ヨーロッパの政治シーンにあって、日本の政治シーンではほぼ存在感がない政治勢力に「緑」があげられると思います。
その「緑」の中でも、特にドイツの緑の党は以前から存在感を持っており、現在のショルツ政権では与党の一角を担っています。
この緑の党の源流は? と言うと、70年代の新左翼の運動から生まれたエコロジー運動を思い起こす人が多いかもしれません。
資本主義への批判の1つがエコロジー運動としても盛り上がり、それが政治組織となったというわけです。
ところが、本書を読むと実際はもっと複雑な成り立ちをしていることがわかります。
戦後西ドイツにおいて、「自然環境保全を主張することは、容易にナチズムによる「血と土」のイデオロギーにミスリードされる危険があり、〜とりわけナチズムの過去の断罪に積極的であった左派陣営にとって、自然保護運動との接触は、ある種のタブー」(8p)でした。
こうした中で、エコロジーは単純に右派・左派では切り分けられない問題として存在し、そこに新左翼的な運動が合流していくことになります。
本書は、このような複雑な緑の党の来歴を辿り、その担い手を明らかにしつつ、その来歴ゆえの党内対立を追っています。
そこには右と左の対立には還元できないさまざまな動きがあり、非常に興味深い内容になっています。
目次は以下の通り。
序章
第Ⅰ部 市民運動から連邦政党へ
第1章 前身としての環境保護市民運動――ニーダーザクセン州における原子力関連施
第2章 「緑のリスト・環境保護」の成立――環境保護市民運動からエコロジー政党へ
第3章 抗議政党から綱領政党への転換
第4章 緑の勢力の結集
第5章 連邦政党緑の党の成立
第Ⅱ部 社会構成と地域的広がり
第6章 左派オルタナティブと各州での緑の運動
第7章 緑の党の社会構成
第Ⅲ部 混迷の時期
第8章 党内対立解消の試み――「左派フォーラム」と「出発派」
第9章 「原理派」の影響力喪失とベルリンの壁崩壊
結びにかえて――緑の党の現在
現在、環境保護というと「左」が重視するテーマというイメージですが、歴史的に見れば必ずしもそうではありません。むしろ、保守主義こそが自然環境を守るという意識に結びつきやすいはずだと言えます。
実際に、ドイツでは「第二次世界大戦前から存在する環境保護団体の多くは、自らの運動の理念と、ナチズムとの間に存在する一定程度の親和性を意識しており、自らの活動が結果的として(引用注:「的」は余計?)ナチズムに荷担することになったという歴史認識を有していた」(28p)のです。
そのため、彼らは政治的運等とは距離を取り、比較的小さなサークルに閉じこもる傾向があったといいます。
これが変化してくるのが60年代後半から70年代にかけてです。
この変化のきっかけとなったのが、この時期に盛り上がってきた原子力関連施設に対する反対運動です。
本書の第1章では、原子力関連施設が集まっていたニーダーザクセン州における反原発市民運動の中から、緑の党へとつながっていく運動が立ち上がってくる様子をみています。
運動の当初はそれぞれの団体が非暴力的な抗議を行うというものでししたが、警察の過剰な暴力の行使や厳しい法的措置に対する反発が運動に新たな展開を模索させることになります。
一方、警察や行政の中からも反省が生まれ、市民運動との連携などが意識されるようになっていきます。
第2章では、こうした運動から政党結成への至る道が紹介されています。
西ドイツでは1961〜83年まで連邦議会には3つの政党しか存在しない状況でした。この背景には小政党の議会進出を阻む5%条項の存在などがありましたが、それでも選挙にはおおよそ10〜34の政党が参加しており、必ずしも政治的な活動が不活発であったわけではありません。
こうした状況に風穴を開けたのが緑の党です。第2章では緑の党の前身となった「緑のリスト・環境保護(GLU)」の成立の過程を追っています。
ニーダーザクセン州に核燃料の再処理施設の建設が計画されたことに対する反対運動に参加した一人にカール・べダーマンがいました。
べダーマンはニーダーザクセン州の職員でしたが、原子力政策については議会内に批判勢力がなく、既存の政党では変革は期待できないと考え、選挙を通じて変革を訴えようと、1977年にニーダーザクセン環境保護党(USP)を結成します。
一方、1965年にヘッセン州で結成された独立ドイツ人行動共同体(AUD)も、のちに緑の党の代表になるハウスライターのもとで環境政党へと舵を切っていました。
もともとAUDは東西両陣営から一定の距離を取る中立政策を掲げていた党でしたが、「中立かつナショナルな単位での社会的平等性に重きを置くドイツ」(71p)というAUDの考えはナチズムを想起させるものであり、急進右翼主義政党をみなされていました。
こうした政策を掲げたAUDは1965年の連邦議会選挙で惨敗しますが、ハウスライターは党の立て直しのために環境保護を打ち出す作戦に切り換えます。
ニーダーザクセン州では、他にも東ドイツから亡命してきたゲオルク・オットーも環境保護を訴える政党を構想していました。
オットーは自由経済理論を信奉しており、べダーマンの考えとは距離があり、オットーは「緑のリスト・環境保護(GLU)」というグループを作ります。
このGLUがヒルデスハイム軍議会選挙において1議席を獲得したことで、GLUとUSPの合同に向けた議論が持ち上がり、べダーマンを代表としてGLUの名前を使いつつ、綱領はUSPのものを引き継ぐという形で両党の合同がなります。
1978年のニーダーザクセン州議会選挙において、GLUは15万7733票を獲得しますが、得票率は3.9%で5%の壁は突破できませんでした。しかし、GLUは消え去ることなく、勢力を拡大させていくことになります。
第3章では、その後のGLUの拡大と変質が分析されています。
1978年4月に、ニーダーザクセン州議会選挙に向けて開かれたペニッヒビュッテル党大会では、べダーマンの作成したエコロジー問題と経済成長至上主義批判をもとにした綱領をもとに加筆が行われました。
ここで注目すべきは地域政党からの脱却と、「[ボン]基本法の枠内に置いて活動する」という一文が挿入され、さらに「軍拡競争への懸念」、「有期雇用の拡大とそれによって生み出される構造的な失業の増大への懸念」が書き込まれた点です(104−105p)。
左派オルタナティブ勢力の流入により、彼らが関心を持つ軍拡と雇用問題が盛り込まれる一方、左派オルタナティブ勢力の行動を警戒する価値保守主義者たちの意向によりボン基本法の枠内でという一文が入れられたのです。
また、それまで原子力、大気汚染といったバラバラの問題として認識されていたものが「エコロジー」という言葉のもとで統合されることになり、新たな社会秩序の模索も始まります。
GLUに左派オルタナティブ勢力が流入することで、そうした党員の中からべダーマンへの批判の声があがります。
結局、78年7月のリーベナウ党大会でべダーマンは失脚し、代わりにオットーが党代表となります。
緑の勢力はさらに結集していくことになりますが、この過程を描いたのが第4章です。
1979年、ECは初のヨーロッパ議会選挙を行うことを決定しますが、これが緑の勢力が結集する1つのきっかけになります。
このころオットーは自らの構想について「保守的で、リベラルかつ社会主義的なエコロジー主義者」(145p)から構成される政党ということを述べていました。
この「保守的」とは「価値保守主義」であり、人々の共同体の維持を重視する考えでした。また、「社会主義」は非マルクス主義的なものであり、オットーにとっては矛盾する考えではありませんでした。
オットーはこうした考えをもとに、価値保守主義たちの「緑の行動・未来(GAZ)」やハウスライターのAUDとも協議を行います。
一方、緑の勢力への左派オルタナティブ勢力の流入も続き、強い影響を持つようになっていました。
そのせいもあって緑の勢力が1つの政党にまとまることはなかなか難しく、欧州議会選挙に対しては「その他の政治団体 緑の人々(緑の党)(SPV)」という形で臨むことになります。
SPVの選挙綱領では、エコロジーの優位が冒頭に掲げられ、経済政策については市場原理主義でも東側のような社会主義でもない「第三の道」が打ち出されました。
また、左派オルタナティブ的な政策である女性解放や社会的少数者の擁護、少数民族問題などが盛り込まれたのも特徴です。
79年の欧州議会選挙では、SPVは89万票あまりを獲得し、得票率は3.23%。今回も5%の壁は突破できずに議席獲得はなりませんでしたが、ブレーメン州で4.75%を獲得するなど、既成政党を脅かしました。
第5章では、連邦政府緑の党の成立過程がとり上げられています。
79年の欧州議会選挙をきっかけに緑の党には多くの入党者が現れましたが、その多くは左派オルタナティブ・ミリューの影響を受けていました。
こうした中で環境保護以外の政策をどうするか? 二重党籍を認めるか否かといったことが問題になっていきます。
特に教条主義的な左翼勢力は二重党籍の容認によって緑の党に影響力を持とうとする一方、左派オルタナティブ勢力はそうした動きに反発しており、左派内部での対立もはらみながら結党に向けた動きが進みます。
ハウスライターが教条主義的な左翼を抑えるために左派オルタナティブ勢力と協調する姿勢を見せたこともあり、1980年のザールブリュッケン党大会で採択された党綱領は、さまざまな思想のごった煮でありながら、以前よりも社会主義的な色彩を強めたものになりました。
軍縮や妊娠中絶の合法化、労働時間の短縮など、左派オルタナティブ勢力の主張が盛り込まれていくことになります。
当時の西ドイツの状況と緑の党の変化について、著者は次のように述べています。
1960年代末とは異なり、1970年代末から1980年代という時代における西ドイツ社会の多数派にとって、社会民主主義とは区別される「社会主義」という理念が持つ価値は急激に輝きを失いつつあった。多くの人々は、現状をマネージメントする能力に長けたシュミット政権の中に「社会民主主義」を見出し、それに満足していた。こうした西ドイツ社会の現状があるからこそ、その現状に満足できない人々、とりわけ緑の党に結集していった左派勢力にとって「社会主義」が放つ最後の輝きは、魅力的なものであった。こうした左派勢力は、緑の党の中で理念化・言語化を目指して苦悩する協同主義を、「社会主義」を振りかざしながら大挙して押しつぶしていった事実を、党の成立期においては認識していなかった。結党期緑の党は、「協同主義」という新しい社会秩序理念を生み出す可能性を秘めていたが、それは実際には成し遂げられず、この時点での現実は右派。左派の対立として展開した。(211-212p)
この引用にもあるように、緑の党では右派と左派の対立が展開され、1980年6月にドルトムントで行われた党大会では、ナチズム期にジャーナリストとして体制を賛美していたことなどを理由にハウスライターが党代表を追われます。
この立役者でもあるオットー・シリーは、「緑の党は「左派的・社会主義的・進歩的」な政党であり、「市民的、既成権力、ファシズム的」な勢力と対置される」(215p)と主張し議論をリードしますが、「市民的」がネガティブに用いられているのがこの時代と緑の党の特徴を示しています。
第6章では、緑の党に大きな影響を与えた左派オルタナティブ勢力とはどんなひとびとだったのか? という問題がとり上げられてます。
これらの人々は1960年代末の学生運動に関わっていた人が多いのですが、こうした人々の中に、70年代になるとカフェ、ギャラリー、書店、託児所といったオルタナティブ・プロジェクトと呼ばれる活動に従事するようになった人々がいました。
こうした活動は学生なども惹きつけ、また、社会民主党から離れた人々も集めていきます。さらにはフェミニズム運動も左派オルタナティブ運動の一翼を担いました。
この第6章の章末には、緑の党において重要な役割を果たしたバルドゥール・シュプリングマンがとり上げられています。
シュプリングマンは、農本主義的な立場から戦前戦中はナチスの運動にも参加し、戦後は有機農業などを通じて新左翼的な流れにも接近したという興味深い人物です。
日本でも戦前、農本主義者と右翼が結びつきましたが、シュプリングマンは戦後も農本主義的な立場を棄てず農場を経営しました。そして、「非暴力・平和」を掲げて、良心的兵役拒否者が自らの農場で市民的奉仕活動ができるように運動を続けて、ついに当局にそれを認めさせています。
第7章では、緑の党を支持した人が具体的にどんな人々であったかを明らかにしようとしています。
ここでは、ハノーファーの選挙区の推薦人名簿の住所を地図にプロットすることで、彼らがかなり狭い範囲に固まって住んでおり、それは生活コミュニティであったり、今で言うシェアハウスに集う若者だったことを明らかにしています。
この部分は研究手法的にも面白いですね。
全体とし見ると、他の既成政党に比べて女性の党員が多く、職業的には公務員、特に教員が多いのが特徴で、GLUの郡支部をみると支部長が教員で、その教え子が創設メンバーといったケースが多数存在するそうです。
また、緑の党はさまざまな立場の人を取り込みましたが、移民系の住民については取り込めていませんでした。
第8章では緑の党の党内対立とその解消の試みがとり上げられています。
緑の党は80年代に入っても勢力を伸ばし、1985年にはヘッセン州において緑の党が政権に参加することとなりますが、現実に政権入りが見えてくると、現体制を否定し既成政党との妥協を拒否する「原理派」と、連立を肯定し、体制を内側から変えていこうとする「現実派」の対立が激しくなります。
こうした対立を抱えながらも、1987年の連邦議会選挙において緑の党は得票率8.3%、獲得議席44という大躍進を遂げます。これには前年のチェルノブイリ原発事故が大きく影響しています。
ただし、この大勝利も党内対立の解消をもたらしませんでした。1987年11月には、党地方議員や活動家が緑の党連邦議会議員団会議の議場を占拠して、党の統一を訴える事件も起きています。
それでもこの対立は党内だけでは解決できず、この局面が転換するのはドイツ統一という問題がせり出してきてからのことになります。この時期の緑の党を分析しているのが第9章です。
まず、本章の前半で緑の党の次のような性格が示されています。
緑の党の一般党員にとって、議員・党執行部といった党エリートは、あくまで一般党員によって形成された政策合意を、議会や世論といった公共空間に伝達する「メディア」にすぎず、またそのメディアは、党大衆からの供給を通して、交代し続けるべきものであった。緑の党は、こうした理念に基づき、党エリートが職業政治家集団へ変質していくことに対して、常に厳しい目を向けており、またそれを防ぐため様々な制度的措置を講じていた。その業務量を考えれば職業生活との両立は事実上不可能であったにもかかわらず、党中央執行部の構成員に対する報酬の支払いはなかったこと、議員職と党執行部職の兼職の禁止、ローテーション制、命令的委任(imperatives Mandat)といった制度は、こうした職業政治家・専門家集団による党支配を防止するという意図から導入されていた。(330p)
しかし、上記のような理念を導入するには党員がかなりの時間を割いて党運営に関わる必要があります。
緑の党の理念が想定するんは、熟議に恒常的にエネルギーを割くことができるハーバーマス的な「市民」であり、多くの党員にとっては負担が重いものでした。
結果として、緑の党では党内闘争が続くのですが、それを大きく揺さぶったのが東ドイツでの体制崩壊です。
緑の党の理念にナショナリズムは不要であり、ドイツの統一問題についても深くコミットしてこなかったのですが、再統一の機運が急速に高まるにつれて対応を迫られます。
とりあえず左派は二国家体制を維持しようとしたものの、1990年3月の東ドイツ人民議会選挙で可能な限り早い統一を求める勢力が勝利すると、二国家体制論は放棄されます。
この流れの中で「現実派」と「出発派」と呼ばれるグループは左派色の一掃を図ろうとしますが、それも失敗し、緑の党からは離島者が相次ぎます。
結果、1990年12月の連邦議会選挙では得票率4.8%にとどまり、5%条項によって緑の党は連邦議会でのすべての議席を失いました(なお、東ドイツでは東ドイツ緑の党と同盟90の政党連合が議席を獲得)。
本書の記述は基本的にここで終わっているのですが、「結びにかえて」で興味深いエピソードが紹介されています。
著者らが2015年に再生エネルギーを使ったエネルギー協同組合があるブランデンブルク州のフェルトハイムを調査に訪れたところ、現地の職員から「アキエさんも来た」と言われキョトンとしていると、「日本人なのに、日本のファーストレディを知らないのか?」と言われたそうです(355p)。
その後、著者は安倍昭恵氏がスピリチュアリズムや国粋主義に傾倒していたことを知り、彼女にはある種の一貫性があると考えるようになったといいます。
日本では環境保護は左派のイシューだと思われがちですが、戦前には右翼の農本主義者がいましたし、ドイツの緑の党には近代科学技術文明への批判的な態度から自然への回帰や自然との共存という思想に至った人々も流れ込んでいました。
緑の党のメンバーの大部分はスピリチュアリズムには共鳴せず、社会のさらなる近代化や民主化、環境に優しいテクノロジーによってエコロジー問題を解決しようという方向に向かいましたが、本書が指摘する緑の党の源流の雑多さというのは非常に興味深いと思います。
本書は緑の党の来歴や西ドイツの戦後政治を考える上でももちろん興味深いのですが、さらに政党そのものの運営の問題や、日本の戦後にあり得たかもしれない「保守」「革新」ではない第三の道の可能性などを考える上でも興味深い内容を含んでいます(日本のおける「協同主義」に関しては三木武夫が唱えていた(竹内桂『三木武夫と戦後政治』参照)。
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