斎藤環『家族の痕跡』読了

 斎藤環『家族の痕跡』を読了。一昨年は本を出しまくり状態でしたが、去年は『「負けた教」の信者たち』くらいしか出さなかった斎藤環。さすがにネタ切れなのかと思ったら、今回の本はすごい面白い!
 タイトルからわかる通り「家族」について語った本なんだけど、精神分析を枠組みとして用いるものとして当然ながら家族に決定的な地位を与えつつも、社会学的なセンスでもってその「幻想」に対して揺さぶりをかけるこの本は、まさに斎藤環ならではの仕事であって、腐る程積み上げられてきた「家族論」に新たな視点を提供するものだと思う。
 この本は、もともと「ちくま」に連載されたものをまとめたもので、いくつかの視点を切り替えながら「家族」について論じている。
 第1章・第2章は、著者の得意分野である「ひきこもり」の問題などを取り上げつつ、家族のある種の病理的な側面に対して精神医学の分野からアプローチしたもので、ベイトソンダブルバインド論などを使いつつ家族のねじ曲がった関係を以下のようにえぐり出しています。

 多くのひきこもりを抱えた母親たちが、わが子に「早く自立しなさい」「家から出なさい」という否定的メッセージを繰り返し与えつつ、実はわが子の生活を曖昧に支え続けている。無限に許す母親がいけないのではない。そんな母親こそ例外的存在なのだ。否定の言葉とともに抱きしめることが、いかに人を束縛するか。ひきこもる本人は、そうした姿勢に秘められた矛盾を意識しつつも、もはや関係の磁場から立ち去ることができなくなる。これこそが私の考える「日本的ダブルバインド」の本質である。(27p)

 こうした事態に対して。高野文子の『黄色い本』を引用しつつ、コミュニケーションの「情報の伝達」の側面ではなく、「情緒の伝達」の側面を重視すべきだと言う提言は有効なものでしょう。
 でも、この本はこれだけでは終わらず、さらに「家族と世間」という社会学なテーマに移っていきます。「世間」がつねに「個人」を規制する存在に見える日本にあっても、実は「世間」が規制しているのは「家族」ではないか?「世間」がバッシングを行うのは「反社会的行動」ではなく、「反家族的・非家族的行動」ではないか?という著者の分析はかなり説得力があり、そこらへんの社会学者よりもずっと鋭い日本社会の分析になっています。
 そして最後の部分では夫婦関係についても触れられており、ここでも安野モヨコの夫婦マンガ『監督不行届』などで描かれる「子供としての夫」に注目しつつ、

 妻を母親と見なす発想は、ながらく家父長制のもとで甘やかされた男性側の要請のみに基づく、とみなされてきた。しかし、けっしてそればかりではない。夫婦であることを他人に「見せる作法」として、夫は妻を母親扱いし、妻は夫を子供扱いするという形式しか持つことが出来なかった、われわれの「世間」こそが問題なのだ。(208p)

 と分析しています。
 もちろん、こうした分析やこれ以外の斎藤環の考え(特にエディプス・コンプレックスを中心とした精神分析的考え)に対してすべての人が賛成するものだとは思いませんが、これ以外にもいろいろと考え差でる話題がつまっており、「家族」とその周辺の問題を考える上で非常に示唆に富んだ本になっていると思います。

家族の痕跡―いちばん最後に残るもの
斎藤 環
4480842691


晩ご飯は豚コンソメシチュー