K・ポメランツ『大分岐』

 「なぜ、西欧文明が世界を制覇したのか?」、これは歴史を学んだ者お多くが持つ疑問でしょう。
 当然、多くの学者もこの疑問を考え続けており、御存知の通り、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムという宗教にその要因の一つを見ましたし、D・C・ノースは『経済史の構造と変化』でその要因の一つを西欧における知的財産権の確立に見出しました。
 ただし、プロテスタンティズムの精神にしろ、知的財産権にしろ、それが経済発展にもたらす影響を正確に見積もるのは非常に難しいものです。ですから、それこそルネサンスや、古代ギリシアやローマまでさかのぼって西欧世界の先進性を示そうとする議論もあります。


 しかし、18世紀初頭の清の乾隆帝の時代の頃までは中国が世界一の経済大国であり、経済力においても軍事力においても西欧諸国が簡単に手を出せるような存在ではありませんでした。つまり、西欧諸国が中国を決定的に凌駕したのは18世紀半ばから19世紀半ばのアヘン戦争の間ということになります。


 今までのイメージだと、「ルネサンス以来進歩を続けてきた西欧諸国が、産業の革命の力もあって、停滞を続けていた中国を抜き去る」といった形で捉えられることが多いですが、この本ではそうしたイメージを否定し、18世紀までは西欧と中国や日本は「似た社会」だっとしています。
 そして、その「似た社会」が18世紀後半から19世紀にかけて「大分岐」を起こし、西欧諸国の覇権につながったというのが著者の見立てです。


 「似た社会」とはどんな社会か?
 それは土地の開発とともに人口の増加し、それが限界まで行き着いたような社会です。
 日本の人口は17世紀はじめの江戸幕府の成立ごろは1200万人程度と推定されていますが、18世紀はじめの8代将軍吉宗の享保期のころには3000万人を超えていたと推定されています。これは戦国時代に導入された土木技術などによって今まで人が住むには不向きだとされていた沖積平野が開発され、また用水を使った新田開発も進みました(以下、本書では基本的に中国の分析が中心になっているのですが、よく知っている日本のほうが説明しやすいので本書では補助的に使われている日本のケースを中心にとり上げて説明します)。
 時期に少しズレはあるものの、中国でも西欧でも17世紀、18世紀は土地開発が進んだ時代でした。人々は手間をかけて土地を開発し、人口を増やしていったのです。


 ところが、18世紀初めに日本の人口の伸びがとまったしまったように、この開発は壁にぶち当たります。開発できる土地がなくなり、開発されていないのはよほど条件の悪い土地になり、さらに開発による自然環境の破壊がさらなる開発にストップをかけました。開発による森林伐採によって、洪水などが頻発するようになり、また燃料とするための薪や木炭の確保にも支障をきたすようになったのです。
 この木材の不足の影響は至る所に及び、この本が教えてくれるとことによれば、「18世紀のヨーロッパ各地では、溶鉱炉が燃料不足のため、一年のうち数週間しか通常通りに操業できなかった」(232p)といいますし、また、船の建造のための木材も不足し、「アメリカ独立戦争の前夜、アメリカの植民地だけで。イギリス商船の3分の1が造られていた」(233p)そうです。
 このように土地の不足と環境への負荷により、これ以上の開発が難しくなっていた社会、それが18世紀の西欧や中国、日本といった社会でした。
 そして、ここから西欧諸国(イギリス)はうまく抜けだしたが、中国や日本は西欧諸国と接触しその文明を吸収するまで抜け出せなかったというのが本書の主張です。


 そうなると西欧諸国が開発の限界を打ち破ることが出来て、中国や日本がそれが出来なった理由が知りたいわけですが、この本は多くはその理由を示すことよりも、18世紀前半の西欧と中国が同じような経済レベル(長江デルタにかぎれば中国のほうが上)であったこと、そして、資本の蓄積や会社組織といった今まで西欧諸国発展のキーポイントとされてきたものがそれほど大きな存在ではなかったということの記述にあてられています。
 素人からすると、もっと簡略化して書いてくれたほうがわかりやすいのですが、ここは専門家らしく、なかなかデータとして揃えることが難しい中国と西欧の比較をさまざまな研究や史料を用いて行おうとしています(日本人の中国研究者の文献も数多く参照されており、今までの日本の中国史研究のレベルの高さというのもうかがえる)。


 というわけで、ここではいきなり西欧諸国(イギリス)が開発の限界を打ち破ることが出来た理由を紹介しますが、それは石炭と新大陸(アメリカ)の存在です。
 まず石炭ですが、石炭は環境の制約を打ち破る大きな要因になりました。現在、石炭というと「環境に悪い」ものの代表的存在に思われていますが、石井彰『木材・石炭・シェールガス』PHP新書)などに書かれているように、石炭は限界まで来ていた森林破壊をストップさせた資源でした。
 本書によると、18世紀末においてイギリスにおいて木炭を使って生産できる銑鉄の量は8万7500トンから17万5000トン程度だったと推計されますが、実際に1820年頃にはイギリスでの鉄生産高は40万トンに達していました(76p)。つまり、石炭なしではイギリス中の森林を伐採しても鉄生産の増加は不可能でした。
 

 もちろん、中国にも石炭はありました。現在、中国は世界一の石炭生産国であり、エネルギー源の多くを石炭に頼っています。しかし、中国の石炭の産地は北部や北西部に多く、経済の中心である長江デルタの付近ではあまり産出しませんでした。また、モンゴル人の侵入とその際の破壊のせいで炭鉱業の設備や知識が失われてしまった可能性も指摘しています(79p)。
 結局、中国の鉄生産は木材の不足という制約によってイギリスのような飛躍的な発展を遂げることが出来なかったのです。


 西欧諸国(イギリス)が開発の限界を打ち破ることが出来た理由のもう1つが新大陸(アメリカ)の存在です。
 新大陸に関して、今までも「新大陸の銀がヨーロッパに富をもたらした」、「新大陸との間の奴隷貿易が資本の蓄積を可能にした」というかたちでその重要性が紹介されていましたが、この本で強調するのは新大陸がヨーロッパの土地制約を外したという点です。
 18世紀、ヨーロッパも中国も日本も土地の不足に苦しんでいました。日本では人口の伸びが止まり、中国では条件の悪い土地へと人々が移り住んでいきました。
 ところが、イギリスでは新大陸との貿易によって土地を「節約」することができました。
 新大陸から輸入された砂糖や綿花や木材がもしなかったとしたら、そのぶん、イギリスの土地はこれらの生産に使われていたはずです(砂糖の生産はイギリスの気候では難しいので、他の作物でカロリーが補われたはず)。
 新大陸のような土地を持たなかった中国や日本は、その土地と人口の多くを食料生産にはり付けなければならなかったのに対し、イギリスでは新大陸を利用することで発展の余地を持ったのです。


 ただし、日本が鎖国によってそういった土地の節約の手段がほぼなかったのに対して、中国には東南アジアへの進出といった選択肢もありました。
 実際、17世紀あたりから中国人たちは東南アジアに渡り砂糖などの生産に従事していましたが、「中国の国家は、海外に進出する国民に、直接、軍事的・政治的支援を与えることに関心がなかった」(214p)ですし、東南アジアの産品の多くは中国でも生産できる可能性がありました。つまり、ヨーロッパの商人のように、海外からの輸入を独占することによって長期にわたって利益を上げることが難しかったのです(216p)。
 また、「中国の国家は、「日常生活用の奢侈品」から歳入を得ようという気は、いっこうになかった」(217p)ため、国家が植民地の拡大やその保護に向かうこともありませんでした。


 他にも、資本や金融、中国における性的分業の強さなど、この本ではかなり幅広い検討を行っているのですが、さすがにそこまで紹介している余力はないので、気になった人は是非手にとって読んでみてください。
 この本は世界史の見方を大きく変えてくれる本ですし、また、例えば日本史の見方などにも新たな光を当ててくれる本です。簡単に読める本ではないかもしれませんが(前半がつらかったら5章と6章を重点的に読むというのもありだと思う)、拾い読みのような形で読んでいってもいろいろと発見のある本だと思います。
 

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―
K・ポメランツ 川北 稔
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