ルーマン『社会の教育システム』メモ

 忙しくてなかなか読み終わらないんだけど、気になったところを少々。
 成績なしの教育は可能か?(86p)

 教育と選別が、そして、教材と成績が区別されるなら、区別されたどちらに注意を集中すべきかという競合関係が生まれる。その結果、教育学者は、教育の「本来の」意味を犠牲にして成績向上を目指すことを遺憾とするようになった。けれども、教育者は。教育することだけで幸せになれるだろうか?別の訊き方をすれば、テーマについての関心を持てと指示されるにすぎないとしたら、それはどれだけ強い動機づけになるものだろうか?

 教師による発問の役割について(93〜94p)

 教師ないし試験委員は、答えを知っているのに質問する。そんなことは、社会の日常において普通することではなく、実は知っていることを聞いたのだと気づかれてしまえば、具合が悪い。しかし学校では、これは、平凡化が進んでいることをチェックする手続きなのである。同じ質問が繰り返されたときは、同じ答えが返ってこなければならない。そのさい、訊かれた生徒は、正しい答えを見つけなければならないだけでなく、質問者が正しい答えと考えるものを見つけ出さなければならないという、困難な状況におかれることが稀ではない。まるで機械に求められるようなこの<ユーモアなき>形式が極端な形をとったものが、こんにち頻繁に行われる<テスト>である。解答用紙に記入しなければならない者は、期待されない(それでもやはり正しい)答えをしたり、問いを論評ないし変更したりしてはならない。「テストとは、平凡化の進度を確認する道具である。テストの結果の優秀さは、平凡化の完成を示す。その生徒は完全に予見可能になり、社会に送り出して差し支えないものになる。かれは、思いがけないことは何もせず、問題を起こすこともないであろう。」(「 」の中はハインツ・フォン・フェルスターの引用)

 2番目の引用なんて特にそうだけど、社会の中で普通に行われていることが、実はありそうにないことだって気づかせてくれるのはルーマンを読む楽しさの一つですね。

晩ご飯はおでん