実は本書の著者は大学時代のゼミも一緒だった友人で、いつか書いた本を読んでみたいものだと思っていたのですが、まさか「あとがき」まで入れて761ページ!というボリュームの本を書き上げてくるとは思いませんでした。
タイトルからもわかるように三木武夫の評伝なのですが、タイトルに「戦後政治」と入っているように三木武夫を中心としながら三木が亡くなるまでの戦後政治をたどるような内容になっていることと、「政局」と「政策」の双方を追っているとことが、本書がここまで厚くなった理由でしょう。
「バルカン政治家」という異名からもわかるように、三木武夫というと「政局の人」というイメージが強いですが、本書はその「政策」をきちんと追うことで、三木の行動原理のようなものがわかるようになっています。もちろん、その判断は権力闘争と密接に絡まっているわけですが、権力闘争と政策が渾然一体となっているところが三木の面白さかもしれません。
また、こうして三木の生涯を見ていくことで、党内の権力基盤が弱かった三木がつねにイチかバチかの勝負の誘引にさらされながらも「高貴な死」を選ばなかったことに感心しました。
個人的に「三角大福中」の中でも三木はよくわからない印象があったのですが(田中角栄はわかっているようでどこかしらわからない部分がある)、本書を読んで、その人物像がわかってきたととともに、戦後政治史についてもクリアーになってきた部分があります。
さすがにこれだけの本を最初から最後までまとめることは不可能なので、興味深かった部分をピックアップする形で紹介したいと思います。
目次は以下の通り。
第Ⅰ部 戦前・戦時期(一九〇七~一九四五年)
第一章 代議士以前第二章 少壮議員
第Ⅱ部 「バルカン政治家」の台頭(一九四五~一九五五年)
第三章 政党政治家としての出発――協同民主党から国民協同党へ第四章 中道政権期――政界における台頭
第五章 第二保守党期――保守政治家への道
第Ⅲ部 派閥政治の展開(一九五六~一九七二年)
第六章 石橋湛山内閣期
第七章 岸信介内閣期――安保改定への対応第八章 池田勇人内閣期――高度経済成長と党近代化の推進
第九章 佐藤榮作内閣期――長期政権の主流派から非主流派へ
第Ⅳ部 「三角大福中」の時代(一九七二~一九八八年)
第一〇章 田中角榮内閣期――副総理としての役割第一二章 「三木おろし」の政治過程
第一四章 晩年
まず、三木の生い立ちですが、本書を読むと三木が両親に溺愛された子どもだったことがわかります。
1907年にうまれた三木ですが、父の久吉が33歳、母のタカノが38歳のときの子どもで、しかも初子でした。両親の寵愛を一身に受けた三木は、金遣いが荒かったと言います。
そんな三木はいろいとと回り道をしながらも、1926年に明治大学に入学します。旧制高校の受験に失敗しての進学でしたが、明治の雰囲気が気に入ったようで、再度の高等学校の受験をやめて、明治で学生生活を過ごすことになります。
雄弁部に所属した三木は、各地で遊説活動をするとともに、1929年には欧米諸国歴訪の旅へ出ています。ハワイからアメリカ本土へとわたり、さらにヨーロッパの主要国へも足を伸ばしました。
さらに三木は1931〜35年にかけてアメリカに遊学しています。明治大学から大学生度の研究を命じられたとされていますが、同時に徳島毎日新聞の特派記者にもなっており、海外に行きたかったというのがアメリカに行った理由だと考えられます。
帰国後、代議士だった生田和平の書生となり、久原房之助のもとに出入りするなど政治家になる姿勢を強め、1937年の衆議院選挙で徳島2区から無所属で出馬し、見事に当選しました。
1942年の翼賛選挙では、三木は非推薦の候補として当選しています。三木自身は戦後に「三木は親米論者であり、したがって非国民である」(79p)という理由で推薦されなかったと述べていますが、これは額面通りに受け取れないと言います。
三木が推薦されなかったのは、地元政界に三木に対する反発があり、若い年齢と経験不足などが原因だったようです。
それでも、「非推薦で当選」という看板は戦後の三木にとって大きな資産となりました。三木は当選後には翼賛政治会に参加し、鈴木貫太郎内閣では軍需参与官に任命されていますが、戦後に公職追放されずにすんだのです(このあたりの事情については、小宮京『語られざる占領下日本』にも詳しい)。
1946年の戦後初の衆議院選挙において無所属で当選を果たした三木は、中道新党の結成を目指して動きますがうまくいかず、協同民主党に参加します。
この協同民主党において、委員長の山本實彦の追放問題が持ち上がったこと、小政党だった協同民主党には連立の駆け引きが必要であり三木がその任を担ったこと、複数の当選回数を持っていたことなどが理由で、三木は次第に指導的な地位を占めることになります。
この協同民主党が中心になって国民協同党が結成されますが、ここでは委員長が空席とされ、書記長となった三木が実質的なトップになりました。
1947年4月の総選挙の結果、社会党が第一党になると、国民協同党は民主党とともに連立を組むこととなり、逓信大臣として入閣しました。このとき三木は40歳でしたが、有力な政治家として認知されていくことになります。
片山内閣→芦田内閣と続いた中道政権は昭和電工事件で芦田均が辞職に追い込まれたことで崩壊しますが、GHQのGS(民政局)は吉田茂の再登板を阻止すべく山崎首班工作に動きます。
実はこのときに「三木首班」という構想もありました。このあたりも小宮京『語られざる占領下日本』にも詳しいですが、GSのケーディスが「私はかつて一度だけ、マッカーサー元帥に三木武夫を首相に推薦したことがあります」(165p)と述べており、実際に三木もマッカーサーと会談しています。
新内閣は暫定的な選挙管理内閣になることが予想されたこともあり、三木は首班の要請を固辞しますが、この時点で「三木首相」という可能性もあったのです。
第2次吉田内閣が成立すると三木は民主党との合同を模索し、1950年に国民民主党が結成されました。最高委員は苫米地義三で、三木はその他の6人とともに委員となっています。
サンフランシスコ講和条約と日米安保条約については賛成した三木ですが、日米行政協定については重要な内容を含むにも関わらず国会の承認なしで結ばれることに反対の姿勢を示しています。
日本の独立が近づき、公職追放を解除される政治家が増えてくると再び新党構想が動き出します。
三木の国民民主党に対して松村謙三や大麻唯男といった政治家がアプローチをかけます。こうした動きの中で三木は社会党の右派までを視野に入れた中道勢力の結集を考えていました。
この動きは改進党の結成へとつながっていきますが、改進党の総裁が決まらず、三木が擁立に消極的だった重光葵が総裁に迎えられることになりますが、重光やむなしをみた三木は途中で重光総裁を受け入れることとし、それもあって三木は改進党の幹事長に就任しました。
改進党は想定ほどは伸びず、日本民主党の結成過程でも三木はそれほど影響力を発揮することはできませんでした。
それでも1954年12月に第1次鳩山内閣が成立すると日本民主党内の「革新派」の代表として三木は運輸大臣に就任します。
この頃、三木は「保革紙一重」論を唱えています。保守も貧困や失業などの社会問題に取り組む必要があり、革新も現実的な対策を求められる中で、保守と革新は紙一重になるというものです。
三木はそこで中道政治の実現を訴えるわけですが、自由民主党の結成にあたっては最終的には自らの「保守」と位置づけることになります。
保守合同に反対していた三木ですが、自らのグループの行く末などを考えて自民党に参加することを決断するのです。
1956年の自民党総裁は岸信介、石井光次郎、石橋湛山の3人で争われましたが、三木が支持したのは石橋湛山でした。
三木は石橋陣営の参謀役として他陣営と交渉し、石井光次郎との間でニ位三位連合を成立させます。
御存知の通り、第1回目の投票では岸が第1位となりますが、このニ位三位連合のおかげで決選投票で石橋が逆転して自民党の総裁になります。
その論功行賞ということもあり、三木は自民党の幹事長に就任するのです。
しかし、石橋湛山内閣は石橋の病気もあって短命に終わり、後継は三木が嫌っていた岸になります。
このため、石橋内閣というのはあまり意味を持たない内閣と思われがちですが、著者は石橋勝利の重要性について次のように述べています。
このときの総裁選で、三木や松村謙三などの旧改進党の指導者の多くは、岸が勝利した場合には自民党を離党すると申し合わせていた。公選の結果、石橋総裁が実現したために彼らは離党せず、自民党にとどまって党内における派閥政治の一翼を担った。石橋の総裁選における当選と石橋内閣の成立は、かつての保守二党論者を自民党につなぎ止め、その後の自民党による単独政権を継続させるにあたって大きな意味をもっているのである。(291p)
岸内閣成立後、三木はそのまま幹事長に留任したので、ここでは離党には至りませんでした。
その後、三木は岸の安保改定のやり方に反発し、衆議院における強行採決を欠席します。三木は松村謙三とともに離党を考えますが(このとき丸山眞男が三木に接触していたという)、最終的に離党を断念します。
一連の流れの中で、自民党が分裂する契機は失われていくのです。
つづく池田内閣では三木は非主流派になりますが、1961年の内閣改造で科学技術庁長官に就任しています。また、原子力委員長もつとめています。
その後は第三次組織調査会の委員長となり、党の近代化についての提言をまとめます。ここでは派閥の解消を強く主張しています。
その後、池田内閣のもとで政調会長をつとめ、池田三選を支持したことで幹事長になった三木でしたが、池田は病気によって辞任してしまいます。
つづく佐藤内閣のもとで三木は幹事長に留任しましたが、反佐藤であった松村謙三が三木・松村派から離脱していしまいました。
それでも三木はポスト佐藤の筆頭格として、通産大臣、外務大臣といった要職を経験していきます。
三木に対しては派内から佐藤にベッタリすぎるとの批判もありましたが、派閥が縮小していく中で三木が自民党総裁になるには佐藤からの禅譲を受けるしかないという現実もありました。
しかし、佐藤は1968年の自民党総裁選で三選を目指します。これに対して三木は外相を辞任して総裁選に出馬することを決意しました。
もともと佐藤が池田の後継になるときに川島正次郎とともに三木が二選四年までという条件を提示していたことや、三木派内の出馬を望む声に応えるという面もありました。三木派の維持のためにはチャレンジすうる必要があったのです。
三木は前尾繁三郎と2位3位連合を組みますが、佐藤が第1回目の投票で過半数を獲得しました。
三木派は非主流派となり、三木はポスト佐藤から大きく後退します。
それでも1970年の佐藤が四選を決めた総裁選でも三木はそれなりに存在感を示し、佐藤が引退した72年の総裁選では、佐藤後継の最有力と言われた福田に対抗するために、田中、大平と三派連合を組み(のちに中曽根派が加わって四派連合になる)、結果的に田中総裁の誕生を後押しします。
総裁選では大平にも遅れを取り最下位に沈んだ三木でしたが、田中内閣では無任所の副総理格の国務大臣として入閣しました。
その後、三木は環境庁長官となりますが、ここでは水俣病患者救済のために尽力しました。
環境庁の梅本純正事務次官は、チッソの担当者に「三木さんなら社会党の代議士にも抑えがきくんです。今を逃しては駄目ですよ」(515p)と説得したといいます。
この他にも田中内閣では、三木は第1次石油危機の際に特使として中東に派遣されています。
田中内閣のときの重要なエピソードに「阿波戦争」があります。1974年7月の参院選において三木が推す現職の久次米健太郎と田中内閣で官房副長官を務める後藤田正晴が争ったのです。この争いは総理と副総理の直径候補者の争いということで「三角代理戦争」とも呼ばれました。
県連での投票の結果、自民党の公認は後藤田になりますが、久次米は非公認での出馬に踏み切ります。
三木も「二人を国会議員として比べると、どちらが国会議員にふさわしいかは明らかだ。それは当然後藤田だ」(530p)と内々に述べるなど、後藤田の能力を買っていましたが、今までの経緯などから非公式に久次米を支援していくことになります。
参院選では、武市知事が久次米を支援したこと、久次米に同情票が集まったことなどにより久次米が勝利しますが、同時に徳島の県議は三木派と反三木派に分裂することになりました。
また、この参院選後に、三木は副総理を辞職し、福田赳夫と連携する形で反主流派に転じます。
1974年10月、『文藝春秋』に「田中角栄研究、その金脈と人脈」という特集記事が掲載され、田中内閣は世論の支持を失います。
田中の辞職が既定路線となる中で、副総裁の椎名悦三郎を中心に後継が探られます。当初、椎名は灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎といった長老議員、あるいは自らが暫定政権をつくることを考えていましたが、大平が椎名との会談の後に、椎名が政権に色気を持っているとリークし、その結果、椎名は大平、福田、三木、中曽根の中から後継を指名せざるを得ない状況となります。
そして、椎名は三木を指名するのです。
椎名が三木を指名した理由としては、三木が党の近代化に主張していたこと、三木が長老議員といってもいいようなキャリアを持っていたことなどがありますが、同時に、椎名が福田を嫌っていたこと、福田派、三木派、中曽根派の間で新党構想があり、それを防ぐためには大平が有利なると思われた公選を避けたかったこと、周囲が三木総裁案を受け入れずに、再び椎名暫定の可能性が出ることを椎名が期待していたことなどを著者は指摘しています。
三木は党の副総裁に椎名を、幹事長に中曽根を据え、内閣では福田を副総理兼経済企画庁長官に据え経済政策を一任する姿勢を示しました。
三木は河野洋平を環境庁長官に海部俊樹を官房長官に、西岡武夫を官房副長官にする構想をねっていたと言われますが。党内の反対や三木派内の事情によって流れてます(井出一太郎が官房長官になり海部が副長官となった)。もし、この人事が実現していれば、河野と西岡が離島して新自由クラブを結成することもなかったかもしれません。
三木は公職選挙法と政治資金規正法の改正には成功しますが、独占禁止法の改正は党内の反発もあって廃案になり、またスト権ストへの対応では、三木は条件付きの付与を考えていましたが、党内、閣内でも慎重論が強く、スト権付与は見送られました。
一方、核拡散防止条約の批准を行い、現職の首相として初めて広島平和記念式典と長崎平和祈念式典に参加するなど核軍縮へ取り組む姿勢をみせ、また、1975年に行われた第1回サミットに参加しました。
1976年2月にアメリカの上院外交委員会でいわゆるロッキード事件が明るみに出ます。自民党にとっては大きな逆風でしたが、三木にとっては阿波戦争以来の政敵の田中角栄を潰すチャンスでもありました。三木は真相究明のために積極的に動きます。
一方、こうした三木に姿勢に対する党内の批判も高まります。また、椎名は独占禁止法の改正やスト権スト問題に対する三木の姿勢に不満を強めていました。
こうして起きたのが椎名を中心とした第1次「三木おろし」でしたが、三木に対する世論の支持があったことや福田の軟化などにより終息していきます。
1976年7月27日、田中が逮捕されると、それを容認した三木への批判が再び強まります。田中派と大平派が反発し、逮捕を知らされなかった福田も反三木に転じます。
ここでも三木はしぶとさを発揮しますが、最終的に12月の総選挙で自民党が過半数割れを起こしたことの責任をとって三木は辞職しますが、11月10日に行われた昭和天皇御在位50年記念式典が政治日程を縛ったという話は興味深いです。
この後も本書では、福田内閣、大平内閣のときの三木の動きや、晩年の軍縮や政治倫理確率のための動きなども紹介されています。
最初にも述べたように、本書は三木の政策と政局の両方を追った「三木武夫大全」みたいな本なのですが、個人的にはやはり政局面の話を面白く読みました。
特に、三木が自民党に加わったあとに、何度も新党構想をもちながらも結局は自民党に居続けたということは戦後の政治史を考える上でも重要なことではないかと思いました。
三木が自民党から出ていれば、あるいは出たり入ったりしていれば、もう少し違う戦後政治史というのがあったのかもしれません。また、その意味でも鳩山一郎からいきなり岸信介になるのではなく、間に石橋湛山が入ったのも重要だったのだなと本書を読んで改めて思いました。
ボリュームもお値段も充実した本ではありますが、三木武夫という政治家を知るとともに、戦後の日本政治史を今一度点検できるような本になっています。