写楽展

 混んでると聞いて午前中から出かけたけどやっぱり混んでた。
 ただ、東洲斎写楽の作品のほぼ全てを網羅した展示で、勝川春英や勝川春艶、歌川豊国らの他の役者絵との比較、同じ蔦屋重三郎が版元になった喜多川歌麿美人画写楽作品の版による違いなど、内容は盛りだくさん。
 盛り沢山すぎるからこむんじゃないかと思いつつも、充実の展示と言えるでしょう。


 普通、西洋の肖像画というとその人の内面とかが浮き上がってくるようなものがよいとされると思うですが、写楽の描いたのは役を演じきっている役者、しかもその瞬間を切り取っています。
 いわゆる歌舞伎役者の「キメ顔」を描いたのが写楽の絵というイメージがありますが、今回、数多くの作品を見てみると、その「キメ顔」に入る直前の顔を描いたのではないか?という印象を受けました。
 写楽というと役者の特徴をデフォルメして描いたところに独自性があるように思われていますが、デフォルメでいえば歌川豊国の絵もなかなかのもの。ただ、写楽の絵にはデフォルメだけではない「動き」のようなものが感じられます。で、この「動き」の秘密が「キメ顔」にまさに入らんとするときの顔を描いたところにあるのではないでしょうか?
 その昔、「BSマンガ夜話」で、いしかわじゅん大友克洋の画を評して「動きの途中の体重移動が描けているからすごい」というようなことを言っていた記憶がありますが、写楽の絵にもそうしたものを感じました。
 「嵐竜蔵の金貸石部金吉」や「市川男女蔵の奴一平」なんかまさにそうですし、「三代目沢村宗十郎の大岸蔵人」のぬぼーっとして感じもそういった印象を受けます。


 そして、写楽は後期になればなるほど絵の質が落ちて行くことから、前期後期別人説などもあるみたいですが、僕が今日感じたのはいくら才能があっても第1期のような完璧な作品を量産することは不可能だったんじゃないかということ。
 「天才」と呼ばれる写楽ですが、第1期を発表するまで膨大な数のスケッチのようなものを描いていて、そこからピックアップして版画にしたのが初期の作品だったのではないでしょうか?
 いきなり、あの役者の表情の一瞬を捉えることができたとするならば写楽はすごすぎます。おそらくあの傑作群の背後には膨大な数の「捨てスケッチ」のようなものがあったのではないでしょうか?
 で、2期、3期となるにつれ、だんだんと制作スケジュールが厳しくなって過去の自分の作品の模倣になってしまっていったというのが、写楽の絵の質の低下の要因のような気がします。


 また、質感というものにほとんどこだわらず、あくまでも輪郭線と色によって画面を構成する日本の浮世絵と西洋絵画の違いというものも改めて感じました。
 同じ上野でやっているレンブラントの版画と比べると、同じ版画と言っても描こうとしているものがまったく違いますよね。