「寛容さ」について

 ちょっと前の朝日新聞の夕刊(6月5日(月))に内藤正典という一橋大の教授が「オランダ。自由ゆえの不慣用 移民難民の疎外、顕在化」というタイトルで、オランダでイスラム社会の人権弾圧を糾弾してきたソマリア出身の女性アヤーン・ヒルシ・アリが亡命申請のときに虚偽の申告をしたとして国籍が剥奪されたニュースに絡めて、オランダ社会における外国人憎悪を取り上げてた文章を書いてる。

 そこで、内藤正典氏は

 彼ら(オランダの自由民主党)は、自らを偏狭なナショナリストに基づく「極右」とは考えていない。危険性はここにある。むしろ、自由を希求する人々が、閉鎖的環境のなかでの快適さを求め、異文化との疎ましい共生を拒絶するために「打ちなる壁」を築こうとしているのである。だが、その帰結はゼノフォビア(外国人憎悪)の表出でしかない。

として、

 個人の自由意思を先鋭化させることが、異文化を背負う他者の排除に向かうなら、ヨーロッパがEU欧州連合)統合によって築こうとしてきた強調体制が内部から崩壊していくことを意味する。

という形で結んでいますが、そんな単純なものではないだろう、と。
 
 タイトルにあるように内藤氏は「自由ゆえの不寛容」ということで、オランダで「寛容さ」が失われていることを批判的に取り上げているわけですけど、この「寛容」というのが実はやっかいな概念だと思う。
 以前、2002年の5月に暗殺されたオランダの政治家、ピム・フォルタインについて少し文章を書いたことがあるのですが(http://www.d4.dion.ne.jp/~yamayu/20031kansou.html の5月31日)、彼は「寛容」という概念を利用して、イスラム社会の「不寛容さ」を訴えました。その文章から引用すると、

 特に注目すべきなのは彼の移民、特にイスラム系の移民を制限しようとするときに使うロジックです。例えば、彼はイスラムグループの指導者とのテレビ討論番組では、フォルタインがゲイであることを不道徳であると激しく詰問する相手のゆがんだ表情がテレビに大写しになった直後、彼はカメラに向かって、「ね、こういうことなんです。みなさんわかりますね」とだけ言って、いかにイスラム社会が非寛容な文化であるかということを示して見せたといいます。つまり、今までは移民を受け入れる側の主張であった“寛容”という概念を逆手にとってイスラムの後進性を訴えるのです。彼に言わせれば「イスラム教は時代遅れ。党が移民の受け入れを規制する政策を掲げているのは、イスラム教がゲイやレズビアンを受け入れていないことが理由のひとつになっている」という訳なのです。

 といった具合で、彼が不寛容なのかどうかというのは、まったく立場によって異なるのです。「寛容さ」というのは、内藤氏が考えているものよりももっと複雑だと言えるでしょう。

 例えば、日本人女性がミニスカートにタンクトップでイスラム社会を訪れて警察に逮捕されたり、群衆に石を投げられたとき、果たして内藤氏のような立場の人々はイスラム社会に「寛容さ」を訴えるのでしょうか?
 こう考えると、「寛容さ」というのは、進んでいる側が遅れている側に対して示す一種の「余裕」のようなものであって、その中には密かに差別的な考えが含めれていると思うのですが。

晩ご飯はホイコーローと冷奴