中井久夫の分裂病についての知見とピンチョン

 今月読んだ、中井久夫の『最終講義』は、著者の30年に渡る精神分裂病治療の一つの到達点とも言うべきもので、分裂病患者に対する絵画療法の具体的な進み方や、治療における著者の箴言的な知など、短いながら非常に読み応えのある本です。(分裂病(今は統合失調症)についてよく知らない人は、笠原嘉『精神病』(岩波新書)あたりを読んでからこの本を読むといいでしょう)


 この本の最後で、中井久夫は個人的な見解として「分裂病は特に幼少期あるいは青年期のマインド・コントロールに対する防衛という面があるのではないか」と述べ、さらに「(多重人格)を分裂病と対比しますと、分裂病には自分が唯一無二の単一人格であり続けようとする悲壮なまでの努力がありありと認められます。何を措いても責任だけはわが身に引き受けようとする努力です。」という形で、最近増加していると言われている多重人格との対比をしています。


 この部分に関しては、「批評空間」第3期1号の中井久夫斉藤環浅田彰の対談「トラウマと解離」でも言及があり、分裂病の減少・軽症化と多重人格を始めとする解離の増加という現象を、浅田彰が「父権的な法による抑圧」から「寛容なポストモダン消費社会」への変化という文脈で解釈しています。基本的にこの解釈は間違っていないと思うのですが、この中井久夫の言葉からはもう少しいろいろなことが考えられそうです。


 個人的に思い出したのは、去年読んだトマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』の次の部分です。

「私が来たのは」と彼女は言った〜「先生とお話しすれば、ある幻想を追っ払ってくれるんじゃないかと思ったからよ」
「それは大事に取っておけ!」とヒレリアスは激しく叫んだ。「それ以外に、だれに何があるんだ?その幻想の小さな触手をしっかり握ることだ。フロイト学派のいうことを聞いてそれを手放したり、薬剤師の薬でそれを追い出したりするな。それがどんな幻想であろうと大事に握っておくんだ。それをなくしたら、その分だけ、君は他人のほうに行ってしまう。存在しなくなり始めるんだ」


 この小説の主人公エディパは、昔の恋人の遺産執行人を引き受けたことから、「トライステロ」というヨーロッパやアメリカの歴史に暗躍する秘密郵便組織の存在、あるいは“幻想”にとりつかれることになります。そして、これは“幻想”だと考えたエディパは、精神科医ヒレリアスにこの幻想を追っ払ってもらおうと思い、ヒレリアスを訪ねますが、彼はこのように言うのです。


 このヒレリアスのセリフと中井久夫の見解は大いに重なるところがあるのではないでしょうか?


 ヒレリアスの考えは、そのパラノイア的想像力で長編小説を書いてきたピンチョン本人の考え方に通じるものだという気がします。いっさいのインタビューや表舞台に断つことを拒否し、『重力の虹』から『ヴァインランド』まで17年もの間、いっさいの小説を書かず、沈黙を続けたピンチョンこそ、急速に変化したアメリカ社会の中で“マインド・コントロール”を拒否し、「唯一無二の単一人格であり続けようとする悲壮なまでの努力」を続けた人物のように思えます。そして、その産物である“幻想”が巨大な想像力となって作品に結実したのではないでしょうか。


 中井久夫の示唆と、「分裂病から多重人格への流れ」というのは、さらに時代のさまざまな変化を分析するための大きなヒントだと思いますが(例えば「キャラが〜」という最近の言葉、「自分探し」という現象など)、それについてはまた次の機会に考えてみたいと思います。


最終講義―分裂病私見
中井 久夫
4622039613


競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)
トマス・ピンチョン 志村 正雄
4480426965