亀田俊和『南朝の真実』

 足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱佐々木道誉高師直らの婆沙羅大名など、「道徳的」とは程遠いイメージの北朝に対して、「忠臣」楠木正成・正行をはじめとして南朝には「道徳的」なイメージがあるかもしれません。
 もちろん、「皇国史観」は過去のもので、今さら「南朝こそ正統!」みたいに言い募る人はいないと思いますが、尊氏周辺のグダグダっぷりに比べればマシというように認識している人も多いと思います。
 この本は、実は南朝も内紛続きだったことを示すことで、そうしたイメージを打ち破ろうとしたものです。
 後醍醐天皇護良親王の対立、大覚寺統内部での皇位継承争い、各地につくられようとしていた「王朝」、楠木正儀の裏切り、長慶天皇後亀山天皇の対立などを紹介し、南朝の混乱ぶりを描いています。

 
 ただ、これだけならばトリビア的な面白さでしょう。この本の面白いところは、南朝のゴタゴタを描きながら、同時に建武の新政から南北朝の動乱に関する教科書的な理解をひっくり返している点です。
 おそらく、多くの人にとって建武の新政から室町幕府成立までのストーリーとは次のようなものではないでしょうか。


 「得宗専制に不満をいだいていた武士たちは後醍醐天皇の蜂起に呼応して、鎌倉幕府を滅ぼしたが、建武の新政は公家を重視する一方で武士を軽視し、またそれまでの武士社会の道理を無視したため、武士たちの不満が高まり、武士たちは尊氏を担いで幕府の再興を目指した。そして鎌倉幕府の遺産を引き継ぐ室町幕府が誕生した。」


 細かい点ではいろいろ付け足すことがあるでしょうが、基本的なストーリーはこんなものだと思います。
 これに対し、この本では「建武の新政はむしろ武士を重視したもので、後醍醐天皇への公家の反発が強かったこと」、「足利尊氏鎌倉幕府の遺産を引き継ぐだけでなく、建武の新政の遺産も引き継いでいること」の2つの点を指摘しています。


 まず、1点目に関してですが、当時の公家たちは後醍醐天皇のように幕府の存在を許さなかったわけではなく、北畠親房も幕府の存在は認めていたとのことですし(98p)、後醍醐天皇の子でありながら、のちに後醍醐と対立して失脚する護良親王征夷大将軍の地位に固執するなど、幕府的な政治体制を志向していたといいます(33p)。
 また、家格を無視した後醍醐の人事は公家たちの激しい反発を産んでおり、三条公忠という公卿は後年「物狂の沙汰であった」と回想しています(172p)。一方、武士の足利尊氏・直義兄弟、新田義貞楠木正成といった面々は、建武政権で高官に与っています(172-173p)
 建武の新政は決して「公家より」だったわけではなく、公家も戸惑う後醍醐の独走という面が大きかったのです。
 

 2点目について、足利尊氏が個人的に後醍醐天皇を裏切ることにためらいがあったというのは知られている話ですが、この本ではさらに踏み込んで、制度的にも尊氏は建武の新政を引き継いだと見ています。
 室町幕府は、鎌倉幕府やその出先機関六波羅探題の制度を継承しつつ、独自の制度も持っていました。その一つがこの本でとり上げられている「執事施業状」です。これは恩賞を約束するだけでなく、その地の守護の力を借りて恩賞の土地を引き渡しを行うための書類で、鎌倉幕府には存在しませんでした。この「執事施業状」の手本とされたと考えられるのが、建武の新政のときに設置された雑訴決断所の文書であったらしいのです(62ー70p)。
 こうしたことを受けて、著者は次のように述べています。

 定説とは真逆に、建武政権は武士に優しく、武士の利益に最大限に配慮した改革政権だったのである。これが現在筆者が抱いている見解である。(173p)


 では、なぜ建武政権は崩壊したのか?
 筆者はそれを「恩賞充行(あてがい)の遅れ」に見ています。日本全国の領地を再分配する作業は困難を極めましたし、後醍醐の先例にとらわれないスタイル(例えば、寺社に地頭職を与えたことが北畠顕家によって批判されている(170p))はさらなる混乱をもたらしました。
 また、観応の擾乱において一時は尊氏を圧倒した直義が没落した理由も、この恩賞問題だと分析されています。直義は寺社の荘園侵略の禁止などを打ち出しましたが、肝心の恩賞の分配は進められず、武士たちの信任を失っていったのです(112ー114p)。


 このようにややラフなスケッチながらも、新しい建武の新政像、新しい南北朝の動乱像を描き出している所がこの本の魅力でしょう。非常にわかりにくい時代に一つの見通しを与えてくれる内容になっていると思います。


南朝の真実: 忠臣という幻想 (歴史文化ライブラリー)
亀田 俊和
4642057781