『ファイト・クラブ』に見る「解離」の世界

 今月はまず、精神科医・笠原嘉の『軽症うつ病』(講談社現代新書)の中の次の名言から。

「心の治療はできることなら『あまり深くメスを入れないですませる』のが名医(?)だと私自身は思っています。」


 これはまさにその通りと思うのですが、この欄は先月に引き続き、精神医学っぽい話がつづきます。


 先月はこの欄で「分裂病の減少・軽症化と多重人格を始めとする解離の増加」という話題を出しましたが、今月はその流れで、映画『ファイト・クラブ』を取り上げたいと思います。見た人はわかっていると思いますが『ファイト・クラブ』の主人公は多重人格です。不眠症に悩むビジネスマンの主人公は飛行機の中でタイラーという男に出会い、それがきっかけで暴力と破壊の世界に染まっていくが、実はタイラーとは主人公のもう一つの人格だったという結末。やや設定が厳しい感じもしますし、後半の話の流れはかなり強引なのですが、それでも、とても面白いし、考えさせるポイントに満ちた映画です。


 多重人格とは「解離」という症状の重篤なものですが、斉藤環は著書の『博士の異常な思春期』の中で、「一つの世界に対して主体を複数に分裂させる身振りが『解離』である」と述べています(これに対して主体の単一性を維持しながら外界を分裂させるのが分裂型の身振り)。『ファイト・クラブ』の主人公も、タイラーとの出会いにより世界への見方を変えていきますが、別に“世界自体”が急にその姿を変えたわけではありません。


 また、斉藤環は同じ著書の中で「解離」と「マインド・コントロール」の関係について取り上げ、「マインド・コントロール」を「意図的に生じせしめた解離状態を操作的に用いる行為一般」だとし、マインドコントールの技法が誘導する「『我執』を捨て、『事実と思いを分離』すること」が「すすんで意識を解離させる身振り」だとしています。ここから思い浮かぶのは『ファイト・クラブ』の前半での、主人公が難病患者の会に加わり泣くシーンです。


 この現代社会に流通する「感動」や「癒し」といったものをグロテスクなまでに戯画化したシーンは、後半の暴力シーン以上に、この映画の現代社会に対する鋭い批評性をあらわしているシーンだと思いますが、ここで行われているのは、まさに「『事実と思いを分離』すること」です。主人公は難病にかかっているわけでもないし、死期が迫っているわけでもありませんが、そうした自分の立場を忘れ、会の仲間と泣き、カタルシスを得ます。つまり、現実に対し「難病でもない自分」と「あたかも難病患者のように泣く自分」の二つの人格に分裂しておいるのです。この経験が、後の主人公の「多重人格化」=「解離」を準備しているとも言えると思います。


 このシーンはフィリップ・K・ディックの1974年の作品、『流れよわが涙、と警官は言った』のルースという女性の次のようなセリフにもつながるものがあります。

「でも悲しむというのは、死んでいると同時に生きていることなのよ。だから私たちの味わうもっとも完璧で圧倒的な体験なの。」(中略)「悲しみはあんたと失ったものをもう一度結びつけるの。同化するのよ。離れ去ろうとする愛するものや人とともに行くのね。何らかの方法で自分自身を分裂させて、その相手と同行して、その旅の道づれになる。行けるところまでついていくの」


 ここまで来ると、いわゆる「児童虐待によって生み出される多重人格」という話まであと一歩というところですが、個人的に多重人格の増加と「トラウマ原因説」には疑問を持っているので、この話はここまでにしておきます(多重人格の増加については詐病の可能性とルーピング効果(新たな病気のカテゴリーの使用が病人を増やすという説)、「トラウマ原因説」については「症状→記憶」的な因果関係の可能性(2002年6月のこの欄参照)があるからです)。

 個人的に多重人格にはやや胡散臭いものも感じていますし、以上のような分析にどこまでの妥当性があるのかはわかりませんが、『ファイト・クラブ』が「解離」の時代を象徴する映画であるというのは間違いないことだと思います。


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