矢幡洋の読売の投稿への疑問

 今日の読売新聞の夕刊に精神科医矢幡洋が「強迫性喪失の時代」ってタイトルで、日本人と強迫性パーソナリティについて述べているんだけど、これはちょっといい加減な分析じゃないかな。中身の一部を紹介すると

 しばしば「アメリカ人は誉めて人を育て、日本人は欠点を指摘して人を育てる」と言われた。パーソナリティ障害理論の権威であるセオドア・ミロンは強迫的傾向を形づくる最大の要因を「ミスを見つけて叱る」という家庭教育に見ている。その他、日本社会全体が強迫性のトレーニング場にも似た様相を呈していた。
 (中略)
 ところが、経済的停滞が続き「変わらなきゃ」ということが呪文のように唱えられるようになると、強迫的人間はもっぱら否定されるべき対象と見なされるようになった。
 (中略)
 だが、強迫的人間の全否定はかつての日本社会の貴重なものを失わせたのではないだろうか。(中略)小学校の学級崩壊から大学講義中の絶え間ない私語に至るまでの、「集中力を維持する能力の低下」は強迫性の喪失現象なのではないか。

 というような感じなんだけど、だいたい「変わらなきゃ」なんて呪文のように唱え続けること以上に強迫的なことなんてあるのかって思う。それだし、一応教員をやってるものとして強迫的なタイプがまじめで静かにしてるってのはウソ。「静かに授業を聞かなければならない」っていう強力な価値観があるなら、強迫的なタイプは静かにしているかもしれないけど、現在のように「まじめさ」よりも「友だち」が大事にされるような価値観の中では、当然、友だちと強迫的にしゃべることになりますね。私見では、分裂的というか、神経症的な部分が目立たない生徒のほうが圧倒的に静かだと思います。
 また、

 ライブドア事件に見られるような「法の隙間をかいくぐってやろう」という姿勢は、ルールから足を踏み外すまいとする小心な強迫性とは正反対である。

 って書いてるけど、ライブドア時価総額を世界一にって考えとか、堀江社長のメディアへの露出の仕方こそ強迫的って言えるんじゃないかな?

晩ご飯は豚汁