小宮京『語られざる占領下日本』

 去年、NHKスペシャルの「未解決事件」で、松本清張の『小説 帝銀事件』と『日本の黒い霧』をベースにして帝銀事件がとり上げられたのを見た人も多いかと思います。

 松本清張の推理は犯人は731部隊の関係者でGHQの圧力によって捜査が中止されたというものでしたが、この帝銀事件以外でも松本清張GHQの陰謀とGHQ内のGHQとGSの対立を通じて、終戦直後のさまざまな事件を読み解こうとしました。

 

 松本清張は小説家であり、彼の推理は歴史的な事実から飛躍してしまっている部分もあるのでしょうが、当時の日本において圧倒的な力を持っていたGHQが表にならない部分で日本にどのような影響を与えていたのかとうのは気になるところです。

 

 本書は日本の現代政治史を専門とする研究者が、そのGHQの「陰謀」を明らかにし、当時の日本の政治状況を今一度復元しようとしたものになります。

 今までの占領期の研究はGHQ側の史料を使うことで、当時の日本人があまり語りたがらなかったその実態を明らかにしようとするものが多かったですが、本書ではGHQも自分たちに不利なことは語ってないというスタンスのもと、日本側の史料を読み込むことでその実態に迫っています。

 田中角栄三木武夫といった戦後を代表する政治家が占領下の日本でいかに行動していたのか、フリーメーソンがなぜ人々を惹きつけたのか? など興味深い話題が詰まった本であり、いくつかの通説を覆す刺激的な本でもあります。

 

 目次は以下の通り。

序 「あのお話はなかったことにして下さい」
第1章 広島カープの生みの親・谷川昇の軌跡
第2章 「バルカン政治家」三木武夫の誕生
第3章 フリーメイソンと日本の有力者たち
第4章 田中角栄伝説と戸川猪佐武小説吉田学校
おわりに 「道義のない民主主義はありません」

 

 第1章でとり上げられている谷川昇はそれほど知名度のない人物ですが、広島カープの生みの親としても知られています。

 谷川は1896年に広島県賀茂郡西志和村に生まれています。父はカナダからアメリカに渡りカリフォリニアで商店を経営した人物で、昇も中学卒業後に渡米し、イリノイ州立大学からハーバードの大学院に進み、1924年に帰国した後、東京市に奉職し、戦時には市民局長、戦時生活局長、東京都防衛局長などを務めています。44年に退官して関東配電に入り、戦後は山梨県知事に就任し、46年1月には内務省警保局長になっています。47年2月に退官し、4月の総選挙で衆議院議員に当選しましたが、当選から2ヶ月半後に公職追放されました。

 

 こうした経歴を見て、「東京市に入職しているのに内務省で警保局長にまでなったのか??」と思う人もいるでしょう。

 戦前だと内務省警保局長というのは非常に重要な役職(現在だと警察庁長官に当たる)であり、高等文官試験を通っていない人物が就くようなポジションではないのです。

 

 これを可能にしたのは、公職追放によって内務省の主流が追放されたことであり、谷川のハーバード出身という経歴でした。

 谷川にはコネクションを生かしてGHQとコミュニケーションをとりながら警察行政を進めていくことが期待されたのです。

 

 ところが、谷川は公職追放されます。表向きは東京市時代の経歴や関東配電での職歴が問題視されたのですが、それまでは問題視されていなかったにもかかわらずです。

 本人も自分が追放された理由は不可解だと述べています。

 

 このあたりはミステリーっぽさもあるので詳述は避けますが、ここで理由として推測されているのがGSの民政局次長チャールズ・ケーディスと鳥尾元子爵夫人の醜聞です。

 この問題についてはGSと対立していたG2のウィロビーも調べていたことが知られていますが、日本の警察も身辺を調べていたようなのです。

 これによって谷川がGSの怒りを買った可能性があります(ただし、著者は谷川が指示したことではなかったとみています)。

 

 公職追放された谷川は地元の広島でプロ野球球団創立のために動きます。ここでもGHQの意向の確認などのために谷川の力が求められたと思われます。

 しかし、土壇場で谷川は身を引くことになります。谷川が関わることは好ましくないというGHQの内々の意向が示されたからです。

 

 1951年6月、谷川の公職追放が解除され(8月には鳩山一郎の追放も解除されている)、52年の総選挙で自由党の議員として当選します。その後、55年の総選挙において当選確実となるも急死してしまいます。GHQという存在に大きく左右された人生でした。

 

 第2章では三木武夫がとり上げられています、三木というと「クリーン三木」という金権政治に反対するイメージや、「バルカン政治家」と呼ばれる戦後の時期に小政党を率いて戦ったイメージなどがありますが、そもそも三木がどういった経緯では有力な政治家になったのかよくわかっていない人も多いでしょう(自分も昔は三木武吉の関係者かなんかかと思ってた)。

 本章では、占領期の三木武夫を追うことで、彼がどのように有力政治家の地位を築いていったのかを明らかにしています。

 

 三木は1907年に徳島県に生まれ、明治大学に在学中にアメリカに留学し、1937年に卒業、その年に行われた衆議院議員選挙に立候補し、見事当選しています。

 戦前は無所属を貫いており、1942年の東條英機内閣のもとで行われた翼賛選挙では非推薦候補として当選しました。 

 戦後はまずは協同民主党内で主導権を握り、協同民主党が国民党と合同し、国民民主党が成立すると書記長となり、1947年5月に成立した片山哲内閣で逓信大臣として入閣しています。6月には国民民主党の委員長に就任しています。

 

 中道系の弱小政党にいたこともあって、三木はカネとは無縁というイメージができてくるのですが、妻の三木睦子森コンツェルン創始者・森矗昶(のぶてる)の次女であり、森からの援助の有無ははっきりとはしないのですが、占領期から独立後の時期には三木の資金調達能力が評価されていました。

 戦後の政治家で個人事務所を構えたのが最も早かったのが三木だと言われます。

 また、他に先駆けて派閥で政策を研究するなど、派閥の組織化も進めています。

 

 こんな三木であるが、実は占領期は公職追放の危機にさらされていました。その危機をしのぎ、政治家として台頭することができたのは三木の人脈にあるというのが本書の分析になります。

 三木は戦中に「軍需参与官」を務めています。これは先述の森コンツェルンとの関係があったからだとも推測されていますが、この時期に三木は岸信介とも関係を深めています。このあたりの経歴が重視されれば三木が追放される可能性は十分にあったのです。

 

 三木が頼りとした人脈とは外交官・知米派の面々であり、その中核は福島慎太郎、平澤和重、松本瀧蔵の3人になります。

 

 福島慎太郎は1930年に外務省に入省し、ロサンゼルスやニューヨークで勤務経験のある人物で、戦後は幣原内閣の総理大臣秘書官、芦田内閣の内閣官房次長を務めています。この内閣官房次長はGHQに対応するためのポジションで、三木の推挙もあって就いたと言われています。

 1950年に福島は毎日球団の社長にもなりますが、これも毎日新聞の重役から発行停止を解いてもらうようにGHQとの折衝依頼を受け、それが解決してしばらくしたら球団社長就任の誘いが来たといいます。

 

 平澤和重は大河ドラマの「いだてん」を見ていた人はその名前に覚えがあるかもしれません。星野源が演じて、嘉納治五郎の死を看取った人物です。

 平澤も戦前、外交官としてアメリカで働いていた人物で、「アメリカにおける日本のスパイの責任者」とも言われた寺崎英成のもとで働いていました。そのため、開戦直前に南米への異動を命じられましたが、南米へ逃れたところを逮捕され、アメリカで抑留されています。1942年に第1次交換船で帰国しました。

 戦後は外務省に戻らずにNHKの解説委員などを務めますが、同時に三木のブレーンとなり、三木の演説などの草稿はすべて平澤が書いたと言われています。三木内閣が成立したときは外相を打診されたが辞退しました。

 

 松本瀧蔵は日系2世の代議士で、カリフォルニアで成長し、帰国後は広島の中学から明治大学に進んでいます。さらに明治大学商学部助教授などを務め、1937年にハーバードの大学院に入学、39年に明大の教授となりました。

 戦前〜戦後にかけてアメリカ通として日本に米国事情を紹介し、戦後は明治以来の付き合いだった三木の勧めで政界入りし、1946年に衆議院議員に当選しました。

 松本はGHQ内に多くの知己を持ち、特にGSとのパイプがあったと言われています。この時期、GHQとのパイプが政治的資源として非常に価値がありましたが、松本はそれを持っていたのです。

 

 松本と平澤は1946年に「サーヴィス・センター・トーキョー」という組織を立ち上げていますが、この組織の最大の業務は公職追放解除についての活動でした。公職追放中の政財界人から依頼を受けてGHQに対して追放解除を働きかけていたのです。

 詳しい活動内容を示す資料は残っていないものの、サントリー鳥井信治郎が追放解除のお礼を言ってきた、犬養健松本治一郎らが出入りしていたという証言が残っています。そして、三木も終始顔を出していました。

 

 戦後まもなく、三木は協同民主党に属しますが、この協同民主党の山本実彦委員長は公職追放に引っかかってしまい、さらに井川忠雄書記長が死去したことから、三木が協同民主党内の主導権を握ることになります。

 三木はその後も、自らの人脈から得たGHQ情報をフルに活用して政治工作を行い、首相以外はめったに会えないマッカーサーとも会見できるようになったといいます。

 

 こうした中、GSが吉田茂の首相就任を阻止しようとした「山崎首班事件」では、「三木首班」というシナリオもありました。

 芦田内閣が昭和電工事件で倒れたあと、野党の民自党の吉田茂の再登板が有力視されていましたが、吉田を嫌うGSはそれを阻止しようとしていました。その中で「三木首班」という構想も浮かび、三木がマッカーサー自身から首班になることを持ちかけられたというのです。

 この構想は三木が辞退したことで終わりますが、その直前にはGSのホイットニー局長も三木に首班を受けるように説得したとされており、「三木首班」が実現性の高いシナリオであったことがうかがえます(もっとも選挙管理内閣のような形で終わった可能性も高く、それゆえ三木も辞退したと考えられるが)。

 著者は、三木の動きとともに山崎首班事件の推移を分析することで、従来言われていたように必ずしもマッカーサーは吉田支持ではなく、山崎首班工作にも暗黙の了解を与えていたと見ています。

 

 第3章はフリーメイソンについて。「秘密結社」としてさまざまな陰謀論などに結び付けられるフリーメイソン。戦後すぐの時期に関しては鳩山一郎が入っていたことが知られています。他にも東久邇宮稔彦や朝鮮の李王族出身で梨本宮方子と結婚した李垠もフリーメイソンに入っています。

 本章は、侍従次長などを歴任し、フリーメイソンに入会していたこともある河井弥八の日記を紐解き、日本の占領期におけるフリーメイソンの実態に迫っています。

 鳩山一郎などの入会は公職追放の解除と絡んでおり、当時の日本の有力者がいかにGHQとの「伝手」を求めていたかが分かる内容です。

 他にも昭和天皇フリーメイソン化計画や、フリーメイソンの実際の活動についても触れられているので興味がある人はぜひ本書をお読みください。

 

 第5章は「田中角栄伝説と戸川猪佐武小説吉田学校』」。

 吉田茂から池田勇人佐藤栄作、さらには田中角栄とつづくラインは「保守本流」と言われています。岸信介から始まる清和会の系譜などに比べると、こちらが保守政治の流れの「正統」というわけです。

 この「保守本流」という概念に重なるのが戸川猪佐武が『小説吉田学校』で描いた「吉田学校」という概念です。

 

 吉田茂田中角栄を結びつけるエピソードとしてよく引かれるのが、先述の山崎首班事件において、総務会で引退を覚悟した吉田に対して田中がGHQ批判を繰り広げ、吉田首班を主張したというものです。これによって総務会の空気は一変し、吉田も田中を認知したとされています。

 公式な記録があるわけではありませんが、この後に田中が当選1回で法務政務次官に抜擢されたことから、吉田が田中の働きを認めたものと考えられていました。

 

 これに対して著者は懐疑の目を向けます。エピソードの出典はいずれも戸川の著作であり、他に決定的な証拠はないのです。

 また、当選1回での政務次官への登用は、現在の感覚から言えば破格の抜擢ですが、実は田中の後任となった鍛冶良作も当選1回であり、第2次吉田内閣では田中以外にも鈴木正文が当選1回の衆議院銀で労働政務次官になっています(参議院議員も含めれば大蔵政務次官の平岡市三、文部政務次官の小野光洋もそう)。

 実は、当選1回の政務次官は珍しいものではなく、これだけで吉田が田中を評価していたとは言えないのです。

 

 さらに著者は戸川のエピソードに出てくる総務会そのものの存在にも疑問の目を向けています。詳しくは本書を読んでほしいのですが、そもそも田中は総務会に出席して発言できるような立場ではなく、発言のチャンス自体がなかったのではないかと思われるのです。

 

 では、戸川はなんのためにこのようなエピソードをでっち上げたのか?

 戸川はもともと河野一郎に近い読売新聞の記者でした。しかし、1963年の総選挙に出馬して落選、このときに河野一郎との関係も疎遠になったようで、政治的にも経済的にも行き詰まったと思われます。

 その後、戸川は佐藤栄作を通じて田中角栄に接近します。1965年に戸川が出した「任侠・田中角栄」には山崎首班事件のエピソードが書かれており、田中を売り込むような役目を果たしていくことになります。

 

 このころになると吉田も池田や佐藤の次として大平正芳田中角栄の名前をあげるようになっており、田中の目にも総理大臣というポストが入ってきたことだと思われます。

 さらに田中と吉田の関係を描くことには、ライバルである福田赳夫に対抗する目的があったと思われます。

 経歴などを考えれば福田こそが「保守本流」にふさわしいですが、田中は「吉田学校」というラベルでもっと正当性を主張し、さらに宏池会との連携を目指そうとしたわけです。

 

 本書では、さらに田中が占領期には広川弘禅に近かったこと、広川の転落とそれが田中に与えた影響などについても触れています。

 

 1973年に行われた吉田の7回忌で、田中首相は「[吉田]先生はどう思っていたか知らないが、私自身は吉田門下生のシッポと感じで今日までやってきた」(271p)と述べたそうですが、これは田中を「吉田学校」の一員に位置づけることに異論があることを本人も自覚していたということを表していると考えられます。

 

 このように本書は占領期の日本政治について新たな光を当ててくれます。

 最後の田中角栄に関する部分をはじめとして今までの通説を書き換えている部分も多いですし、また、占領という状況が普通の状態ではなかったこともわかります。

 松本清張の『日本の黒い霧』では、「GHQ黒幕説」が用いられることが多く、ちょっと陰謀論のような印象も受けるのですが、本書を読むとGHQの超法規的な力というのは絶大なものであり、そういった陰謀論的な推理が生まれるというのもわかります。

 今一度、日本における「占領」という出来事を考えさせるきっかけとなる1冊とも言えるでしょう。