なぜイギリスは世界ではじめての工業化を成し遂げ、ヴィクトリア時代の繁栄を謳歌しえたのか。この歴史学の大問題について、20世紀半ばまでは、イギリス人、特にピューリタンの勤勉と禁欲と合理主義の精神がそれを可能にしたのだとする見方が支配的だった。これに敢然と異を唱えたのが、本書『資本主義と奴隷制』である。今まで誰も注目しなかったカリブ海域史研究に取り組んだウィリアムズは、奴隷貿易と奴隷制プランテーションによって蓄積された資本こそが、産業革命をもたらしたことを突き止める。歴史学の常識をくつがえした金字塔的名著を、ついに文庫化。
これが本書のカバー裏に載っている紹介文で、もともとは1968年に中山毅訳で理論社から出版された本の文庫化になります(本書に関しては山本伸監訳で明石書店からも新訳が出版されていますが、本書は中山訳の用語などを一部手直ししたものになります)。
著者は、トリニダード・トバゴの郵便局員の息子に生まれオックスフォード大学で古典学を学んだものの、 カリブ海出身の黒人に古典を教えさせようとする大学はなく、そこで方向転換をし、自らのルーツでもあるカリブ海域の歴史を研究するようになったといいます。のちには独立したトリニダード・トバゴの首相も務めています。
目次は以下の通り。
黒人奴隷制の起源
黒人奴隷貿易の発展
イギリスの商業と三角貿易
西インド諸島勢力
イギリスの産業と三角貿易
アメリカ革命
イギリス資本主義の発展―一七八三〜一八三三
新産業体制
イギリス資本主義と西インド諸島
“実業界”と奴隷制
“聖人”と奴隷制
奴隷と奴隷制
結論
カバー裏の紹介文からは産業革命の原因を明らかにしようとした本に見えますが、目次を見ればわかるように、それだけではなく西インド諸島の奴隷制の盛衰を語った本になります。
本書の特徴は、その奴隷制の盛衰が徹底的に「資本の論理」を通じて描かれているところです。例えば、イギリスにおける奴隷貿易の廃止運動について、布留川正博『奴隷船の世界史』(岩波新書)ではクウェイカー教徒などの宗教的な運動が大きくとり上げられて入りますが、本書では、あくまでも西インド諸島の経済的な価値の下落や、貿易政策の転換といったものの中で説明されています。
新大陸において奴隷制が必要とされたのは、土地が豊富にありすぎたからだといいます。
イギリスの大資本家のピールは5万ポンドと300人の労働者を引き連れてオーストラリアのスワン河植民地に乗り込みましたが、労働者は雇い主のためには働こうとせずに、周囲に土地が豊富に合ったために零細自作農として生きる道を選びました(15−16p)。土地が豊富にある中で、労働者を引き止めておくのは困難なのです。
この問題を解決したのが奴隷制です。新大陸や西インド諸島で砂糖や綿花やタバコをつくるための自由労働者を確保するのは不可能であり、たとえ奴隷が割高であっても、それに頼らざるを得なかったのです。また、土地を効率的に利用するためには小農の方が良かったかもしれませんが、新世界においては土地が豊富で、土地が疲弊すれば次の土地に移れば良い状況でした。
カリブ海における奴隷といえば黒人奴隷が頭に浮かびますが、これは人種差別の結果そうなったわけではありません。理由は経済的なものであり、著者の言葉によれば、「奴隷制は、人種差別から生まれたわけではない。正確にいえば、人種差別が奴隷制に由来するものだった」(20p)というわけなのです。
まずはじめに奴隷となったのはインディアンであり、次には非自由労働者として白人が連れてこられました。17世紀になると、年季奉公人などのかたちで多くの貧しい白人たちが西インド諸島やヴァージニアに渡りました。
その中には、アイルランド人や三十年戦争の災厄から逃れてきたドイツ人などもいましたが、次第に甘いお菓子に釣られた子どもや酒に酔い潰された人なども交じるようになり社会問題化しました。さらに囚人も労働者として送り込まれていきました。
1640〜1740年にかけてイギリスでの政治的混乱の中で多くの白人が植民地に送られました。例えば、クロムウェルによって多くのスコットランド人やアイルランド人が西インド諸島に送り込まれています。
彼らは奴隷と同じような待遇で働かされましたが、年季奉公人が奴隷と違うのは一定の期間が経過すれば自由を手に入れることができた点です。彼らは小独立自営農民となり、植民地独立を主張するかもしれませんでした。また、現地に白人社会があったために年季奉公人の逃亡は容易でした。
それに対して、黒人奴隷はずっと奴隷のままですし、植民地独立を主張することもありません。逃亡しても彼らを受け入れるコミュニティは存在せず、白人に10年の奉公させる金額で黒人を終身買い取ることができました(38p)。そして、アフリカが他の場所(例えば中国やインドよりも近かったことが、黒人奴隷の導入につながったのです。
こうして、西インド諸島の農業は奴隷制を使ったものへと置き換わっていきます。1645年、バルバドスには1万1200人の白人小農と5680人の黒人奴隷がいましたが、1667年には745人の大プランターと8万2023人の黒人奴隷にかわっています(45p)。
プランターは小農たちを追い出して土地を占有し、そこに黒人奴隷を導入しました。特に不在プランターが増えてくると、この傾向にますます拍車がかかります。黒人奴隷のほうが生産費用を切り下げられるという経済的な現実が奴隷の数を増やしていったのです。
西インド諸島のイギリス人プランターだけではなく、新大陸に植民地をもっていたスペイン人も奴隷を必要としました。しかし、スペインはトルデシリャス条約に従ってアフリカ貿易に手を出さなかったために、奴隷貿易はイギリスが担うことになりました。
イギリスはスペインやフランスの植民地にも奴隷を供給することで大きな富を獲得しました。インド貿易はインドの商品を買うことによってイギリスの金銀の流出をもたらしましたが、奴隷貿易はイギリス製の製品の輸出も伴ったため、イギリスへ金銀をもたらしました。
イギリスはいわゆる三角貿易で大きな利益を上げたわけですが、それだけでなく、この貿易でもたらされた砂糖や綿花や糖蜜はイギリスでそれらを加工する産業を成長させ、西インド諸島のプランターや黒人奴隷に必要なものを供給する、工業、農業、漁業を発展させました。
バルバドスやアンティグアといった西インド諸島の島々はニューイングランドの植民地を大きく上回る輸出入の相手先だったのです(94−95p)。
こうした植民地との貿易の特徴は独占でした。植民地はその生産物をイギリスの船舶を使ってイギリスのみに送り、植民地はイギリス製品のみを買うことができ、外国製の製品はイギリスを通じて初めて買うことができました(96p)。
植民地の発展はイギリスの発展につながったわけですが、それはこうした独占のしくみに支えられていました。
奴隷貿易が増えれば、貿易はイギリスの船舶にしか行えないわけなので、イギリスの海運業が発展します。そして、それはリヴァプールなどの造船業を発展させました。さらにプランテーションの奴隷の食料となった干鱈をとるための漁業や水産加工業も発展します。三角貿易に支えられる形で、リヴァプール、ブリストル、グラスゴーといった海港都市が繁栄します。
また、三角貿易はイギリスのさまざまな産業を刺激しました。本書では毛織物、綿織物、製糖、ラム酒の蒸留、冶金工業といった産業がとり上げられています。
製糖やラム酒の蒸留が西インド諸島との貿易と密接に結びついていることはわかりやすいですが、例えば、気候的に合わないと思われる毛織物もアフリカや西インド諸島に輸出されました。「西インド諸島においては、今日でも、下着はウールが普通である」(115p)とのことです(もっとも本書が出版されたのは1944年なので現在はさすがにどうなのかはわからない)。ただし、毛織物産業は独占によってかえって損害を被った面もあるようです。
奴隷を運ぶには、足かせ、鎖、南京錠や鉄の焼印が必要とされました。また、奴隷と交換するものとして銃器が好まれたため、バーミンガムの銃器製造業と製鉄業が発展しました。
奴隷貿易がイギリスのさまざまな産業を育てたのです。
西インド諸島でのさとうきびのプランテーションの経営はプランターに莫大な利益をもたらしました。17世紀後半〜19世紀前半にかけて西インド諸島のプランターの重商主義における最大の資本家層に入っていました。
莫大な富を得た彼らはイギリスに帰国して不在プランターとなり、イギリスに富を吸い上げました。彼らと三角貿易に関わる商人らは、金に物を言わせて腐敗選挙区を買い、議会に乗り込んでいきました。まずは下院、さらには金で爵位を手に入れて上院にも進出していきます。
彼らは奴隷貿易の廃止や独占の放棄に強く反対し、砂糖関税の引き上げに抵抗しました。彼らの政治力がイギリスの貿易政策を規定したのです。
そして、この三角貿易による利益はイギリスの産業界に投資され、産業革命を準備します。
銀行の創業者には三角貿易の関係者の名前が見えますし、ジェームズ・ワットと蒸気機関に融資を行った銀行も三角貿易と深く関わっていました(172p)。保険業も奴隷貿易とともに発展していきます。
こうした三角貿易がもたらした富による投資と国内市場の拡大が、産業革命へとつながってくのですが、やがて植民地の動揺と産業革命の全面的な展開が、奴隷貿易を解体していくことになります。
まず、大きな変化のきっかけとなったのがアメリカの独立です。
北部の大陸は西インド諸島に比べると儲からない地域でしたが、食糧の供給基地として必要でした。西インド諸島の土地はほぼ砂糖に振り分けられており、穀物を栽培するような余裕はなかったのです。他にも木材や馬などの供給地としてもニューイングランドの植民地は必要だったのです。
しかし、1776年にアメリカが独立するとこのつながりが断たれます。アメリカが独立し航海法の適用を受けるようになると、アメリカ生産物は闇ルートなどでしか西インド諸島に入ってこなくなり、さまざまなものの価格が上昇します。
一方で、アメリカと貿易を始めたフランス領の植民地(仏領サントドミンゴ(現在のハイチ))がアメリカとの貿易が始まったこともあった発展し、西インド諸島の強力なライバルとなります。
さらに産業革命の進展が西インド諸島の存在価値を変えていきます。
1783年、ときの宰相ノース卿は人道主義の立場から奴隷貿易に反対するクエーカー教徒を賞賛したものの、奴隷貿易は必要不可欠であり、その廃止は不可能だと述べました(209p)。
しかし、産業革命が進展すると、イギリスが欲するものは砂糖から綿花へと変化していきます。1786〜90年にかけて、西インド諸島はイギリスの綿花輸入高の10分の7を供給していましたが、1846〜50年には100分の1足らずとなります。一方、合衆国は1786〜90年にかけて、イギリスの綿花輸入高の100分の1足らずを供給したに過ぎませんでしたが、1846〜50年には5分の4を供給するようになります(213p)。
その他の産業の輸出先としても西インド諸島の地位は相対的に落ちていきます。さらにラテンアメリカの諸革命によってスペインの重商主義の壁がなくなると、ラテンアメリカ諸国との貿易もさかんになります。西インド諸島は必要不可欠なものではなくなっていくのです。
1825年には航海法が改正され植民地が他の地域と直接貿易できるようになり、さらに同年、モーリシャスの砂糖が西インド諸島のものと同等の条件で許可されます。
それまで西インド諸島のプランターたちは腐敗選挙区などを利用して特権の維持をはかってきましたが、1832年に選挙法は改正され、腐敗選挙区が姿を消します。
こうして西インド諸島のプランターたちは、奴隷貿易に対する攻撃、奴隷制に対する攻撃、砂糖特恵関税に対する攻撃という3つの攻撃を受けるようになりました。
奴隷貿易は1807年に、奴隷制は1833年に、砂糖特恵関税は1846年にそれぞれ廃止されるわけですが(225p)、この背景には西インド諸島の繁栄をもたらしたシステムそのものが時代遅れになったということがありました。
砂糖特恵関税は、穀物法とともに重商主義の代表的な政策でしたが、産業革命が進展すると、自由貿易こそが国益であるという考えが強まり、これらの政策は経済発展の足かせと考えられるようになりました。1828年には、西インド諸島の独占がイギリスに150万ポンドを超える損失をもたらしたとされたのです(229p)。
人道主義の高まりもあって奴隷貿易が廃止されると、西インド諸島の砂糖生産はますます高コストとなり、より肥沃な土地が残っていたモーリシャスやブラジルやキューバとの競争に敗れ去ることになります。
奴隷制廃止の声は、マンチェスターやバーミンガムといった産業革命で発展した都市で盛り上がります。西インド諸島に市場としての価値はなく、独占に守られた砂糖によって労働者から金を奪う存在でしかなかったからです。
さらにかつての奴隷貿易の中心地であったリヴァプールからも奴隷制廃止の声が上がります。貿易の中心は西インド諸島ではなくアメリカ合衆国とのものに移っていたからです。
本書では、この辺の流れについて、「イギリス資本主義が西インド諸島の独占を障害だとみなすようになってとき、資本主義者は、西インド諸島の独占を打破する第一段階として西インド諸島奴隷制を破壊したのである」(279p)と述べています。
奴隷貿易はイギリスが止めた後もしばらくは続きます。ブラジルなどが奴隷を必要としたからです。しかし、今度は少しでも対等な競争条件を求めて、西インド諸島のプランターたちも奴隷貿易の全廃を訴えるようになるのです。
はじめの方に書いたように、本書では奴隷貿易廃止運動における人道主義者の役割は後景に退いていて、第11章でようやく中心的にとり上げられます。ただし、例えば、奴隷制廃止を訴え続けたウィルバーフォースに対する評価を見ても、「人柄にも、生活態度にも、信仰にもどこか鼻につくところがある」(297p)と辛辣で、彼らが基本的に西インド諸島の奴隷制のみを問題視していていたことに注意を向けています。彼らはブラジルやキューバとの貿易を禁止しようとはしませんでした。
第12章では、著者は西インド諸島の奴隷たちの動きについても触れています。彼らは決して無力な存在ではなく、たびたび反乱を起こしていました。
「イギリスの産業革命の準備をしたのが奴隷貿易であった」という主張で知られる本ですが、実際に読んでみると、奴隷制の始まりから崩壊までを徹頭徹尾経済の原理で説明しようとした本だということがわかります。
前掲の布留川正博『奴隷船の世界史』(岩波新書)では、奴隷制の廃止に尽力したイギリスの人道主義者の姿がとり上げられていましたが、本書によれば奴隷制を廃止に導いたのは、あくまでも経済構造の変化なのです。
原著が最初に出版されたのは1944年であり、その後の研究によって乗り越えられた部分もあるのだと思います。また、エピソードを連ねていくような書き方は、現在からすると少し読みにくい所もあります。
しかし、著者の一貫したスタイルは際立っていますし。そのスケールの大きさはグローバル・ヒストリーの先駆的な存在と言えるかもしれません。今なお読む価値が十分にある本と言えるでしょう。