります。

 本章の最後では、橋本行革の1つの柱であった「アウトソーシング化」が、見せかけとしての公務員削減につながっただけで、かえって説明責任を見えにくくさせたことなどが指摘されています。本書で指摘されている国立大学の独立行政法人化などは、まさにそうした例になります。

 

 第4章は日銀・大蔵省改革です。日銀の独立性を高めるべきだという声は以前からあり、特にバブルの発生を防げなかったことなどから改革の必要性が指摘されるようになりますが、この改革を推し進めた原動力は大蔵省不祥事と、そこから起こった大蔵省バッシングです。

 大蔵省は金融業界に非常に強い力を持って君臨していましたが、バブル崩壊後に噴出したさまざまな金融スキャンダルや不良債権問題は、大蔵省批判の材料になりました。もちろんバブルの問題については日銀にも責任があったわけですが、三重野総裁がバブルを退治する「平成の鬼平」としてのイメージを獲得すると、日銀には善玉のイメージが付き、批判の矛先は大蔵省へと向かいます。

 

 このイメージと、当時の政治状況(自民党社会党・さきがけと連立しており、野党の新進党は改革をアピールする政党であった)などから、大蔵省改革は予想以上にラディカルな形で進んでいきます。

 日銀改革ついても当初はもっと政府の関与を残すような方向性でしたが、日銀改革が大蔵省改革とリンクすることで、マスコミや国会議員の注目を集め、「日銀の独立性を弱める=大蔵省の影響力を残す」というイメージがつくり上げられていきました。

 この日銀の独立性を高める改革は、一方で行われた内閣機能の強化に見られる集権的な改革とは違った方向性を持つものです。現在は、安倍首相と黒田日銀総裁が「協調」しているために大きな問題とはなっていませんが、安倍首相と白川前総裁のように政府と日銀が対立し、経済政策がうまく進まないケースというものは十分に考えられます。

 

 第5章は司法改革。司法改革に関してはかなり大きな改革が行われながら、一般の目から見ると大きな変化が感じられない分野かもしれません。

 日本の司法において問題とされたのは司法が国民から遊離しているという問題でした。そのために改革の方向性として打ち出されたのが社会との接点を増やすことです。

 そこで、改革の柱となったのが法科大学院ロースクール)の設置とそれに伴う法曹人口の増加、裁判員制度の導入になります。他にも法テラスの設置、知財高裁の設置、労働審判委員会の創設など、多くの改革が行われました。

 

 しかし、司法改革は「土着化」に失敗したと言えるかもしれません。制度自体はその他の改革に比べるとスムーズに変革されたものの、目玉であったはずの法科大学院は閉鎖が相次ぎ、裁判員制度に関しても辞退率や欠席率が高止まりしています。

 いくつかの面については改革の成果は上がっているものの、当初の目論見通り国民と司法の接点が顕著に増加したとは言えない状況です。裁判員制度に関しては殺人などの重大な刑事事件に絞って導入したことに無理があったのかもしれませんし、法科大学院に関しては、設置しすぎ、予備試験の存在など、細かい部分の詰めが甘かったのかもしれません。

 専門性の高い分野であるがゆえに、制度の帰結に関して法曹以外のアクターが予想しづらかったことも要因かもしれません。また、著者は政権交代が想定ほど起きなかったことが、司法部門と行政部門の関係に変化をもたらさなかったことも要因の1つとして指摘しています。内閣法制局長官の山本庸幸が最高裁判事に転じたことが「左遷」のようにみなされたのは、そうした関係とそこから生じる司法部門への政治家の認識の現れだと著者は分析しています。 

 

 第6章は地方分権改革です。90年代前半から政治改革とともにさかんに唱えられたのがこの地方分権で、政治改革や行政改革と同じく、新たな国際的な課題に対処するため必要だという理由付けがなされました。今までの日本の中央の行政システムはあまりにも地域の問題に注力しすぎていて、新たな国際問題に対処するためには地方のことは地方に任せ、リソースを外交や安全保障などに集中させるべきだという考えです。

 しかし、一方で政治改革や行政改革が首相(与党の党首)とその周辺に権力を集める集権的なものだったのに対して、地方分権は文字通り分権的な改革です。

 

 地方分権改革は、95年の地方分権推進法の成立、99年の地方分権一括法の成立、03〜05年にかけての三位一体の改革、さらには市町村合併、06年に成立した地方分権改革推進法に基づく改革と、かなりの長期に渡って進められました。

 地方分権改革が政治の重要テーマとして浮上し、実際に改革が動き出したのは93年の細川連立政権からで、細川首相が元熊本県知事、武村官房長官が元滋賀県知事、五十嵐広三建設大臣が元旭川市長といった取り合わせが地方分権の優先順位を大きく押し上げました。武村と五十嵐は村山政権でも大きな役割を果たしています。

 

 こうして地方自治体はより自律的な存在となり、中央省庁の関与は縮小しました。ただし、すべての地方自治体に自律的に動ける能力があるかどうかは疑問ですし、日本では地方議会が大選挙区制をとっており、議員が自治体全体の利益を考えずに、自治体全体の利益を代表するのは首長のみという構図になりやすいです。何事も首長次第ということになりやすいのです。

 また、国と地方との関係において、中央省庁の官僚と地方自治体の職員がつながることによる行政ルート、補助金を通じた財政ルートが縮小するのは予想通りの帰結でしたが、選挙制度改革と市町村合併は、政党の意思決定の集権化と、市町村議員の減少による自民党議員と保守系地方議員の系列関係の希薄化をもたらし、政治ルートの縮小ももたらしました。

 

 以上の本書では、広い範囲で行われた改革を改めて点検し、その要因と帰結を分析しています。

 終章ではそのまとめがなされていますが、そこで改めて指摘されているのはマルチレヴェルミックスでの不整合と、改革が不着手になっている領域の存在です。マルチレヴェルミックスの不整合の代表例は集権的な改革と分権的な改革の混在であり、衆議院参議院あるいは地方議会の選挙制度のズレなどです。一方、不着手の領域の代表例が参議院になります。参議院に関しては本格的な改革には憲法改正が必要であり、ここは日本における憲法改正の様々な面からのハードルの高さが問題になってくるでしょうね。

 

 著者も言うように、本書でとり上げられている改革は憲法改正に匹敵するような改革だったと思います。ただ、やはり「9条の呪縛」のようなものがあるため、憲法改正そのものには手を付けにくい状況はいまだに続いているわけで、憲法を変えるにしろ変えないにしろ、そこでどのような知恵を出していくかが重要になるとも感じました。

 というわけで、本書の著者が編者となっている『統治のデザインー日本の「憲法改正」を考えるために 』を読み始めたところです。