梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』

 タイトルの「壁と卵」は、御存知の通り村上春樹エルサレム賞のスピーチで用いられた比喩、それに「現代中国論」というと、内田樹みたいな人物による中国に関するエッセイみたいなものを想像するかもしれません。
 けれども著者の梶谷懐は現代中国論を専門にする経済学者。前半は中国の様々な問題とそれをめぐる国際社会の対応について、アカロフやハーシュマンなどの経済学者の議論をもとにしながら分析しています。


 例えば、中国の「毒入りギョーザ事件」から始まった中国産の食品への忌避を、現在の原発事故による風評被害と重ねながらアカロフの「レモンの市場」の考え(中古車市場では売り手は中古車の情報を知っているが買い手には情報がなく、その情報の非対称性のために買い手が買い控えをし価格が下がってしまう)を用いながら分析したり、国際的に批判の高まった中国の「搾取工場(スウェットショップ)」へのボイコットの問題に対しては、ハーシュマンの「離脱・忠誠・発言」の理論を応用しながら、その実効性に疑問を呈しています。
 このようにこの本は正当な経済学の知見をもとにして、わかりにくい中国経済とその中国が国際社会に与える影響を探ってみせた本です。


 ただ、この本の面白さ、そして梶谷懐という著者の魅力というのはそこだけではないです。
 

 現代社会において何か社会問題を分析しようとするとき、やはり一番の力を発揮するのは経済学だと思います。
 社会学政治学といった学問がほぼ社会の記述をするのに手一杯なのに対して、経済学は効用なりGDPなりの単純な価値基準をもとにして現実的な処方箋を書く力があります。もちろん「金がすべて」ではないのは当たり前ですが、金銭的価値観に注目するからこそ、「よい」「悪い」ということを言える面があります。
 しかし、経済学はその想定するモデルの明快さから逆に現実の複雑さを見れていない部分があります。おそらく、多くの人が、この過度の単純化に経済学者に胡散臭さを感じるにでしょうし、経済学の本をそれなりに読んでいる自分でもそれを感じることがあります。例えば、経済学者の鈴木亘社会保障論はわかりやすいですし、その批判には聞くべき所が多いと思いますが、彼の年金改革案(積立方式への移行)ができるとはとても思えません。


 その点、この本の著者の梶谷懐の専門は中国経済という単純なモデル化を許さないやっかいな対象。
 表向きは社会主義国家でありつつ、同時に新自由主義が最も貫徹しているとも言われる国が中国であり、その経済体制は鵺のようにとらえどころがありません。
 訒小平の改革以来、確かに中国では市場経済が浸透しほぼ資本主義社会が出現しているようにも見えるのですが、やはり経済学のモデルで捉えるには異質な部分を含んでいます。そんな中国経済を、「中国異質論」でも「中国こそ剥き出しの資本主義!」でもない形で、既存の経済学の知見を当てはめながら分析しようというのが著者のスタンスです。
 例えば、中国の農村と都市の格差の問題を取り上げながら、「なぜ、ここまで格差がありながら農民は農業をつづけるのか?」という問題に対して、中国の農民の土地所有の形態は土地の「請負権(=経営権)」を割り当てられているだけであり、農民は自由に土地を処分することができから都市に移動できないのだと分析した第3章の分析などは、「なるほど」と思わせるもので、中国の経済の特殊性と今後の中国経済の動向を教えてくれるものです。


 さらに著者の本領は本業の経済学を離れたところでも発揮されます。
 「第8章 これからの「人権」の話をしよう」、「第9章 日本人の中国観を問いなおす」、「第10章 <中国人>の境界」、「第11章 村上春樹から現代中国を考える」は、いずれも経済に焦点を当てたものではなく、とり上げられているのは中国の政治であり、民族問題あり、日本人の中国観です。
 特に劉暁波ノーベル平和賞受賞、そしてチベットのラサ、ウイグルウルムチで発生した民族間の衝突を扱った部分は、中国を論じるときに陥りがちな「右翼的な反中」、「左翼的な親中」の立場から慎重に距離を取りながら冷静に論じていて、非常に面白いです。
 

 そしてラストの「第11章 村上春樹から現代中国を考える」は村上春樹論としても興味深い内容を持っています。
 村上春樹の作品には、例えば「羊」3部作の「ジェイズ・バー」のマスターの「ジェイ」を始めとして中国人が頻繁に登場していて、彼らは中国人のステレオタイプに陥らないような形で描かれています。一方、『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる蒙古兵は無表情で理解不能です。このモンゴル人の描き方について批判することは可能でしょう。けれども、著者は昔から華僑の多かった神戸出身の村上春樹が日本と中国をひとつの世界として考え、その外部としてモンゴルを措定している可能性を指摘します。
 この村上春樹と中国の関係は、個人的に重要だと考えているのですが、なぜか宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』や市川真人『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか』でも取り逃されていた視点です。特に後者に関してはリンクを張ったブログでも書きましたが、どうしてそこにこだわらないのか謎です。
 中国経済に興味がなくても、村上春樹に興味があるのなら、この第11章だけでも立ち読みするといいと思います。
 

 なかなか内容を説明し尽くすことが難しい本なのですが、良い意味で「知識人の仕事」を十二分に果たした本であることは間違い無いです。


「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか
梶谷 懐
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