中井久夫『世に棲む患者』

 『精神科医がものを書くとき』『隣の病い』につづく、ちくま学芸文庫中井久夫選集。
 前2冊は、『精神科医がものを書くとき』の単行本を2冊に分けて文庫化したものですが、この『世に棲む患者』は『中井久夫著作集』第5巻「病者と社会」の中に収められた文章を中心に編まれたもの。今回のほうがより精神医学的な内容になっています。


 ただ、そんな専門的な内容にも関わらず、一般的な生活にも十分に当てはまる形でそれを示してくれるのが中井久夫のすばらしいところ。
 例えば、第1部は病院から退院した統合失調症の患者がいかにその生活圏を広げ、社会に適応していくのかということが語られているわけですが、そこでの「労働論」は一般の人にも共通したもので、「労働」というものを違った角度から照らしてくれているものです。


 中井久夫は、労働の価値として次の8つのことを上げています。
 1,金銭取得
 2,職についていることで与えられる「社会への安全通行証」
 3,自尊心の増大
 4,身体感覚的な「機能快」
 5,働くことにひそむコミュニカティヴな価値
 6,「休息」を深いものにする
 7,人生のメリハリを与えるものの一つ
 8,対人関係の基盤

 
 どれもなかなか興味深い説明がなされているのですが、ここでは4つめの「休息」について紹介します。中井久夫は一般の労働者の行動の中にいかに多くの休息が織り込まれているかを指摘し、それに対して統合失調症の患者は「休息が不得手」(55p)と言い、次のように「休息」の重要性を説きます。

 「休めないが働ける」者は、いれば怪物である。(中略)休憩によって限界づけられていない労働は、結局、生活の中に位置づけられず、したがって生活に統合されない。彼が働いているにしても、それは表面的な悲しい対社会的糊塗にすぎない。(64ー65p)

  

 このあと、勤勉に働くことが当たり前とされている農村や企業文化の土地よりも、天候によっては船を出さずに労働しないでいる時もある漁村のほうが患者の社会復帰がしやすいことなどを指摘し、さらにいくつかのアドヴァイスを行っています。
 次の部分などは病気でない人も頭に留めておくといいことではないでしょうか。

二日睡眠不足がつづき、三日目に頭が冴えてきて「今までの自分は半分寝ていたようなものだ、今こそほんとうの自分がついに生まれた」と思ったら、それは残念ながら行き止まりの途に入りかけたので、すぐ来てほしい。(69p)


 これ以外にも第2部の説き語りシリーズ(精神科のミニ雑誌に載った講演を中心にまとめたもの)を中心に、興味深い部分が満載です。
 説き語りシリーズでは、「統合失調症」、「アルコール中毒」、「妄想症」、「境界例」、「強迫症」について、ざっくばらんに語っているのですが、とにかく非常にためになります。
 ここは本当に類まれなる人間にたいする洞察に満ちているのですが、最後にそのいくつかを紹介しておきます。

いうまでもないことだが、”プライドの高い人”とは、一般的に自己評価の低い人である。だから、他人からの評価によって傷つくのである。逆にいえば、他人からの評価によって揺らぐような低い自己評価所持者が「プライドの高い人」と周囲から認識されることになる。(146p)

一般に最初の治療者との最初の接触の時に境界例を示している患者は少ないのではないか。患者の側に準備性、あるいは動機の成熟があるとしても、「治療者という嗜癖物質の提供」によってはじめてウィニコットのいう「独りでいられる能力」の喪失が成立するのではないか。(181p)

夫婦はそもそも二者関係であって、成人的な三者関係をこなせない人も一応夫婦にはなれる。(188p)  


世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)
中井 久夫
4480093613