先日読んだ松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書)の巻末で本書が紹介されており、「運動や政治にかかわって生きる、とは何を意味するのかについて思索をめぐらす際に、ぜひ手に取ってほしい一冊である」(228p)と書かれていたので手に取って読んでみたのですが、なるほど、これは面白い本。
自由民権運動という「運動」を、「組織」へとまとめあげた豪腕・星亨の手腕と、星の時代からずっと続いている日本の政党政治の問題点が見えてきます。
評伝ということで、この本では星の生い立ちから語られています。
星はペリー来航直前の1850年に生まれたとされています。星の父は佃屋徳兵衛という左官の棟梁でしたが、酒で身を持ち崩し、江戸市中を転々とする状態でした。星の上の姉は品川宿に女郎として売られてしまう状態で、「貧民」といっていい出自でした。
江戸時代の身分制度のもとでは、星が世に出ることはなかったでしょうが、母のマツが医者で占い師の星泰順と一緒になり、さらにその泰順が12歳の星(このころは登という名)を医者の勉強をさせてくれと洋医の渡辺貞庵に頼んだことから人生が開けてきます。
ここで横浜の英学所に学んで星は、御家人の小泉家の養子となり、前島密の知己を得て、海軍伝習所ではたらき、明治維新後に陸奥宗光と知り合います。そして、陸奥に引き立てられる形で政治の世界と関わりを持ち始めるのです。
星は1874(明治4)年にロンドンへと留学します。ここで星は勉強に打ち込み、バリスターという国際的にも通用する弁護士資格を取得します。帰国後、星はこの資格を活かして代言人となり、高島炭鉱事件で後藤象二郎を弁護するなどして注目を集めます。そして、この代言人としての活動で星は一財産を築きました。
若いころの星はとにかく反骨精神の塊のような人物で、行く先々で衝突を起こしています。このあたりは「金持ち喧嘩せず」の逆で、貧民に生まれた星はとにかく相手に傲慢さがあると許せないという偏狭な性格です。
星は1882(明治15)年に自由党に入党し、自由民権運動に身を投じるのですが、これには恩人である陸奥との関係が大きく関わっていますが、同時に権威に反発せずに入られない星の性格がはたらいていたのでしょう。この権威への反発は藩閥政府にだけ向けられたわけではなく、エリートの多い立憲改進党にも向けられました。
自由党内の星は、その資金力によって次第に領袖的な存在になり、自由党という組織を支える存在になります。しかし、肝心の自由党総理の板垣は、次第にやる気を失っていき、党内では何度も解党論が議論されました。
最終的には解党が決まってしまうわけですが、ここで星は解党を阻止しようと粘り強く努力しています。他の活動家が激化事件に走ったり、権力への復帰に焦ったりする中で、星は自由党という組織を何とか維持しようとするのです。
しかし、1884(明治17)年、星が官吏侮辱罪で交流されている間に自由党の解党は決まってしまいます。大井憲太郎などは挑戦の開化党支援の動きに熱中し、大阪事件を引き起こし逮捕されるわけですが、星はあくまでも地道に自由民権運動を再興しようとしました。
そこで星が近づいたのが後藤象二郎です。後藤の知名度と資金力が運動には必要だと考えたのです(ちなみに著者は後藤に関して「後藤ほど自分の行為に対する反省を知らず、しかも功名心の強い人物は明治政治史にも見当たらない」(107p)と手厳しい)。いわゆる大同団結運動が始まります。
この大同団結運動もスムーズに行ったわけではなく、星は逮捕・投獄され、その後、星は外遊するわけですが、星が一貫して自由党の維持と再建に尽力したことは無形の財産となりました(136p)。
1890年(明治23)年10月に帰国した星は、自由党に入党。11月には第一回帝国議会が開かれますが、星はあくまでも自由党という組織を率いて自らの力を発揮しようとしました。
ですが、当時の自由党は組織に大きな問題を抱えていました。自由党を支えてきたのは長年弾圧に耐えてきた活動家であり、党の常議員になったのも彼らが中心でした。一方、自由党の党所属の代議士の多くはそうした活動家ではない豪農地主=名望家出身で、彼らは党の支援で当選したわけではありませんでした。こうした事情から、代議士たちは党の方針に不満を抱くようになり、また党の活動家、特に壮士と呼ばれた人々は代議士たちに不満を抱くようになります(152ー154p)。
結局、この第一回帝国議会は自由党の土佐派が政府によって切り崩されることによって予算が通過します。この土佐派には板垣も同調。またしても自由党は分裂の危機を迎えます。
しかし、星はあくまでも板垣中心の組織づくりを進めようとしました。このあたりの星の行動について、著者は同じく自由党の幹部だった大井憲太郎と比較して次のように語っています。
大井は、板垣の無能・無責任を見て、自分が取って代わり得ると考えた。それに対し星は、板垣がいかに駄目であろうと、党勢維持拡大に必要な限りは板垣を担がざるを得ないと割り切っていた。この違いが、一般党員とくに壮士たちに人気の高かった星と大井の、政党指導者としての成功と失敗を分けたのではないだろうか。(159p)
また、星は次のような言葉も残しています。
政党ハ輿論ニ実力ヲ与ヘル機関デアリマス……議院政治ノ下デ小党分裂スルトキハ、取モ直サズ輿論ヲ実行スル機関ガ分裂スル訳デアルカラ、斯ル場合ハ迚(とて)モ輿論ヲ実行スルコトハ出来ヌ。然レバ小党分裂ハ国家人民ニ害アルモノデアリマス(149p)
このように星は政治に対して徹底的なリアリストでした。
1892(明治25)年の衆議院議員選挙で栃木1区から当選した星が狙ったのは衆議院の議長でした。星は陸奥の影響力が強い独立倶楽部の支持を得て衆議院の議長となると、陸奥の支持を得て松方内閣を散々痛めつけます。結局、松方は退陣し、元老たちに政党の力を見せつける結果となりました。
松方の後をついで第2次伊藤内閣が成立しますが、伊藤は陸奥を外相に迎えることでこの難局を乗り切ろうとしました。そして、星は自由党を強引に伊藤内閣支持へと転換させます。
地租軽減が貴族院の反対で廃案になるのであれば地方産業の振興のための積極政策を支持したい、何度は総選挙を戦うのは御免だという現職代議士のムードをうまく利用したのです(170-172p)。
そして、この方向転換を可能にしたのは星が壮士団の中に影響力を広げていたからでした。このあたりの事情について著者は次のように分析しています。
自由民権運動の昂揚期に理想に燃えて運動に投じ弾圧に耐えてきたかれらは、大きな目標であった国会開設がまがりなりにも実現したとき、この先自分たちは主役ではないことに気づかされた。しかも生業を身につけるために修業すべき青年時代を政治運動の興奮のなかに過ごしたかれらが、いまさら堅気の生活に戻るのは難しかった。
そういう壮士たちの苛立ちを、第一議会で大井憲太郎らは、代議士団のなかで劣勢な関東派の意志を立憲自由党全体に押しつける物理的手段に利用し、裏目を見た。(中略)そのとき、もう一人の人物、赤貧から身を起こし、民権期に一貫して自由党維持に尽力し、解党後の闇のなかでも”燈”をたやさず運動再建に献身し、財産を抛ち、二度の牢獄生活に耐え、しかも欧米帰りの新知識である星亨が、壮士たちの頼るべき指導者として大きく浮かび上がってくる。(173-174p)
壮士たちを制御した星は代議士たちの信頼も得て、伊藤内閣に協力すると同時に改進党を攻撃します。第四議会は、藩閥政府対民党という構図が崩壊した日本政治史の大きな分岐点となりましたが、その舵取りを行ったのが星でした(182p)。
しかし、さすがに星の強引な議会運営は反発を呼び、第五議会では星議長に対する不信任決議が可決され、これに星が従わなかったため議員を除名されます。その後の選挙で星は議席を回復しますが、選挙で借金も背負った星は意気消沈し、朝鮮公使井上馨に誘われ朝鮮へと渡ります。
ところが、この朝鮮行きはまったくうまくいかず、その後の国内の政治情勢も星には味方しませんでした。結局、1896(明治29)年、星は駐米公使に任命されアメリカに渡ります。
英語が読めたものの話すことが得意でなかった星は、駐米公使として華々しい活躍をしたわけではありませんが、アメリカのハワイ併合の問題に関しては、自らの輩下がハワイ移民の会社に関わっていたこともあり、日本の権利の擁護を熱心に働きかけました。
そんな中、日本では第3次伊藤内閣が崩壊し、自由党と進歩党が連携した憲政党による隈板内閣が成立します。星が不在の中、とりあえず政党に政権が回ってきたのです。
しかし、隈板内閣は自由党系の議員と進歩党議員との争いが絶えず、その対立は尾崎行雄の共和演説事件とその後任人事を巡ってさらにエスカレートします。
ここで隈板内閣と憲政党の破壊に動いたのが星です。憲政党の解党し、ただちに同じ名称の新党を進歩派をのぞいて発足させるという奇策を打つと同時に、次の首相の有力候補であった山県有朋に接触し、自由党(憲政党)との提携を持ちかけます。そして、見事に大隈重信と進歩派の追い落としに成功するのです。
第2次山県内閣において星は地租増徴法案を通します。地租増徴をやむなしと考えていた星は、山県に議員歳費の増加を認めさせ、さらには反対派の一部の議員の買収で切り崩し、これを成立させました。
「民力休養」がスローガンが民党のスローガンであった時代は終わり、星は地方への利益供与によって党勢を維持拡大させようとします。「地方利益欲求は利用すべき資源として捉えなおされ」、これを実現するためのパイプとして党を売り込み、「憲政党党勢を拡張するという戦略を、星は発明した」(269p)のです。
ここに戦後の自民党に至る、日本の政党の一つのスタイルが生み出されたと言ってもいいでしょう。
さらに星は東京の市政掌握にも乗り出します。日清戦争後、市街地の拡大人口の増加が続いていた東京では、さまざまな事業が展開させており、市会を押さえることでこれらの事業を行う実業家への影響力を持とうとしたことが主な理由ですが、その他にも関東派の壮士たちの就職口をつくるという目的もあったと著者は考えています(273p)。「役割を終え放置すれば撹乱分子となる壮士たちを成仏させることが必要であった」(275p)のです。
このような星の動きに対して憲政党の内部からも不満が出ますが、結局は党勢拡大のための資金を用意できる人物は星以外には存在せず、憲政党の主導権は完全に星が握ることになりました。
この後、山県との提携を解消した星は伊藤博文がつくろうとしていた立憲政友会に参加、ここでもその実力を見せつけることになります。
しかし、第4次伊藤内閣が崩壊し、第一次桂内閣が成立した直後、星は伊庭想太郎に刺されて死にます。星がさまざまな汚職事件にかかわったとされること、また、星が東京の教育改革を進めようとしたこと(寺子屋的な学校を廃止し、公立の小学校を整備する)が要因だとされています(星はこの教育改革を進めるため儒教倫理を攻撃していた)。
このように「悪名」を背負ったまま星は亡くなるわけですが、いろいろと問題を抱えているにしろ、自由民権運動という「運動」を「組織」に転換させた星の手腕というのはやはり見事なものがあると思います。
この「運動」を「組織」に転換させるというのは難しいもので、近年ではアラブの春におけるエジプトがこの失敗事例になると思います。SNSなどを使った「運動」で独裁者のムバラクを鮮やかに倒してみせた「運動」でしたが、民主化運動を担った若者は「組織」をつくることはできず、大統領選挙ではムスリム同胞団という「組織」に支えられたムルシー(モルシ)が勝ちました。このムルシーに反対する運動は軍政の復帰につながり、結局、エジプトは元に戻ったような形になりました(このあたりの経緯は鈴木恵美『エジプト革命』(中公新書)に詳しい)。
自由民権運動も何も生まなかった可能性もあるのです。
もちろん、星が発明し、原敬が育て上げ、自民党に受け継がれた地方への利益誘導システムは理想的な組織とはいえません。それでもなお、「運動」のカオスの中から「組織」をつくり上げた星の手腕は評価されるべきだと思いますし、この本はそうした星の業績を、問題点を含めて書き上げた面白い本だと思います。
当然ながら絶版ですが、古本で探して読む価値があります。