渡辺努『物価とは何か』

 ここ最近、ガソリンだけではなく小麦、食用油などさまざまなものの価格が上がっています。ただし、スーパーなどに行けば米や白菜や大根といった冬野菜は例年よりも安い価格になっていることにも気づくでしょう。

 このようなさまざまな商品の価格を平均化したものが本書のテーマである物価です。

 著者はまず、物価を蚊柱、個々の商品の価格を個別の蚊に例えています。個別の蚊はさまざまな動きをしますが、離れてみると一定のまとまった動きが観測できるというのです。

 本書は「個別の蚊の動きを追っても蚊柱の動きはわからない」という前提を受け入れつつ、同時にスーパーなどの商品のスキャナーデータなどミクロのデータも使いながら、「物価とは何か?」、さらには「日本の物価はなぜ上がらないのか?」という謎に挑んでいます。

 ジャンルとしては経済エッセイということになるのでしょうが、理論と実証を行き来する内容は非常に刺激的で面白いですね。

 

 目次は以下の通り。

第1章 物価から何がわかるのか
第2章 何が物価を動かすのか
第3章 物価は制御できるのか――進化する理論、変化する政策
第4章 なぜデフレから抜け出せないのか――動かぬ物価の謎
第5章 物価理論はどうなっていくのか――インフレもデフレもない社会を目指して

 

 日本におけるインフレというと第一次石油危機の1974年の物価上昇があげられます。この年のCPI(消費者物価指数)は23%上昇しました。

 このインフレは原油価格の上昇→ガソリンや石油関連製品の上昇→CPIの上昇という形で説明されることが多いと思います。

 しかし、この説明はわかりやすいが違うと言います。当時、固定相場制から変動相場制への移行の中で日銀がドル買いを行っており、また政府は「列島改造」を掲げて財政資金をばらまいていました。この貨幣供給がインフレの主犯だったのです。

 

 もちろん、ガソリンの価格は家計にとっては痛いです。ただし、ガソリンの価格が上がれば基本的には他の商品への需要が減り、他の商品の価格が下がるはずです。結果的に個別の商品の値動きは物価にそれほど影響を与えないのです。

 

 では、物価は何によって決まるのでしょうか? 本書でまず提出される考えは「貨幣の魅力」という考えです。

 ビットコインと日本円を比べると日本円の方が価値が安定しています。これに多くの人々が日本円の価値を信用しているからです。この信用の源泉についてはいろいろな考えがあるでしょうが、クリストファー・シムズのFTPLでは政府の徴税能力に注目しています。これが紙幣の信用を担保してるのです。

 

 一般的に日銀が買いオペを行って市中の貨幣量を増やせば物価が上昇すると考えられていますが、FTPLでは貨幣量が増えても市中の国債は減っている、つまり子会社の債務(日銀券)は増えたけど、親会社の債務(国債)は減っているので、貨幣の魅力は落ちません。結果として物価は上がらないのです。

 FTPLによれば、日本は政府が巨額の債務を抱えているため、金融緩和は貨幣量を増やすとともに政府の利払いを小さくし貨幣の魅力を引き上げてしまいます。ですから、物価を引き上げるためには減税などで徴税能力を引き下げることが必要です。ところが、安倍政権は消費税増税によって貨幣の魅力を高めてしまったので、金融緩和をしても物価が上がらなかったのです。

 

 次に物価をどう測定するのかという問題があります。

 物価の出し方にはラスパイレス指数、パーシェ指数、フィッシャー指数、トルンクビスト指数などさまざまなものあがりますが、日本のCPI指数などでも使用されているのはラスパイレス指数です。

 ラスパイレス指数はどの商品にどの程度の重みをつけるのかを過去の消費者の消費ウェイトを使って算出します。そのため消費者の節約行動、「牛肉が高くなったから今日は牛肉の消費を抑えよう」を折り込めません。

 一方、パーシェ指数は今日を基準に昨日を評価するもので、その折衷がフィッシャー指数やトルンクビスト指数になります。

 

 著者らは「東大日次物価指数」(東大指数)というものを公開してきましたが、これはレジでバーコードをスキャンしたデータを使い、トルンクビスト指数のやり方で出したものになります。

 データの利活用が遅れていると言われている日本ですが、このスキャナーデータについては1989年から30年以上の蓄積があり、有用なデータとなっています。

 

 例えば、これを使えばアベノミクスの中で物価への上昇寄与度と下落寄与度の大きな企業といったものもわかります。ちなみに上昇寄与度が大きかったのは雪印メグミルクや明治などの乳製品メーカーや酒税の引き上げがあったアサヒビールキリンビールなどのビールメーカー、下落寄与度が大きかったのはライオン、アサヒ飲料カルビー、キリンビバレッジ、伊藤園、P&Gなどであり、日用品や飲料で価格競争があったことが見て取れます(55p表1−2参照)。

 

 このデータを見ると意外なこともわかります。実は地域によって価格差のある商品がけっこうあるのです。

 例えば、「デルモンテ トマトケチャップ」は最高値の四国では全国平均との対比で1.721、最低値の東海は0.619と大きな差があるのです。他にも「ミツカン 料理酒」、「ホクト エリンギ」などにも大きな価格差が見られます。

 これらは売る側の事情で起こっていると考えられ、価格の高い地域では供給が絞られています。

 

 ネットなどの普及によって価格は収斂していくとも考えられていましたが、実際にはそうなってはいません。

 安い店があってもそこに行くにはコストがかかります。アメリカではリタイア世代のほうが安い価格で買っているというデータもあります(ただし日本ではそうなってはいない(71p図1−10参照)。

 

 第2章で、著者は89〜96年にかけて高率のインフレが発生したスーダンからやってきた留学生の話をしています(最高で年率165%、ハイパーインフレの定義はつき50%以上なので厳密にはハイパーインフレではない)。

 さぞかし経済活動が無茶苦茶になっただろうと思われますが、メーカーや店舗は横並びで値上げをし、また賃金も引き上げていったことから一定の安定感があったといいます。

 

 人々のインフレ・デフレの予想が物価に大きな影響を与えると考えたのがミルトン・フリードマンです。このスーダンの例も人々の予想が共有されていたと言えます。

 一方、アーサー・オーカンは「予想」よりも強い「ノルム(社会的規範)」という言葉を使っています。物価や賃金について社会に共有された相場観があるというのです。

 経済学の世界では基本的に「ノルム」は「予想」にとって代わられたわけですが、著者は日本の状況を説明するには「ノルム」が適当ではないかと考えるようになったとも述べています。

 

 物価の変化には「予想」が重要だということで採用されるようになったのが、中央銀行によるインフレターゲティングです。中央銀行が物価目標を定めてそれを目標に金融政策を行うのです。実際に、20%近いインフレに苦しんでいたニュージーランドは89年に中央銀行法を改正しインフレターゲティングを導入したことで、インフレ率を安定させることに成功しました(103p図2−4参照)。

 

 ただし、デフレに対しての対応は難しいです。人々のインフレの予想に対しては利上げで潰すことができますが、強固なデフレ予想を潰すには巨額の買いオペが必要であり、さらにそれでも十分ではないということもあり得るのです。

 いわゆるケインズの言う「流動性の罠」ですが、これが日本が陥った状況です。

 

 ただし、本書ではその前に、インフレが続いた60年代〜80年代前半から80年代後半以降のインフレ率が安定した時代にどんな形で研究が進展したのかということが述べられています。

 まず、1958年にアルバン・ウィリアム・フィリップスによって発見されたのが賃金上昇率と失業率がトレードオフの関係にあるという「フリップス曲線」です。賃金上昇率を物価上昇率に置き換えても成立することがわかり、インフレ率と失業率がトレードオフの関係にあることが示されたのです。

 

 ところが、この関係は1970年代に入ると迷走を始めます。失業率の上昇とインフレ率の上昇が同時に起こるスタグフレーションとなり、迷走するフリップス曲線は「スパゲッティ曲線」とも言われました(126p図3−3参照)。

 これを解きほぐそうとしたのがフリードマンらの自然失業率仮説です。物の値段はそう頻繁に改定されるわけではなく、実際の貨幣量の伸びに対して人々のインフレ予想の変化は遅れがちになります。

 

 基本的にインフレは実質賃金の低下を通じて失業率を押し下げますが、同時に賃金の上昇圧力も生みます。

 賃金はすぐに改定されるわけではないので、最初は実質賃金が下がったぶん失業率が下がりますが、しばらくして賃金が上昇すればその効果は消えます。結局、長期的に見ると失業率低下の効果は消えてしまい、インフレだけが残るというのがフリードマンらの見立てでした。

 

 こうした流れを受けて、各国の中央銀行は物価の安定を重視するようになり、人々の予想に働きかけるためにさまざまな発信を行うようになります。

 金融関係者は中央銀行の発言に注目するようになり、中央銀行のスタンスを折り込みながら予想を更新するようになります。ただし、消費者は中小企業の経営者は必ずしも中央銀行の言うことを聞いていないということも近年の研究でわかってきています。

 

 では、個人のインフレ予想は何の影響を受けているのか? その1つは世代だといいます。

 1980年ごろ、アメリカはインフレに苦しめられていましたが、このころ40歳未満のほうが40〜60歳や60歳以上の世代よりも高いインフレ予想を持っていました(195p図3−12参照)。

 これは、上の世代が低インフレの時代を長く経験したのに対して、若い世代は人生の中でインフレ率が高かったときが多かったからだと思われます。

 

 では、日本ではどうなのでしょうか? 著者らが年代別のインフレ予想を調べたところ、若年層ではインフレ予想が低く、シニアになるにしたがって高くなることがわかりました(203p図3−13参照)。

 さらに日本に住んでいる外国人のインフレ予想と比べてみると、40歳を超える世代では外国出身者とそれほど変わりがないのに、20代・30代では日本人のインフレ予想は外国出身者に比べて低くなっています。

 やはり、日本の若い世代はデフレ気味の時代に生きてきたためにインフレ予想が低くなっていると考えられます。「インフレを知らない子供たち」(206p)というわけです。

 

 そして、いよいよ「日本がなぜデフレから抜け出せないのか?」という話に入ってくわけですが、まず最初に「バブル期に物価が上がらなかったのはなぜか?」という謎をとり上げています。

 バブルと言えば土地や株の価格がかなりの勢いで上がっていったのですが、CPIはあまり上がらず、株価がピークを付けた89年12月でもインフレ率は2.9%です。また、バブルがはじめた92年春でもインフレ率は2.5%程度であり、あまり変化がありません。

 結果として、日銀の引き締め、緩和ともにタイミングが遅れることになりました。

 

 その後のデフレ停滞でも経験することになりますが、物価は動かないときは動かないのです。

 ここで出てくるのが価格の硬直性の問題です。需要と供給のグラフでは需要超過や供給超過は素早く解消されるのですが、現実はそうではありません。

 メーカーや店は毎日価格を見直すということはせず、一定期間は同じ価格を維持しようとします。

 

 著者の研究によればインフレ率の変化に影響を与えるのは価格更新の頻度だといいます(A)。長期的な価格の変化をもたらすのは、価格の変化の「幅」(何%上がったか・下がったか)と価格の更新の「頻度」ですが、頻度がポイントだというのです。

 インフレ率が高いときは価格の更新が頻繁に起こります(B)。アルゼンチンのデータを見るとインフレ率が1000%近いときはほぼ1週間に1回価格が更新されていますが、100%のときは1ヶ月に1度、10%のときは4ヶ月に1度といった具合です(229−230p)。

 そして、直近の価格更新から時間が経過するにしたがって価格更新の確率(頻度)は小さくなります(C)。定番商品は価格が変わりにくくなるのです。

 

 では、なぜこのようになるのでしょうか? メニューを書き換えるのにコストがかかるので価格の更新は頻繁に行われないのだという「メニューコスト仮説」では(A)と(B)は説明できますが、(C)はうまく説明できません。

 原材料の価格動向や同業他社の出方がわからないので価格がすぐに変えられないという「情報制約仮説」でも、これは同じです。

 

 また、個々の商品の価格変化の傾向を見ても、マクロで見たときの物価の硬直性は説明できません。「全体は部分の総和」とは必ずしならないのです。

 ここで著者が注目するのは相互作用です。80年代のアメリカでは金融引き締めを行ってもなかかな賃金上昇率が下がりませんでしたが、これは各労組がバラバラの時期に労使交渉を行っており、過去の交渉に引きずられたからだと考えられます。現時点での賃金水準が80だとしても他の労組がそれまでに100で妥結していれば、そう簡単には譲れないというわけです(日本の春闘方式だとこれが起こりにくい)。

 

 需要の曲線が屈折しているケースが物価の硬直性をもたらすこともあります。255p図4−8でそうしたケースが紹介されていますが、例えば、原材料価格の高騰によって20円値上げしたくても、その20円の値上げによって売上が大きく減少してしまうのであれば、企業は我慢して価格を維持するでしょう。

 

 いよいよここからが日本の物価についての検討です。

 まず、日本のデフレは緩やかかつ執拗です。物価下落はすでに四半世紀近くに及んでいますが、下落幅は大きいときでも2%で均せば1%弱です。

 また、フリップス曲線は横に寝ているような形になっています。つまり貨幣量を増やすと失業率は改善するが、物価は上昇しないという70〜80年代前半の当局者にとっては信じられないような状況です。

 

 日本の個々の商品の価格を見ると、多くの変化率は0%近辺にあります。一方、アメリカは2.25〜2.75%のあたりの上昇を示す商品が多くなっています(263p図4−11参照、2014年のデータ)。

 つまり、アメリカでは年2%ちょっと値上がりする商品が標準的なのに対して、日本では価格が変化しない商品が標準的です。

 この日本固有の変化は1995年頃から始まったといいます。99年には価格がほぼ変化しない品目が55%になり、現在までその状況が続いているのです。

 

 90年代後半は日本が金融危機などに見舞われ物価が大きく下落してもおかしくない時期でしたが、ここでは価格が下方硬直的でした。これが大規模なデフレを不正だとも言えます。

 しかし、いつのまにか価格は上方硬直性も持つようになります。例えば、日本では2%のインフレであっても他国に比べて多くの商品の価格が据え置かれているのです(267p図4−12参照)。

 

 こうした状況が「1円の値上げも許さない消費者」を生みます。

 いつもいっている店が値上がりしたとき、他国なら「まあこんなものか」と思って買うのに、日本だと別の店に行ってしまうというのです。実際に、日米で行われたアンケートでは10%の値上げに対して、アメリカ人の多くが受け入れるのに対して、日本人は受け入れようとはしません(270p図4−13参照)。

 実際に、2017年10月に全品280円から全品298円へと値上げをした「鳥貴族」では客数が大きく落ち込みました。他が鳥貴族の値上げに追随しなかったこともあって、値上げは失敗したのです。

 

 では、日本の企業は人件費や原材料費の値上げにどう対処しているのでしょうか?

 答えの1つは商品の小型化です。お菓子などによく見られますが(カントリーマアムとかキットカットとか)、近年のお菓子は段々と小さくなっています。

 この動きは2008年と2013年以降で目立っています(279p図4−16参照)。2008年はエネルギー価格や食料価格が高騰した年、2013年には日銀の異次元緩和が始まっています。

 異次元緩和は2%のインフレ率を目指して始まりましたが、メーカーが選んだのは値上げではなく商品の小型化でした。そして、そこに多くの労力が投入されたのです。

 

 ウォーレン・バフェットは「その企業が投資に値するよい企業かそうでないか見抜くカギは、価格支配力の有無」(284p)と述べました。グリーンスパンもデフレの問題点として、この価格支配力が失われることを指摘しています。

 

 価格支配力を失った日本企業の特徴の1つが新商品の多さです。例えば、キットカットは多い年には70種類ものラインナップがあったといいます。アメリカやイギリスではせいぜい10種類程度です。

 シャンプーを見てみると、シャンプーそのものの単価は安定しています。しかし、同じ銘柄の値動きをみると一貫して下落しています(292p図4−17参照)。つまり、シャンプーの世界では、新商品が登場→価格の下落、再び先代が発売されたときと同じ程度の価格の新商品が登場→価格の下落ということが繰り返されているのです。

 商品の寿命には長いものと短いものがありますが、短いものは速いペースで値を下げ、長いものはゆっくりとしたペースで値を下げて、採算が取れなくなると退出していきます。

 これが日本の緩やかで執拗なデフレの背景にある個々の商品の動きです。

 

 さらに最後の第5章では、デフレを打ち破る政策として、シムズのFTPL(徴税能力の毀損)とケインズのマイナス金利(一定期間たったお札は有料の印紙を貼らないと無効にすることでマイナス金利を実現する)があげられています。

 いずれも理論的には妥当性がありそうですが、実行するとなると前者は財政当局に物価安定の責任を負わせることになりますし、後者は人々が反発するでしょう。

 

 また、グリーンスパンは物価安定の定義を「経済主体が意思決定を行うにあたり、将来の一般物価水準の変動を気にかけなくてもよい状態」(314p)と述べましたが、ある意味で物価がほぼ変化しない日本はこれを実現しています。

 もはや「予想」を超えて「ノルム」となった観のある日本のデフレをいかに打ち破るかは難しい問題であり、本書でも答えは出ていません。

 

 このように本書は日本のデフレを打破する答えを持った本ではないですが、理論と実証を往復する流れは非常に面白く、日本のデフレを考える上でもさまざまな新しい視点を与えてくれます。

 また、ミクロの価格を積み上げてもマクロの物価の動きがわからない点などは、これからのミクロ経済学マクロ経済学の関係を考えていく上でも参考になるのではないでしょうか。

 

 

 

閻連科『年月日』

 現代中国を代表する作家の1人である閻連科。今まで読んだことがなかったので、今回、この『年月日』が白水Uブックに入ったのを機に読んでみました。

 最後に置かれた「もう一人の閻連科 ー 日本の読者へ」で、閻連科本人が、自分は「論争を引き起こす作家、凶暴な作家」と見られているが、本作は違うといったことを述べていますが、その通りなんでしょうし、普通の小説とはちょっと違います。

 

 舞台は千年に一度の日照りに襲われた山深い農村で、村人たちが逃げ出す中で、たった一本だけ残ったとうもろこしを守るために、老人の「先じい」と盲目の老犬「メナシ」が残るというものです。

 途中でネズミやオオカミは出てきますが、出てくる人間は先じいただ一人と言っていいです。ですから、基本的に本書には会話がなく、描写と先じいのモノローグで構成されています。

 

 帯には「現代の神話」とありますが、呼んでいる印象は神話とか説話に近いです。

 日照りや飢え、そしてネズミやオオカミが先じいたちを襲うわけですが、その姿はリアルなものではなく、いわゆる「お話」の中に登場するような存在です。とりわけ、先じいとネズミの知恵比べ的な展開は昔話的です。

 

 そんな中で「神話」っぽくない部分は、先じいと老犬メナシの絆の部分でしょうか。

 先じいもメナシも、共に老いており、往年のような力のない弱々しい存在ですが、同時にしぶとい生命力を持った存在でもあります。

 そして、この二人(あえて二人と書きますが)に自然が次々と過酷な試練を与えるわけですが、それでも互いがいることで、一人でいるときとは比べ物にならないしぶとさを発揮します。

 この物語は先じいとメナシの友情の物語とも言えるでしょう。

 

 そして、この二人が最後にどのような選択をするのかということが1つのクライマックスとなります。

 150ページほどの中編ですが、読み応えはずっしりとありますね。

 

 

Big Thief / Dragon New Warm Mountain I Believe In You

 2019年に「U.F.O.F.」と「Two Hands」いう2枚の良質なアルバムをリリースして一躍脚光を浴びたBig Thiefの新作は20曲1時間20分というボリュームでCDだと2枚組リリース。

 もとからメロディは冴えていますし、ボーカルのAdrianneの声もいいのですが、今作では更にサウンドが進化していて、フォークっぽい感じだけではなくさまざまな音が鳴らされています。

 

 2曲目の"Time Escaping"のちょっとエレクトロニカっぽいですし、5曲目の"Dragon New Warm Mountain I Believe in You"は「静」の中にドラマチックさを秘めたような曲です。

 7曲目の"Little Things"では粒子感のあるエフェクトのあるギターを聞かせますし、このギターにボーカルの声がきちんと拮抗しているのもよいですね。9曲目の"Flower of Blood"はドラムを強く聞かせながら、それでいて奥行きのある遠くまで響いていくようなサウンドに仕上がってます。

 前半だけでこれですから、本当に多彩な感じです。

 

 後半はカントリーっぽい"Red Moon"から始まり、15曲目の"Promise Is a Pendulum"はいかにもBig Thiefっぽい静けさと美しさを感じさせます。

 17曲目の"Simulation Swarm"はダウナーな感じの曲調ですが、つんのめっていくようなボーカルが曲に推進力を与えています。つづく"Love Love Love"は一転してやさぐれた感じで、このあたりはAdrianneの表現力が冴えています。

 後半の方が今までのBig Thiefに近い感じですかね。

 

 というわけで、非常に良いアルバムだと思いますが、聴きやすさという点を考えると前回と同じように少しタイミングを置いての2枚連続リリースが良かったのではないかと思います。

 さすがに1時間20分あると集中して聴けない感じなので、2枚別々にしたほうが楽曲もより印象に残るのではないかと。

 


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下の画像からいけますがMP3だとAmazonなら1500円で買えますね。

 

S・C・M・ペイン『アジアの多重戦争1911-1949』

 満州事変から日中戦争、太平洋戦争という流れを「十五年戦争」というまとまったものとして捉える見方がありますが、本書は中国における1911年の清朝崩壊から1949年の中華人民共和国の成立までを一連の戦争として捉えるというダイナミックな見方を提示しています。

 一連の戦争と書きましたが、著者はこの時期の中国において、「内戦」、日本との「地域戦争」、そして太平洋戦争を含む「世界戦争」という3つの戦争が重なり合う形で進行していたとしています。

 内戦下の中国において経済的な権益を求めた日本は地域戦争を引き起こし、日中戦争という地域戦争の処理をめぐって日本は世界戦争に突入して敗北します。そして日本の引き起こした戦争が、共産党に内戦の勝利をもたらしたのです(逆に言うと国民党に敗北をもたらした)。

 

 本書の面白さはこの流れを重層的に描いている点です。副題は「日本・中国・ロシア」となっていますが、これにさらにアメリカの視点を加えて、この多重戦争をさまざまなアクターの立場から分析しています。

 日本の歴史だと、どうしても1941年の12月以降は米英との戦争にフォーカスが移ってしまい、継続していた日中戦争がどのように行われ、それがいかなる意味を持っていたのかということに関しては語られることが少ないですが、本書を読んで改めて日中戦争におけるさまざまな可能性のようなものが見えてきました。

 蔣介石の日中戦争終結後の内戦における失敗も含めて、「歴史のif」を考えさせる内容になっており、非常に面白いです。

 

 著者はロシア史と中国史の博士号を取得したあとに、中国、台湾、日本、ロシアで研究と語学の研鑽をし、アメリ海軍大学校の教授となった人物で、それぞれの地域の史料を駆使しながら、この戦争を立体的に叙述・分析しています。

 ちなみに本書では、ソ連時代のことも「ロシア」と表記しています(君主制だろうと共和制だろうとフランスはフランスだという理由)。

 

 目次は以下の通り。

第一部 恐怖と野心――日本、中国、ロシア
 第一章 序論――第二次世界大戦のアジアにおける起源
 第二章 日本 1931-36年――ロシアの封じ込めと「昭和維新
 第三章 中国 1926-36年――混沌、そして天命の探究
 第四章 ロシア 1917-36年――迫り来る二正面戦争と世界革命

第二部 多重戦争――世界戦争のなかの地域戦争、地域戦争のなかの内戦
 第五章 1911年、中国の長い内戦の始まり
 第六章 地域戦争――日中戦争
 第七章 世界戦争――第二次世界大戦
 第八章 長い内戦の終幕
 第九章 結論――地域戦争の序幕、世界戦争の終幕としての内戦

 

 中国では王朝が崩壊したあとに長い混乱があり、さまざまな争いを経て新しい王朝が誕生しますが、清朝崩壊後もそうでした。

 ただし、今までの王朝の崩壊劇と違ったのは日本というアクターがこの争いに深く介入したことです。

 

 日本は日露戦争以降、満州に大きな投資を行っており、1931年までには満州は中国の工業の中心地になっていました。

 この満州における権益を守るということは、日本の政治家と軍人の了解事項でしたが、1931年9月、関東軍石原莞爾板垣征四郎らは、軍事行動によって満州を中国の支配から切り離すことを目指します。

 

 中国の国民政府は経済的な自立を強め、世界恐慌後の1931年には関税を大幅に引き上げました。これは日本にとって大きな打撃であり、関税以外の中国側の債務不履行、排日教科書、そして満鉄に打撃を与える鉄道路線の建設なども含めて、中国に対して何らかの措置をとるべきであるという声が高まっていたのです。

 

 満州国の建設は経済面に限ればうまくいきました。日本からの投資もあって1945年の時点で満州は1人あたりの所得が中国のそれ以外の地域に比べ50%高い状態でした(37p)。日本の内地をのぞけばアジアでもっとも工業化が進んだ地域となり、貨幣や税制、法制度の改革なども進みます。

 

 ただし、満州の占領は長城以南の中国民衆の激しい反発を招きました。日本製品に対するボイコットが怒り、反日感情が渦巻くことになります。

 これに対して、日本は力でこれを抑え込もうとします。河北省や内蒙古で日本は国民政府に圧力をかけて譲歩を引き出し、さらに華北分離工作を進めます。

 国内でも景気回復の立役者で、軍事予算の膨張を抑えていた高橋是清二・二六事件で暗殺され、力による対中国政策を押し止める勢力はいなくなってしまいます。

 

 一方の中国では1925年に孫文が亡くなったあと、国民党の主導権をめぐって争いが起きました。政治家としては胡漢民と汪精衛(汪兆銘)が期待されていましたが、この争いに勝ったのは軍事力を頼みにした蔣介石でした。

 蔣は日本と中国で軍事教育を受けますが、1923年にロシアを視察し、ロシアから軍事顧問を受け入れて黄埔軍官学校を設立します。国民党の陳誠や何応欽だけでなく、共産党林彪周恩来もこの学校の出身となります。

 

 1926年に蔣介石は国民革命軍の総司令に就任し北伐を開始します。そして上海に到達すると今度は共産党の粛清を始めるのです。

 ロシアとの関係が切れた蔣は周囲からの圧力もあって辞任します。辞任後の27年の秋に、蔣は訪日して田中義一と秘密裏に会談しています。蔣は反共でさえあれば日本は中国の統一を容認すると見ていましたが、日本にとっては中国は分裂していたほうが好都合でした。この年に蔣は大富豪の娘である宋美齢と結婚しています。

 

 このあと復帰した蔣介石は北伐を進め、日本との衝突もあったものの、28年に北伐は完了しました。

 一方、日本は逃げ帰ってきた張作霖を爆殺する事件を起こしており、満州権益をどのように守っていくかが課題となります。

 

 1935年に国民政府は幣制改革に取り組むなど改革を進めますが、支配地域の中核である江蘇・浙江・安徽・江西・湖南の5省以外では徴税できませんでした。

 また、輸出が増えるなど経済は好調でしたが、関税の引き上げによって打撃を受けた日本が密輸を奨励したこともあって関税収入は落ち込みます。

 

 また、国民政府の軍は寄せ集めであり、馮玉祥にしろ閻錫山にしろ国民党の広西派にしろ、蔣に忠誠を誓っているわけではありませんでした。このために地方の部隊は地元以外には展開したがらないことがありましたし、逆に蔣は地方の部隊をあえて本拠地から離れた場所に派遣したりしました。

 

 蔣は、日本に対して宥和的な政策を取りながら、国内の敵、特に共産党を壊滅させる作戦に力を入れます。

 しかし、日本は満州国の承認を含めて、中国側が呑めない形の提案をしていきます。それでも1931〜36年にかけて、蔣は「空間を犠牲にして時間を稼いだ」(98p)のです。

 

 こうしたな日中の対立の中で巧妙に立ち回ったのがロシアです。

 ロシアには安全保障の原則として、二正面作戦を避けること、国境沿いに大国をつくらせないこと、という2つのものがありますが、そのためにはヨーロッパが安定しない中で日本と対立すること、統一された強力な中国が誕生することは避けるべきことでした。

 

 1921年ソ連外蒙古を切り離して共産主義国家を誕生させ、1929年には鉄道利権の返還を求めてきた張学良を奉ソ戦争で破っています。

 スターリン共産党だけではなく、馮玉祥や張作霖、盛世才といった軍閥に資金を提供していますが、これは中国の内戦を長引かせるための投資でした。

 

 1933年にドイツでナチ党が権力を掌握すると、ロシアは二正面作戦を避けるために極東で動きます。日本とドイツが接近すると、ロシアは国民党にもさまざまな支援を与えていきます。

 日本とドイツと蔣介石には共産主義という共通の敵がいたはずですが、日本が蔣に圧力をかけすぎたこともあって、蔣と共産党とロシアが対日本で結びついたのです。

 

 1936年12月の西安事件によって蔣介石は共産党への攻撃を停止し、抗日へと舵を切ります。謎の多いこの事件ですが、これ以前から蔣はロシアからの軍事援助の必要性を痛感しており、また、この直前に日本とドイツが防共協定を結んだことを考えると、蔣にはこの道しかなかったとも言えます。

 このとき毛沢東は蔣の処刑を望んでいましたが、ロシアは考えを改めるように圧力をかけ、ロシアの仲介によって蔣の命は救われます。

 一方、日本は共産党と組んだ蔣に対して敵意を燃やすようになり、これが日中の全面的な戦争へとつながっていきます。

 ロシアは西安事件とその後の外交によって二正面作戦を避けることに成功したのです。

 

 清朝の崩壊以降、中国は長い内戦の中にあり、蔣介石による統一も各軍閥面従腹背の中で成し遂げられたものですが、日本の存在が蔣をその地位につなぎとめたとも言えます。日本と戦うには蔣が必要だったからです。

 近衛文麿は中国での日本の勢力圏の設定をわが国の生存権確保のために必要としていましたが、これは中国での戦いに国の存亡をかけるということでもあります、当然ながらこの戦争には中国の存亡もかかっており、これがゆえに日中戦争は簡単にはかいけつできないものとなりました。

 

 1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まったということになっていますが、本書によれば日中戦争のはじまりは1931年です。塘沽停戦協定によって満州事変は終わりますが、その後も日本は中国の軍閥などと戦い続けており(著者は「華北戦役」と呼んでいる)、戦いは続いていたのです。

 馮玉祥は「日本と戦えば仇敵が同志になる。日本と戦わなければ同志が仇敵になる」(164p)との言葉を残していますが、日本の圧力がバラバラだった中国の軍閥をまとめあげました。

 

 盧溝橋事件後、日本は短期決戦を志向しましたが、蔣介石は兵力で上回る上海での戦いを望みます。

 日本軍は中国側の挑発に乗る形で上海で戦端が開かれ、37年の8月から11月にかけて激戦が行われました。この戦いは日本側の勝利に終わり、中国側は大きな損害を出します。

 しかし、日本は欧米との関係を悪化させ、さらに南京でのものを含む現地での暴力行為によって中国人の反感を買い、中国のナショナリズムを強めます。

 

 結果的に、日本は作戦レベルでは成功しても戦略面では行き詰まります。日本軍は1938年3〜5月に行われた徐州会戦に勝利し、さらに武漢の攻略を狙います、

 一方、蔣介石は日本の進攻を阻むために河南省黄河の堤防を決壊させるという作戦を行い、これによって90万人近くの犠牲者が出て、390万人近くの人々が避難民になったと言われます。

 

 38年10月に日本は武漢を陥落させて華北と長江流域という中国でもっとも経済的に発展した地域を支配下に置きます。

 蔣介石はドイツを頼みとしていて、養子の蔣緯国はドイツ陸軍に入隊しており38年のオーストリア侵攻に参加するくらいでしたが、日本との関係から国民政府への援助を打ち切ります。アメリカもドイツと近い国民政府を警戒しており、ロシアだけが頼りの状況でした。

 ロシアは38年の張鼓峰事件、39年のノモンハン事件と、蔣が危機に陥ると軍事行動を起こして蔣を助けました。

 

 第2次世界大戦が始まると、日本はイギリスに圧力をかけてビルマ公路を閉鎖させ、国民政府に圧力をかけますが、この頃になると日本軍の対国民党軍の軍事行動が、かえって共産党の伸長を許す展開となり、蔣介石がゲリラ戦を展開したことも重なって、日本軍は占領地での対ゲリラ戦に忙殺されることになります。

 蔣は、日本軍と戦いながら軍閥の力を削ぐことも同時に進めていきます。ただし、国民党が行った焦土作戦は、共産党の宣伝で格好の標的とされました。

 一方で、日本も共産党の支配地域に対して「三光作戦」という焦土作戦を行い、中国人の支持を失っていきます。

 

 日本の当初の目的は満州を日本の主権下に置くというものでしたが、それが華北への支配地域の拡大、重慶の体制転換と際限のないものになっていきます。

 日本が戦いを進めれば進めるほどそのサンクコストは大きくなり、それにともなって中国への要求はエスカレートしました。

 さらに第一次近衛声明は蔣介石との交渉を否定し、第2次近衛声明では「東亜新秩序」という形で国際体制を否定します。これによって今まで距離をとっていた米英も蔣を支援するようになり、日中戦争は対米英関係ともリンクしはじめます。

 38年の徐州会戦のあとでは、中国側は満州国を間接的に承認する譲歩案を用意しますが、日本は蔣の下野など要求を釣り上げており、交渉はうまくいきませんでした。

 

 日本は汪精衛(兆銘)の懐柔に乗り出し、汪と蔣を天秤にかける形で交渉を行いますが、蔣は汪政権が結んだ協定の破棄などを求めてまとまらず、40年11月に日本は汪政権を正式に承認しました。

 しかし、それで戦局が好転するわけでもなく、自給自足経済圏の確立のためにはじめた日本の中国侵略は中国経済の崩壊をもたらし、日本の経済も膨れ上がる軍事費の犠牲になっていくのです。

 

 アメリカは当初、中国に対して強く干渉する姿勢を示しませんでしたが、次第に日本への警戒を高め、1939年には国民政府に借款を供与し始めます。

 一方、日本の松岡外相は日独伊三国同盟によってアメリカが対日開戦をあきらめ、これにロシアも加われば国民政府への援助も打ち切られると読んでいますたが、これはまったくの的外れでした。

 松岡が結んだ日ソ中立条約は国民党と共産党を憤慨させますが、米英から蔣への援助はなくならず、日ソ中立条約によってアメリカの軍事援助はロシアに届けられました。

 日本はロシアとドイツの和平を仲介しようとしますが、「日本がドイツにロシアと戦ってほしくなかったように、ドイツも日本に中国と戦ってほしくなかった」(235p)のです。その意味で日独の同盟はちぐはぐなものでした。

 

 日本は蔣介石への援助ルートを塞ぐことに力を入れますが、そのために行われた南進はアメリカとの関係をさらに悪化させ、結局は対米開戦へと行き着きます。

 また、アメリカも日本の軍事行動を抑止することには失敗しました。アメリカが成功したのは「自国ではなくロシアに対する日本の攻撃だった」(243p)と言えます。

 

 日本が新たな戦争をはじめ、アメリカからの軍事援助が国民政府へと届くようになったことで、中国の空は日本軍の独壇場ではなくなり、日本の部隊も南方へと回されます。

 「日本の征服活動は、作戦がうまくいくほど戦略が行き詰まっていくという関係に」(258p)ありました。征服地の拡大は新たな負担となり、国家を破綻させていったのです。日本の征服活動がどこまで可能だったかという問いに対して、著者は「おそらく「満州」までだっただろう」(258p)と述べています。

 

 アメリカは日本と直接戦うとともに中国にジョセフ・W・スティルウェル陸軍中将とクレア・L・シェノールト陸軍少将を派遣しましたが、二人は戦い方めぐって激しく対立していました。

 スティルウェルは中国語を話せましたが部隊を指揮した経験はありませんでした。彼は地上軍同士の対決で決着をつけることを考えておりビルマ戦線に固執しました。一方、シェノールトは航空部隊育成のために蔣介石から雇い入れられた人物であり、空からの戦いを重視していました。

 

 1943年に蔣介石は日本との和平交渉を模索しますが、日本側の提示した条件が高すぎて流れます。

 一方、スティルウェルの作戦計画に従って嫌々ながらビルマ方面に進出しますが、蔣は送った部隊は日本軍に敗れました。

 その後も蔣の要求に対してアメリカは冷淡で、蔣は日本との和平をちらつかせますが、「蔣が二枚舌交渉によってどんなに良い条件を引き出そうとしても、アメリカが提示する条件のほうがきまって、日本のものよりはまし」(265p)だったのです。

 

 久しく停滞していた日本軍でしたが、1944年4月に一号作戦を発動させます。華南中部を打通し、内陸の輸送路を構築するこの作戦によって、国民党側は河南、広西、広東、福建の各省の大半と貴州省の広範な地域を失います。1945年のはじめまでに日本は中国の内陸部に陸上交通路を切り開き、アメリカの飛行場の多くを制圧しました。

 このころになると日本は海からアメリカに迫られており一号作戦の成功は戦争全体の転換点にはなりませんでしたが、中国の内戦には大きな影響を与えました。

 国民党が排除されたことによって共産党が華中に浸透していくことが可能になったのです。

 また、蔣とアメリカの関係が悪化した一方で、重慶にいた周恩来はメディア戦で巧みに立ち回りました。

 こうした中で、1945年の8月に日本は降伏します。日本は相当数の兵力を中国大陸に貼り付けたまま、アメリカに敗れました。

 

 しかし、日本は国民党の軍隊を壊滅させ、中国農村部で共産党の伸長を阻んでいた共同体を破壊していました。こうしてできた空白を埋めたのが共産党です。

 共産党は土地の再配分によって貧しい農民たちの支持を得て、その影響力を広げていきました。

 

 日本の敗退後、共産党満州へと進出します。日本が残した武器とロシアからの武器の供与を受けるためでした。この狙いはスターリンの二枚舌外交によって達成できませんでしたが(ロシアは満州の工業設備を国民党にも引き渡さずに次々と自国に持ち去った)、蔣介石も自軍の兵力の7割を華北に送り込んでこれに対応します。

 

 45年末、ロシアが海上封鎖を行い大連などの港が使用できない中で、蔣は精鋭部隊を空輸によって長春瀋陽に派遣して共産党を殲滅するという作戦を決断します。蔣は自軍の85%を満州に展開させたのです。

 ロシアの略奪を受けたとはいえ、満州は中国で戦争被害の最も少ない地域であり、日本本土以外で最も工業化が進んだ地域でした。

 しかし、満州はロシアと国境を接しており、ロシアからの物資を運ぶ鉄道網が充実しているという点で共産党にとって戦いやすい場所でもありました。

 蔣は兵力に勝るとはいえ、相手にとって有利な場所で共産党と戦うことになったのです。

 さらに、軍事援助額ではアメリカが圧倒していましたが、「アメリカの軍事顧問が赴任時に青二才の若造ばかりだったとすれば、ロシア人の軍事顧問は百戦錬磨の古強者ぞろい」(323p)でした。

 

 1946年3月にロシアが満州から撤退すると本格的に内戦が再開されます。当初は国民党が優勢で、蔣の作戦は成功したかに思われますが、次第に自軍が分散し、共産党に包囲される形になっていきます。また、共産党のスパイによって国民党側の軍事計画はことごとく漏れていたとも言われています。

 共産党は47年になると、長春吉林、四平といった都市を孤立させていき、華北でも河北省の石家荘などの鉄道の拠点を攻略します。こうして満州にいる国民党軍の補給線を切断することにも成功するのです。

 48年になると、アメリカは蔣に満州から兵を引き揚げるように忠告しますが、サンクコストに囚われた蔣は結果的にすべてを失いました。

 

 満州を失っても中国の2/3は国民党が支配していましたが、結局は1年ほどで国民党はすべてを失います。

 49年の1月に蔣介石は中華民国総統を辞任しますが、相当代理になった李宗仁を手助けするつもりはありませんでした。李宗仁は長江で共産党の侵攻を阻もうとしましたが、蔣は資源や自身の親衛隊を台湾に移動させるのに熱心でこれに協力しようとはしませんでした。

 こうして長く続いた内戦は一気に片がつくことになったのです。

 

 このように本書は類書にはない長いスパンと重層的な見方によって清朝崩壊以降の中国での戦いを描き出しています。

 日中戦争とその結果からすると日本は失敗しましたし、蔣介石は「肉を切らせて骨を断った」と言えるかもしれませんが、もっと長いスパンで見れば、日本にも蔣介石にも、あるいはアメリカにも、もっと他の手があったかもしれません。

 本書はさまざまなアクターの行動を重層的に見ることによって、こうした「歴史のif」を考えさせます。また、日本から見た視点では抜け落ちやすい中国内部の状況やロシアの振る舞いを教えてくれる本でもあり、非常に読み応えのあるものになっています。

 

 

 

オクテイヴィア・E・バトラー『キンドレット』

 黒人の女性SF作家で、ヒューゴ賞やネビュラ賞も獲得したことのあるオクテイヴィア・E・バトラーの長編作品。日本では1992年に翻訳刊行され、今回は河出文庫からの文庫化になります。

 

 26歳の黒人女性のデイナはケヴィンという白人の恋人とともに暮らし、作家を目指していますが、突然、19世紀前半にタイムスリップすることになります。

 そこで助けたルーファスという白人の子どもは黒人奴隷を多く抱えた農場主トム・ウェイリンの息子でした。

 さらに、デイナは自らの祖先のヘイガー・ウェイリンの父と母がルーファス・ウェイリンとアリスだったことに気づきます。つまり、自分が救ったルーファスは、奴隷主の息子でもあり、自分の先祖でもあるというわけです。

 そして、ルーファスが命の危機にさらされると、デイナはタイムスリップして過去へと戻り、過去においてデイナが危機にさらされると現代に戻ってくるようになります。

 

 この設定時代はちょっとご都合主義な感じで、前半は少しありがちな話のように思えます。

 ところが、中盤から本書はこのタイムスリップが奴隷制や当時の南部の状況というものを際立たせる仕掛けとしてうまく機能し始めます。

 デイナはケヴィンと一緒にタイムスリップしてしまうのですが、現代では恋人同士という関係でいられるデイナとケヴィンですが、19世紀の前半の南部ではデイナはケヴィンの所有物ではないとおかしいですし、保護されません。

 

 また、命を救ったことや、現代の知識をもって怪我などの治療にあたったこともあって、デイナはルーファスに対して特別な影響力を持つのですが(タイムスリップをするたびにルーファスは成長しており、おとなになっていく)、それでもルーファスが19世紀の南部の白人です。

 黒人女性のアリスに惹かれつつも、黒人を所有物としてしか扱えないという人間でもあります。

 普通の小説ですと、デイナがいかにしてルーファスを改心させるかということに重点が置かれるのでしょうけど、本書はそのような単純な筋立てにはしていません。

 

 訳者あとがきによると、著者のバトラーは、仲間の黒人学生が自分たちの祖先は抵抗すべきだったと言うを聞いて強い違和感を抱き、こいつを19世紀の南部の農園に送り込んだらどうなるだろうと考えてこの小説の着想を得たといいます。

 ただし、奴隷制のことを調べれば調べるほど、男性を送り込んでも殺されるだけだと思い、主人公を女性に変更した上でこの小説を書き上げたそうです。

 ですから、本書の狙いは奴隷制を現代人に体験させることなのです。

 

 途中にも書いたように、最初は設定がやや安易にも思えるのですが、最終的にはずっしりとした読後感を味わえる小説ですね。

 

 

ジェレミー・ブレーデン/ロジャー・グッドマン『日本の私立大学はなぜ生き残るのか』

 なんとも興味を引くタイトルの本ですが、実際に非常に面白いです。

 2010年前後、日本では大学の「2018年問題」が新聞や雑誌を賑わせていました。これは2018年頃から日本の18歳人口が大きく減少し始め、それに伴って多くの私立大学が潰れるだろうという予想です。 

 ところが、2022年になっても意外に私立大学は潰れていません。もちろん、経営的に厳しいところは多いでしょうが、なんとか生き残っているのです。

 

 この謎にオーストラリア・モナッシュ大のブレーデンと、イギリス・オックスフォード大のグッドマンが迫ったのが本書です。

 ふたりは社会人類学者であり、「異文化」として日本の中小私立大学を観察し、その特徴を明らかにするとともに、「同族経営」という日本では見過ごされることが多い部分にレジリエンス(強靭さ)を見ています。

 特にグッドマンが2003年度に大阪のメイケイ学院大学(大阪学院大学と思われる)で研究していたときに行われたフィールドワークの部分は非常に面白く、日本の大学のカリキュラム、教員、入試などさまざまな特質があぶり出されていて読ませます。

 そして、ある意味で現在文科省が進めようとしている私立大学のガバナンス改革に疑問を呈するようなものにもなっており、今後の日本の大学のあり方に関心がある人にもお薦めできる内容です。

 

 目次は以下の通り。

序章 「2018年問題」
第1章 予想されていた私立高等教育システムの崩壊
第2章 日本の私立大学を比較の視点から見る
第3章 ある大学の危機―MGU:1992‐2007
第4章 法科大学院とその他の改革―MGU:2008‐2018
第5章 日本の私立大学のレジリエンス
第6章 同族ビジネスとしての私立大学

 

 2000年代半ば以降、日本の18歳人口はおよそ120万人で安定していましたが、2018年から減少し、2030年にはおよそ100万人まで減る。日本の大学に入る人の95%は18歳か19歳ですから、大学に入学する学生は減り始め、結果として中小の私立大学が潰れていく。これが「2018年問題」です。

 

 ただし、学生数の減少はそれ以前に進んでいて、1992年〜2002年にかけて18〜19歳人口は30%も減っています。その一方、大学数はこの時期に30%も増えました。

 このからくりとしては4年制大学に通う18〜19歳の割合が92年の36.9%から02年の48.6%におよそ30%伸びたということがあります。特に女子学生が短大から4年制大学に進路を変えたことが大きな要因でした。

 それでも、02年以降も学生は減り続けており、2018年あたりを目処に中小私立大学が消えていくだろうというのが識者の見立てでした。

 

 ところが、日本の大学の崩壊は起きませんでした。また、人材市場における大卒価値の暴落といったことも起きていません。

 何よりも閉鎖に追い込まれた私大は少なくて、2000年に存在した私大で2018年までに完全になくなってしまった大学は11校(1.5%未満)に過ぎません。

 今後どうなるかわからないとはいえ、日本の私立大学は意外なしぶとさを見せているのです。

 

 日本では私大の割合が高く、90年代初頭で大学の75%が私大でした。一方、偏差値的な序列では国公立が上位を占めており、私大は偏差値が低い層を引き受けるはたらきをしていました。

 アメリカでは難関大学ほど学費が高い傾向にありますが、日本では高い学力が必要な国公立の学費が安く、そうではない私大の学費が高くなっています。タイヒラーは「レベルの低い(一般的には私立の)大学でより高い学費を払う学生は、教育システムの中で成功できていないことに対する「罰金として払っているのだ、と表現して」(45p第1章註6より)。

 

 学生にとって大学は厳しい受験競争を勝ち抜いたあとの「息抜き」の場として捉えられており、入学に比べれば卒業は簡単です。

 こうした中、、21世紀になると「大学の危機」が語られ始めます。新聞や雑誌などで「全入時代」「定員割れ」といったことがさかんに語られるようになり、同時に日本の大学教育の問題点が指摘されるようになりました。

 大学が潰れることはもちろん問題ですが、この中で質の悪い大学が淘汰されるとする論調もあり、改革を進めるテコとしても「大学の危機」は語られました。

 

 日本の私立大学の収入の77%が学生からの学費であり、政府からの助成金は9%に過ぎません(一方、国立は収入の50%近くが助成金(64−65p))。

 しかし、一方で私立大学を経営する学校法人は税金の面で大きな便宜を受けています。教育活動を通して得る収益は免税となり、消費税なども免除されています。また、複数の学校を経営することも可能で、安定した学校法人は多くの資産を貯め込んでいます。

 

 私立大学のガバナンスは複雑で、大学本来の教育や研究を担う機関と、その機関を管理運営する学校法人の二元的なものになっています。前者は学長や学部長が中心で、後者は理事長を中心とした理事会によって運営されています。

 建前として評議委員会と監事が理事会をチェックすることになっていますが、実際には理事会と理事長の力が強くなっています。

 設立が古く、規模も大きな大学だと教授会が大きな力を持つこともありますが、歴史の浅い大学では理事会の力が強いことが多いです。

 

 日本の私立大学セクターは戦後になって大きく拡大しました。高等教育への需要の高まりを受けて、アメリカでは公立大学が拡大しましたが、日本では私大が高等教育の需要を吸収したのです。

 1955年に228校あった大学は75年に420校に増えましたが、国立72→81に対して私立122→305と私立の伸びが圧倒的です(残りは公立。84p表2−2参照)。

 

 私立への助成は憲法89条の問題もあって進みませんでしたが、1975年に私立学校振興助成法が成立します。これによって私学の経営は安定しましたが、同時に文部省が補助金を通じて介入することを可能にしました。

 また、大学の新設が制限されたことで、既存の大学は顧客を失う恐れなしに学費を引き上げられるようになりました。日本では大学養育は私的利益のために行くのだという認識が強かったこともあり、この学費の値上げは受け入れられていきます。

 

 80〜90年代前半は私立大学の黄金時代ともいうべきものでした。第2次ベビーブーマーと高等教育への需要の高まりによって入学希望者は増えつづけ、私学への助成金もあって経営も大きく改善しました。

 1991年にはカリキュラムに関する規制が緩和されたこともあってさまざまな学部や学科が生まれてくることになります。

 

 しかし、90年代後半から18歳人口は減り始めます。これに対して私立大学は新たな学部や学科をつくることで学生を集めようとしましたが、私立セクター全体ではかえって首を絞め、「募集地獄」を生む要因になります。

 さらに景気の低迷によって学費の値上げも次第に難しくなっていきました。

 

 第3章、第4章がグッドマンが行ったMGU(メイケイ学院大学)のエスノグラフィーですが、ここは面白いです。

 MGUは1940年代に創立された経理学校を前身とする大阪にある4年制大学です。経理学校に経営学校が加わり専門学校となり、高等学校がつくられ、短期大学がつくられ、60年代初頭に4年制大学も設立されました。

 1990年代前半にはMGUは1万人の学生と200人の専任教員、200人の非常勤の教員を抱えるようになり、第2志望校として人気を集めました。

 

 MGUは駅からのアクセスがよく、そのためにアルバイトもしやすい、またキャンパスが非常に綺麗で、マルチメディアの設備などもいち早く取り入れ、大学スポーツにも力を入れており、国際交流のための提携校を増やすことにも熱心でした。学内に入っていた紀伊國屋書店であり、売店高島屋が運営していました。

 こうしたこともありMGUの学費は他の多くの私立大学よりもおよそ30%高くなっていましたが、それもあっておとなしい「お坊ちゃん」「お嬢様」が集まる学校だとも認識されました。MGUは社長になった卒業生ランキングで国内70位以内に入っていましたが、中小企業の社長の子弟が多かったためと思われます。

 この学費に対応するかのように教員の給与も高めで、国立大学を定年になった教授の再雇用もさかんに行っていました。

 

 このMGUも90年代末になると入学志願者の急速な減少に見舞われます。91年に41334人いた志願者は03年には4442人と90%近い落ち込みを見せたのです。途中で退学する学生も20%程度になり、卒業から9ヶ月後にフルタイムの職についている卒業生は30%程度、01年からは定員割れにもなっています(130−131p)。

 

 MGUは同族経営の学校法人であり、トップは総長と呼ばれていました。総長は創設者の次男で、その弟、二人の妹、妹の夫、総長の妻が何らかの形で大学に関わっており、特に総長の母親は亡くなるまでもっとも影響力を持った人物とされていました。

 理事会のメンバーは公になっておらず、理事会に誰がいるか知っている教授たちはほとんどいませんでした。

 

 MGUには魅力的なキャンパスがありましたが、平日の朝9時から夕方18時で空調が切られてしまうこともあって、遅くまで残って研究する教員はおらず、キャンパスに長居することはありませんでした。そのため、オフィスアワーを設けている教員もほとんどいませんでした。アカデミックな雰囲気は薄く、多くの教員が他大学との掛け持ちをしていました。

 教員の待遇はよかったものの基本は年功序列で、どんなに優秀でも44歳までは教授になれなかったといいます。

 

 教員は「何を教えるか」について大学からプレッシャーを受けておらず、カリキュラムの統一性は希薄でした。「英語1」「英語2」「英語3」があったとしても、必ずしも難易度は順番通りになっておらず、「週末に何をしたかを英語で説明するのにも苦労する学生が、エリザベス・ギャスケルの1850年に出版された『ジョン・ミドルトンの心』や1858年に出版された『マンチェスターの結婚』の原文をリーディングのクラスで読まされる、ということも起きる」(141p)のでした。

 

 学生もキャンパスにいるのは基本的に授業のときだけであり、それ以外では文化祭くらいでした。この文化祭には総長も姿を見せましたが、教員の姿はほとんどなかったといいます。

 学生はアルバイトに忙しく、平均で週に15時間程度働いていました。

 

 こうした中で90年代末からMGUは急激な志願者の減少に見舞われます。90年代前半には一般入試でさばききれないほどの志願者を集めていましたが、90年代末になるとさまざまなルートで生徒を集める必要に迫られます。

 付属校からの推薦は大きな部分を占めていましたが、付属校の学力レベルが上がり、一方で大学は下がったために他校に流出する生徒が増えました。

 そこで入試の機会を増やし、一般公募型の推薦を導入したりと、さまざまな形で入学のルートが整備されることになります。

 

 しかし、入試の回数が増えればそれだけ試験問題をつくらなければなりません。英語の入試委員会は18通りの問題をつくっていたといいます(委員は60万円の手当があったが年間で100時間近い打ち合わせがあったとのこと)。

 しかも、この問題作成の最重要事項は受験生の学力に見合ったものをつくることではなく、「日本社会の中で期待されているある水準を反映した試験問題を作成すること」(157p)でした。

 ある委員長は「最終的に我々が世間の笑いものの対象にならないように」(157p)と言っていたそうですが、そのために受験生は自分の学力から見て難しすぎる4択問題を勘で解くような形になりました。

 そして、不合格者はほとんど出なくなりました。

 

 2003年には改革委員会が組織され報告書(「危機レポート」)が教員たちにも配られます。しかし、その後も有効な対策は打てず、2010年には大学基準協会から厳しい批判レポートを突きつけられています。

 それでも大学の財務状況を知るものは一部にとどまり、教員たちは大学改革は総長らが実行すべきものであると考えていました。

 

 2004年、MGUは法科大学院を設立します。司法制度改革の一環として導入されたロースクール構想にMGUも手を上げたのです。

 当初は30校程度と見られていた法科大学院でしたが、私立大学が次々と手をあげ、また文科省が門前払い的な対応をしなかったこともあって68校が認可されます。MGUも看板の法学部の生き残りのために法科大学院は必須と考えていました。

 

 MGUは学力や知名度を補うために、さまざまな設備を新設するとともに、多くの授業を夜や週末に行うことで社会人学生の獲得に努めます。

 この狙いはそれなりに成功し、初年度は定員50名に対して381名が受験、その後も5年ほどは学生を集めることに成功しました(192p表4−2参照)。

 しかし、2007年度の司法試験合格者が2名にとどまると(合格率14.3%(全国平均は40.2%)、受験生は集まらなくなってきます。

 MGUの売りは「仕事との両立」でしたが、それでは司法試験を突破できないという現実が突きつけられたのです。結果、MGUの法科大学院は2014年に募集停止に追い込まれます。

 

 しかし、著者はこの失敗は必ずしも悪いものではなかったと見ています。

 法科大学院設立時に手をあげなければ、法学部の地位は他大学に比べてさらに下がったでしょうし、退出は制度的な失敗が明らかになったあとのものだったので、大きなブランドイメージの毀損にはなりませんでした。

 

 MGUは法科大学院以外にも、校内で専門学校の教員が教える英会話などのコースを開講したり、ドイツ語学科などを閉じ、ホスピタリティ経営、スポーツ経済といった新しい学科を開設したり、教員の授業力の向上に務めました。

 そんな中でもっとも効果のあった対策が2009年に行われた学費の約27%の引き下げです。2007年に854名しかいなかった新入生は08年に1438名、09年に1654名と回復し、その後も1500名前後をキープし続けます(200p表4−4参照)。

 MGUは関西エリアでもっとも給与の良い大学ではなくなり、教員の定年退職年齢は70歳から65歳に引き下げられました。国立大学を定年になった教授を採用しなくなり、若くて給与の安い教員に置き換わりました。その代わりに学生との交流は密になりました。

 高島屋売店もなくなりましたが、MGUは危機を乗り切ることができたのです。

 

 一方で危機を乗り切れなかった大学もあります。大阪の聖トマス大学(旧英知大学)は、入学生の減少に対して外部コンサルタントの提案を受けて、大幅な学部再編や幼児教育学科の新設などを行いましたが、そのために借金を抱え、また学生の募集も順調には行かずに2014年に閉校に追い込まれてます。

 その他にも、デリバティブ取引で大きな損失を出した神戸夙川学院大学、大学は廃止されましたがその他の学校の運営は継続された東京女学館大学福岡国際大学などがあります(218p表5−1参照)。

 

 他にも他大と合併した大学もありましたし、公立大学に転換して生きのびた私立大学もありました。公立化に関しては、もともと公設民営だったものが公立化した高知工科大学静岡文化芸術大学、私大から公立になった成美大学山口東京理科大学などがあります(223p表5−3参照)。

 

 それでも多くの私立大学はしぶとく生き残っています。

 まず、当初想定されていた大学院教育、社会人の学び直しといったニーズはそれほど伸びませんでした。2018年の時点で私大は学生の95%が学部レベルであり、入学する生徒は相変わらず18歳が中心です。

 留学生の受け入れは進み、留学生の受け入れに活路を見出している私大もありますが、全体を見れば経営状況を大きく好転させるようなレベルではありません。

 

 ただ、「大学全入時代になれば大卒の価値はなくなる!」などと言われていましたが、日本において大卒の学歴プレミアムがなくなったということはなく、いまだに大卒の学歴はそれなりに効果をもっています。

 また、全入時代になれば難関大学以外は一般入試をする意味がなくなるとも言われましたが、AOや推薦が増えたとはいえほとんどの大学が一般入試をつづけています。「若者の通る道として重要な儀礼の一つ」(241p)として入試は位置づけられているのです。

 結局のところ、日本の大学はあまり変わっていないとも言えます。

 

 それでも私大が潰れなかった理由としては、短大からの女子学生の移動、日本学生支援機構による教育ローンの拡充(下位の大学ほど利用者が多い)、文科省による「護送船団方式」的な大学行政などがありますが、著者たちが見逃されがちな要員として注目するのが同族経営です。

 

 日本の私立大学の約40%が同族経営だと試算されています(265p)。

 金子元久は日本の大学を明治の頃に知識人によって設立された「自発的組織型」、宗教法人や財界人などによって設立された「庇護型」、すでに教育ビジネスを行っている者が「企業家型」の3つに分けていますが、同族経営が多いのは最後の企業家型です。

 有名なのは世耕一族が3代にわたって経営している近畿大学や39もの異なる大学や学校、幼稚園などを運営している冲永一族の帝京大学グループなどがあります。朝日大学明海大学を運営している宮田一族は中華料理チェーン店なども運営しています。

 

 同族経営がマスメディアでとり上げられるのは、たいてい不祥事のときであり(加計学園問題なんかもそう)、その実態が表にでることはあまりありませんし、基本的にはネガティブなものとして捉えられることが多いです。

 実際に、学校法人の非課税特典を利用して利益を作り出したりすることができると言われています。

 私立学校法では、役員のうちに配偶者または三親等以内の親族が一人を超えてふくまれてはならないとされていますが(275p)、この制限は個々の学校法人にしか当てはまらず、学校法人グループをつくり、それぞれの理事長に家族を当てはめることは可能です。

 

 同族経営の大学は日本だけでなく、中南米やアジアにも見られるといいます。

 基本的には腐敗などのネガティブな印象がもたれがちな同族経営ですが、長期的な視点に立てる、危機に対してトップダウンで対処できる、研究への注力が薄く学生の学費に依存しているのでいざとなったら学生寄りの思い切った改革ができる、といった長所もあります。

 学校法がグループとなっている場合、大学はそのフラッグシップの役割を果たしており、なんとしても守るべき対象となります。

 

 そもそもトヨタ自動車キヤノンキッコーマンサントリー同族経営であり、海外に目を向けてもサムスンウォルマートやイケアやレゴも同族経営です。

 日本では医療においても同族経営は幅広く行われており、戦後に急増した教育や医療のニーズに同族経営が応えたとも言えます(だからこそ私立の医学部はべらぼうに高い入学金を設定できるという面もある(296p))。

 さらに社会福祉法人などでも同族経営が多く見られ、これが子どもが減ったのに児童福祉施設が減らなかった一つの要因だと考えられます。

 

 私大のガバナンスに対する批判は高まっており、さらなる18歳人口の減少も進むと考えられ、日本の私大を取り巻く環境は厳しくなると予想されます。

 それでも著者らは、次のように述べています。

 日本の同族経営の私立教育機関はしばらく存続し続けるだろう、さらに、日本では1000年以上続いてきて、確かに存続することを何よりも重視するために存在しているという同族ビジネスの構造によって、多様性のますます進むこれからの時期にこそ恩恵を受けることになるだろう。私たちは、現在日本に存在する大学のほとんどが何らかの形で2030年にも存在すると予想する。(309p)

 

 長々と書いてしまいましたが、本書には「外から見た日本の大学」という面白さと、「私立大学はなぜ潰れなかったのか?」という問いに対する謎解きという2つの面白さがあり、しかもそれがきちんとリンクしています。

 

 ある国の制度をつくっているものとして政策がありますが、政策がつくりあげた構造が粘着力をもって残り続けることもあります。

 日本では戦後の成長期に急増する教育や医療や福祉の需要を満たすために民間セクターを頼りましたが、そこに同族経営が入り込むことによって古い体質が維持されるとともに独特のレジリエンスを持つようになったという流れは、大学のみならず、さまざまな問題を考える上でも参考になることではないかと思います。

 面白く、読み応えのある本ですね。

 

 

 

宇多田ヒカル / BADモード

 人間には自分と似ている人間に共感すると同時に、自分とはまったく似ていない人間に感心するというか、畏敬の念を抱くことがあると思うのですが、自分にとって宇多田ヒカルは後者の代表例です。

 例えば、"誰にも言わない"の歌詞の次の部分。

一人で生きるより
永久(とわ)に傷つきたい
そう思えなきゃ楽しくないじゃん

 

 「傷つくなら別に家で一人でいればいいじゃん」と思ってしまうので、「永久(とわ)に傷つきたい」と言って、さらに「そう思えなきゃ楽しくないじゃん」とまで言い切る姿は、なんか素直にすごいなと思える。

 それこそ、"FOR YOU"の♪傷つけさせてよ 直してみせるよ♪のあたりから、宇多田ヒカルの強い姿勢というのはびっくりするくらいのものでしたが、あれから20年以上の月日が経つのに、そのあたりがぶれていないのはさすがですね。

 

 サウンド的には、前作や全前作に比べるとエレクトリックによった感じで、特に"One Last Kiss"や"Face My Fears"のように、宇多田ヒカルの声でグルーヴ感を出していくような曲が印象的です。

 以前は、宇多田ヒカルも豪華なゲストミュージシャンを呼んできてその上に乗っかるような形の曲作りをしてもいいんじゃないかと思った時期もありましたが、やはり、宇多田ヒカルのグルーヴの中心は自身の声ということなんでしょうね。

 

 ただし、今作は小袋成彬をプロデューサーに迎えたり、エレクトロミュージシャンのSkrillexスクリレックス)と共作をしたりと、閉じた印象はありません。

 宇多田ヒカルらしさと新しさが同居したいいアルバムだと思います。

 

 ちなみに下に貼った"Face My Fears"のLive ver.は非常にかっこいいので、これもボーナストラックで収録してほしかった。

 


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ちなみに自分は配信で買いましたけどCDは2月23日発売とのこと。