『サリヴァンの精神科セミナー』メモ

 中井久夫が訳している『サリヴァンの精神科セミナー』を読んでる途中なんだけど、やっぱり面白い。いろいろと書き留めるべき所が多くて、ほんとはもっとこの日記にも書こうと思っていたんだけど、ワールドカップのせいでなかなか書けず。
 ほんとは最初から書くべきだけど、今日読んだところからいくつか。

サリヴァンの発言> 
 報告によれば父親は患者に「お前が言ってきたらいつでも連れて帰ってやる」と話したということだ。クヴァーニス君がどう対応してかは知らないが、これは両親の、患者に対する現実離れした態度とみてよいのではないかね。私はそう考えたが、私よりもきみたちが私のようにみてくれることがもっと重要だ。この両親の行動は、自分たちの患者への関心と献身とを患者に誇示しているのだ。親は、患者がいつもどうしようもないバカに成り下がっていると(自分たちが)思っていること、だが患者に対して自分たちが大きな愛をもっているために患者にいっさい逆らえないことを患者に告げているのも同然だ。この種の行為は患者の良いセンスを乱暴に傷つけてしまう。そもそも患者に対してまったく無責任な言葉だ。私は、こんなやりきれない、哀しい状況を「非現実的だ」と言うだけで済ませるのは嫌だ。こういうことを聞くと私はむかむかして「そりゃあご親切なこった」とかなんとか言ってやる。あっさりと門前払いを食らわすジェスチャーをする。患者に私がすることの意味がわかれば幸運だ。(225-226p)

 この辺の患者に対するものすごく繊細な心遣いってのはほんとに見事。
 また、この本は訳している中井久夫の訳注も秀逸。例えば、スタヴレン医師の「自分の満足は患者がよくなろうとなるまいと、それとは無関係だということを伝えておくべきだろう。そうすれば、患者は期待され義務を負っているという圧力から救われるだろうと思う。」(224p)を展開して

 これはきわめて重要な点である。精神科医は(臨床心理士も、ほんとうは医療関係者全部が心得ておくことだと思うが)患者の改善を満足の源泉としてはならない。それは、患者が「せんせいに喜んでもらおう」「せんせいのためによくならなくちゃ」と無理をした挙げ句に「せんせいががっかりするから」と重要なデータを告げなかったり、「よくならなくてはせんせいにすまない」と抑鬱的になるからである。サリヴァンの弟子筋のフロム=ライヒマンも、患者の改善を満足の源泉とすることは、患者を手段として自己の満足を求めることであるとまで思い詰め、趣味のない精神科医は自尊心のために神経学でも何でもいいからもう一つの科を副科として選びなさいとまで言っている。(359ー360)

 と、重要な点を強調していますし、サリヴァンの同年代の子供たちといっしょに成長できなかった子供の孤独という指摘を受けての言葉

 「どの年齢の大人ともはなせるようになった子どもは子ども社会の中には気遅れして入っていけなくなる。」(360p)

 というのは核心を突く言葉。(もっともこの部分については、今回は長過ぎて引用しなかったけどサリヴァンの発言が素晴らしい)
 
 他にもいろいろあるので、時間があったらもっと書き出してみます。

晩ご飯はチンジャオロースと冷奴