”解離”の世界の生きる道

 柴田元幸の訳したT・R・ピアソンの『甘美なる来世へ』は、バカらしい情景をバカ正直に描いて笑える作品。アメリカ南部のど田舎を舞台に、1ページ以上にわたって切れない文章、などというとフォークナーを思い出しますが、実際、「現代のフォークナー」という感じもありです。ただ、ピンチョン以降の作家ということで、大きな問いを正面から論じた“大艦巨砲主義”時代のフォークナーとはもちろん違いますが。


 今月は斉藤環の新刊、『解離のポップ・スキル』について。この本は斉藤環のやや専門的な論文を集めたものですが、ここでは、その中の「『空虚さ』越え『不安』のほうへ」という論文を中心に取り上げたいと思います。


 現代のキーワードとして「空虚さ」ということがよく言われますが、斉藤環はこの「空虚さ」を「あらゆる欠如がイメージによって補填される可能性に接したときに喚起される」ものと分析します。加藤典洋大澤真幸の分析によれば、70年代初頭までの「欠如の時代」、70年代後半から80年代の「欠如の不在の時代」に対して、現代は「『欠如の不在』を欠如としてとらえる時代」だといいます。つまり「欠如そのものを欲望する時代」なのです。この現代において、もっともリアルなものは「欠如そのもの」ということになります。ここで「空虚さ」がクローズアップされてきます。なぜなら、「空虚さは欠如の対極にある。『欠如の不在』を欠如としてとらえることが、とりもなおさず空虚さの感覚につながる」からです。


 そして、こうした中で増えているのが“解離”の現象です。“解離”とは「心というひとまとまりのものにおいて、時間的ないし空間的な連続性が損なわれる」現象で、本来は「外傷的な体験に苦しむ主体が、その体験が自分のものでなく別の人間の身の上に起こったことであるという形で苦痛を処理するための技術として発展」したものです。この解離については去年の1月と2月のこの欄でも取り上げましたが、現代の精神病理のトレンドである多重人格、PTSDなどはこの“解離”とよばれるものに含まれます。また、最近の流行である「キレる」現象も、ここでは解離の一種として扱われています。

 そして斉藤環はこの流行を次のように分析しています。

 解離の増加にはさまざまな要因が考えられる。しかしあえて単純化を試みるなら、個々には主体の定位をめぐる嗜癖的な悪循環のシステムがあるとは考えられないか。日常を覆う「空虚さ」の苦痛から逃れるべく、あえて解離にはまり込むこと。進んで解離し、制御不能な暴力の衝動に身を任せること。意味と動機で構成された日常の引力圏を脱出して、あたかも純粋な強度そのものであろうと欲すること。しかしこれ自体が、言ってみればロマン主義的な身振りにすぎない。もちろんこの試みは失敗する。他者との出来事の介入なくして人はナルシシズムを超えられないのだ。しかし失敗は反復されるだろう。なぜなら失敗における失望と落胆こそが、いつか訪れる満足の幻想を輝かせ、嗜癖のシステムを回す当のものであるからだ。


 「キレる」のは若者だけではありませんし、また、斉藤環が指摘するように「『無意味にキレる若者』というイメージをわれわれ自身が待望していた」という面もあるでしょう。「キレる」ということは、単に「最近の若者の無軌道さ」などではなく、“解離の時代”のある種の生き方なのです。


 また、近年の流行である「自分探し」などもこういった観点から分析できるかもしれません。「自分探し」というのは、「一貫した自己」を求めるという外見がある一方で、際限のない「自分探し」というのは、常に「本当の自分」を探し続けることで、「一貫した自己」を拒否することでもあります。多重人格の症状における交代人格は、妙に“キャラクター”のようで、“スペックとしての人格”のようであると言われますが、際限のない「自分探し」の中で、追い求められるのも、この“スペックとしての人格”のようなものではないでしょうか?


 「欠如そのものを欲望する時代」の中で、その「欠如」はすべてイメージによって埋められてしまっているという状態があります。その状況に対し、一方に次々と新しいイメージを獲得しようとする「自分探し」があり、もう一方に意味(イメージ)を拒否する「無意味な暴力」というものがあるのでしょう。


解離のポップ・スキル
斎藤 環
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