著者は1973年バンクーバー生まれ、ノース・カロライナに育ちのアメリカの作家でこの短編集がデビュー作。
以下に引用する青山南のカバー裏の紹介文がこの作品をよく表しています。
かつてレイモンド・カーヴァーやトバイアス・ウルフは、アメリカ社会の吹きだまりのようなところでひっそり生きるひとびとを、簡潔な言葉で書いた。そこには夢を持てないことを嘆くブルースみたいな音楽がただよっていたのだが、タワーの作品群にはそういうものがまったくない。彼らはただただ不機嫌なのだ。苛立ち、トゲトゲしている。「奪い尽くされ、焼き尽くされ」た21世紀のアメリカは、ブルースすら生まれない、とほうもない荒涼のなかにある。シニカルを超えた、ほとんどシックなユーモアが、リアルなアメリカをつかまえる。
確かにタワーの作品はカーヴァーのようでいて、それよりも荒涼としている。とにかくラストで「台なし」になってしまう作品が多い。
で、僕が思い出したのは高橋源一郎の『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』
に所収のエッセイ「レイモンド・カーヴァーをアーヴィング・ハウがほめていた」。
ここではアーヴィング・ハウというやや保守的と見られる評論家がカーヴァーの「改心」、「ザ・バース」から「ア・スモール・グッド・シング(ささやかだけれど、役にたつこと)」の変化を評価したことがとり上げられています。
「ささやかだけれど、役にたつこと」はカーヴァーの代表作の一つとも言える短編で、村上春樹訳の『Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』にも収録されています。
子どもの誕生日にパン屋にケーキを注文した夫婦。ところが誕生日の当日に子どもは交通事故で死んでしまいます。何も知らずにケーキを引き取るように電話をかけつづけるパン屋。怒ってパン屋に乗り込んだ両親に、パン屋は謝り、パンを差しだして「こんなときは、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と言います。
これが「ささやかだけれど、役にたつこと」のあらすじですが、その前バージョンとも言える「ザ・バース」では、最後のパン屋の癒しは出てこずに子どもをなくした両親にパン屋からの電話が鳴り響くところで終わっているそうです。
そして、この「癒し」を与える改変をハウが誉め、それに高橋源一郎が違和感を覚えるというのがエッセイの内容です。
で、ようやくタワーの『奪い尽くされ、焼き尽くされ』の話になりますが、タワーの描く作品はすべてカーヴァーの「ザ・バース」のような作品です。つまり、「癒し」のまったくないカーヴァーというのが、僕が受けたタワーの印象です。
「茶色い海岸」で水槽の静物をすべてダメにしてしまう毒ナマコ、「保養地」の腐った鹿肉、「野生のアメリカ」のはげたデブの父親。すべてが主人公のほんのちょっとした希望を台なしにしてしまいます。
「目に映るドア」と「奪い尽くされ、焼き尽くされ」をのぞいては、どれも読後感の「悪い」小説と言えるでしょう(「奪い尽くされ、焼き尽くされ」は人によっては読んでる最中から気分が悪いかもしれませんが)。
この「露悪的」ともとれるスタイルは評価が分かれる所だとは思いますが、文章は端正で無駄がなく非常にうまいです。短編作家としての力量はかなりのものでしょう。
カーヴァー、あるいはそこから影響を受けている村上春樹の短編が好きな人は読んでみる価値があると思います。
奪い尽くされ、焼き尽くされ (新潮クレスト・ブックス)
ウェルズ タワー Wells Tower
Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選
レイモンド カーヴァー Raymond Carver
ぼくがしまうま語をしゃべった頃 (新潮文庫)
高橋 源一郎