『ドライブ・マイ・カー』

 去年の秋から見たいと思いつつも予定が合わなくて「見逃したか…」と思ってましたけど、ようやく見ることができました。

 原作は村上春樹の短編で未読なのですが、村上春樹の短編がここまで複雑な構造の話になっていることにまず驚きました。

 

 主人公は舞台俳優で演出家でもある家福悠介(西島秀俊)。彼はかつては女優でその後脚本家として活躍していた妻の音(霧島れいか)がいましたが、ふとしたことから妻の浮気を知ってしまいます。しかし、家福はそれを問い詰めることもできず、そうした中で家福が帰宅をためらってあてどなくドライブをしている間に妻はくも膜下出血で死んでしまいます。

 2年後、家福は広島の演劇祭に招待され、そこでアジア各地の役者を集めてチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を演出することになります。

 そこで事務局がつけてくれた運転手の渡利みさき(三浦透子)と出会います。当初は愛車を他人に運転させることを嫌がっていた家福でしたが、彼女の運転の腕の確かさに感心します。

 一方、演劇祭には妻の浮気相手だった高槻耕史(岡田将生)も現れ…といった形で物語が展開していきます。

 

 この映画は重層的な構造になっています。まず、映画の中で「ワーニャ伯父さん」という演劇がつくり上げられていきます。劇の中に劇があるのです。

 さらにこの「ワーニャ伯父さん」は、アジア各国からあつまった役者たちがそれぞれの言語でセリフを話すという形式で、さらに役者はまず感情を込めずに本読みをするという濱口監督の演出方法で演出されます。

 つまり、映画の中で映画の演出方法が開示され、それが演じられているのです。

 

 さらに家福の妻の音が語った物語なども挟み込まれ、物語が物語を駆動させていくような展開です。

 

 また、前半は男女のディスコミュニケーションがテーマとして前面に出ていますが、演劇祭が始まってからは、役者同士の言語に違い、そして役者のひとりイ・ユナ(パク・ユリム)が韓国手話の話者ということもあって、言語に違いにおけるディスコミュニケーションといったテーマも出てきます(このパク・ユリムが魅力的!)。

 

 こうした複雑な道具立ての上に、村上春樹がお得意とする人間の精神の隠れた部分だったり、過去の記憶との付き合い方といったものが乗っかっていくわけです。

 もともと、村上春樹の小説には濃厚な「村上春樹っぽさ」があり、そのいかにも村上春樹らしいセリフだったりフレーズだったり小道具だったりが物語を先に進めていきます。

 この「村上春樹っぽさ」をなぞるだけだと、映像作品としては非常に薄っぺらくなってしまうかもしれませんが、本作はそれが非常に複雑な構造の上に乗っているので、薄っぺらさを感じさせませんし、「広島から北海道はさすがに遠すぎるんじゃないか?」という1点を除けば、非常に安定した土台の上を物語が展開していきまし、さまざまな受け取りができる深みを与えています。

 カンヌ脚本賞を獲ったのも納得です。本当によくできている映画ですね。

 

筒井淳也『社会学』

 先日紹介した松林哲也『政治学と因果推論』に続く、岩波の「シリーズ ソーシャル・サイエンス」の1冊。

 社会科学の中でも「サイエンス」とみなされにくい社会学について、「社会学もサイエンスである」と主張するのではなく、「社会を知るには非サイエンス的なものも必要なのである」という主張によって社会学の意義付けをはかっています。

 著者は以前にも筒井淳也『社会を知るためには』ちくまプリマー新書)でも、社会学のあり方について論じていましたが、(一応)中高生向けのプリマーより1歩も2歩も3歩も踏み込んだ議論がなされています。

 社会学に限らず、社会科学に興味がある人の幅広くお薦めできる本ですね。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

第1章 社会学における理論――演繹的ではない理論の効能

第2章 因果推論と要約――記述のための計量モデル

第3章 「質と量」の問題

第4章 知識の妥当性・実用性

終 章

 

 「満員電車を避けるためには始発電車に乗れば良い」。多くの会社の始業時間を考えれば電車はまだ空いているはずで、実際に乗ってみたら空いていた。

 これを「科学」だと考える人はいないでしょう。始発の混み具合は路線によって違うでしょうし、たった1回乗っただけでは検証とは言えません。そして、この理論(?)が広まってみんなが始発乗れば始発電車は混んでしまいます。

 

 上にあげた満員電車の例はさまざまな意味で客観性に欠けます。「いつ、どこで、誰が」やっても同じ結果になるとは思われません。

 一方、科学では「いつ、どこで、誰が」やっても同じになることが期待されます。電流と電圧から抵抗が求められるように、誰がやっても結論は同じです。

 特に理論が数式によって表現できれば、誰もが数字を代入して演繹的に同じ結論にたどり着きます。

 

 社会科学においても経済学では理論が数式で提示されることも多いです。一定の前提から人々の行動が導き出されることになります。

 ゲイリー・ベッカーは、女性の労働力参加が、性別分業を通じた結婚の利得を低下させ、未婚化を進めると説明しました。 

 一方、社会学者のヴァレリー・K・オッペンハイマーは産業の高度化によって安定した雇用が遅れており、それが未婚化の原因だと考えました。

 ベッカーの「理論」は数式を使って演繹的推論を行っているのに対して、オッペンハイマーが示すのは断片的な記述統計、参照文献が示す知見、概念の連関性といったものです。

 

 このときに「理論」として完成度が高いのはベッカーのものです。ところが、ベッカーの理論からは「高学歴女性の方が早く結婚する」という帰結は導けませんが、実際には高学歴女性が早く結婚する傾向が見られました。

 現実社会の説明としてはオッペンハイマーのものが優れていたのです。

 

 社会学の理論には「緩さ」も見られますが、これが「社会過程の「要約」あるいは「説明」を可能にする」(30p)という面もあります。

 人々の行動をさまざまな形で記述したアーヴィン・ゴフマンの研究などは、まさに理論なのか実証なのか判然としないもので、それでいて人々の行動の説明としてさまざまな気づきを与えてくれます。

 また、政治学でもよく引用されるエスピン-アンデルセン福祉国家研究でも、用いられてるのは「断片的な経験データ、関連研究、緩めの概念連関」です。アンデルセンの理論はジェンダーや家族の理論が抜け落ちているとの批判も受けましたが、その理論が棄却されたわけではなく、アンデルセンは「家族」をパラメータに加えることでその批判に応えました。

 

 このようなパラメータの追加などは、科学においては良くないこととされそうですが、こういた改訂はクワインホーリズムの考え方を使うとうまく説明できます。

 クワインは信念・知識が相互に依存しあって「全体」を形成しているとの立場をとっており、科学とそれ以外をきっぱりと区別するポパーのような見方は退けられています。また、理論と観察はそれぞれが独立しているわけではなく、観察は理論の影響を受けます。

 こうした認識論の枠組みのもとでは、パラメータを追加して中心命題の延命をはかるという行為も十分にありなのです。

 (このように書くとずいぶんいい加減な話に聞こえてしまうかもしれないけど、例えば、アインシュタイン相対性理論によってニュートン力学が乗り越えられても、ニュートン力学が用済みになって捨てられるわけではないでしょう。それは対象を限定した形で用いられています。詳しくは丹治信春『クワイン』などを読んでください。) 

 

 経済学においては、あえて対象から距離をとってモデル化する戦略がよくとられますが、一方、社会学では対象から距離をとらずに、対象の側から概念や問いを受け取ろうとするスタイルがあります。

 著者はこれを「反照戦略」と呼びますが、これによって社会の変化などを記述することが可能になり、社会や個人が異質な場合であっても、それを説明できる可能性が出てくるのです。

 

 とは言っても、近年の社会科学の花形は因果推論です。上記のような理論と松林哲也『政治学と因果推論』でもとり上げられていた、RCTや自然実験などとの関係はどのように捉えればいいのでしょうか?

 

 因果推論で重要なのは自己選択バイアスの除去です。例えば、ダイエット食品を食べている人は太っている可能性が高いわけですが、それを無視してダイエット食品を食べている人と食べていない人の体重を比較し、「ダイエット食品を食べると逆に太る!」みたいなことを言ってしまっては意味がないわけです。

 そこで無作為化や自然実験など、さまざまな手法によってその自己選択バイアスを取り除こうとします。

 こうやってうまく実験群と対照群を切り分けることができれば介入の効果を測ることができます。

 

 このときに重要なのは効果であって、効果をもたらした理由ではないのですが、社会学における説明ではむしろその理由に注目します。

 因果推論では、効果の推定と「なぜ」という問いはとは独立に行うことができますが、社会学では「意図せざる結果」といったものが重視されるように、その理由こそが解明されるべきものとしてに注目されます。

 

 もちろん、社会学でも数量的なデータは用いられますが、記述や要約のために用いられる方法は因果推論のそれとは違います。

 「「実際の観察結果と確率的に適合するモデル」を探すことがしばしば目的になる」(70p)のです。

 

 また、データをどのように分類するか、切り分けていくのかということも重要です。

 例えば、社会階層研究では社会的地位をいかに的確に測定するかが重要になります。例えば、ゴールドソープの階級論では、自営や農業以外を「サービス階級」「単純ノンマニュアル」「上層マニュアル」「下層マニュアル」と分けていますが、日本のSSM調査では「大企業ホワイト」「中小企業ホワイト」「大企業ブルー」「中小企業ブルー」と分けています(73p表2.3参照)。

 これは日本では「大企業」と「中小企業」の間に差が一定の差があるという判断なのでしょう。

 

 そして、これらの分類は人々の実際に持つイメージに基づいたものでもあります。日本では職種よりも企業名の方が重要だと認識されることもあるので、大企業と中小企業の区別がなされるわけです(小熊英二『日本社会のしくみ』講談社現代新書)に、ロナルド・ドーアの本から、イギリスのEE社のブラッドフォード工場の鋳造工に、どんな仕事をしているか尋ねたら、おそらく鋳造工→ブラッドフォード→EE社の順に答えるだろうが、日立市日立製作所の従業員に尋ねれば、日立の社員→工場の名前→鋳造工の順に答えるだろうという話が引用されている)。

 

 日本においてホワイトカラー/ブルーカラーの区別では階層を捉えきることができないことからもわかるように、社会学の研究においてはデータの解像度も重要です。

 どのようなデータまで求めるかはそれぞれの社会によって異なり、例えば、アメリカでは「大学中退」という選択肢は重要ですが、入ったらほとんどの人が卒業する日本では「高卒」「大卒」で事足りるかもしれません。

 

 現実の社会は複雑であり、さまざまな解釈が可能です。例えば、「世代を経るごとに親子関係は緊密化が増すか?」といった問いがあった場合、雇用労働化が進み、成人後の親への経済依存が減るために希薄になるとも予測できるし、逆に長寿化と少子化によって親子が付き合う時間が長くなり関係は緊密化するという予測も可能でしょう。

 

 社会学が扱うテーマの多くはこのように逆向きの予測が可能だといいます。これは「雇用労働課」「長寿化」「少子化」といった現象が何らかの意図のもとで体系的に進むのではなく、ある程度バラバラに進行し、しかも互いに影響し合うからです。

 「「多様な解釈を許す」ことと、「意味的に理解できないつながりがたくさんある」ことは、社会の異質性という同じ特性の2つの現われ」(83p)です。

 このことは社会学のとる「「意味理解に沿った反照戦略」の有効性と限界をともに示して」(83p)います。モデルを固定化しないことは変化の記述に有効ですが、同時に研究者の理解を超えたつながりは見出しにくく、抽象的なモデルを用いた距離化戦略や大量のデータの処理によって初めて見えてくることもあります。

 

 第3章では「質と量」の問題が扱われています。日本の社会学においては質的研究のプレゼンスが高い傾向にありましたが、近年の調査教育のカリキュラムでは、より標準化が進んでいる量的調査・分析が優勢です。

 ただし、質と量はそんなに簡単に切り分けられるわけではありません。

 

 例えば、「無配偶/有配偶」というのは0か1かという数字に変換できるものですが、もしも日本でも欧米のように同棲が増えたり事実婚が増えてくれば、「無配偶/有配偶」では現実を取り逃がすことになります。

 

 ただし、データの解像度を上げていけばいいのかというとそうでもありません。

 例えば、「本人が30歳台男性で4年制大学卒、大企業のホワイトカラーで部下有り、父親も4年制大学卒」というのはかなり解像度の高いデータで、最近では珍しくない類型かもしれません。しかし、このタイプの意識の変遷を辿ろうとしても、おそらく1960年代には珍しいタイプであり、60年代と現在のそれを比べて何かがわかるとも思えません。

 

 このように長期的な変化を見る場合、データを揃えることは困難です。時代を経た異質な社会において、何と何が同じなのか? という問題は非常に難しいもので、こうした異質な社会において因果推論で何かを明らかにすることは困難です。

 

 一方で解像度の粗いデータが何かを明らかにすることがあります。ピケティは納税データを使って資本と格差の問題を明らかにし、デュルケムは自殺の統計から、個々のケースを追っていたのでは見えにくい自殺の特質を明らかにしました。

 

 第4章では「知識の実用性・妥当性」というタイトルで、再び知のあり方が全体的に検証されています。

 科学というとどうしても自然科学が標準で、社会科学もそれに追随すべきであるというふうになりがちですが、例えば、自然科学でも気候などの斉一性が想定しにくい分野では対象から距離を取る「距離化戦略」ではなく、「反照戦略」をとることもあります。 

 すべてにおいて優越する方法があるのではなく、対象によって適切な方法は違ってくると考えられるのです。

 

 さらに社会を研究する場合には研究対象が研究の影響を受けることも考えられます。例えば、「ニート」という概念が生み出されて広がっていく過程で、「ニート」に分類される人々への視線や本人の意識が変化していく可能性もあります。

 

 実用性、つまり「役に立つ/立たない」の次元で考えると、自然科学に比べて社会科学は分が悪いかもしれませんが、自然科学の基礎研究も短期的には「役に立たない」ことからもわかるように、科学を実用性の面からのみ測ることはできません。

 

 社会科学において、さまざまなナッジを駆使する行動経済学や、あるいは政策効果を測ることのできる因果推論は「役に立つ」ものかもしれません。

 しかし、反照戦略が現場の声をすくい上げて既存の考えを修正してくれることもあります。例えば、児童養護施設よりも里親やファミリーホームの方が子どもの生育にとってはいいという通念がありますが、社会学者の藤間公太は、フィールドワークによって施設のほうが悩みや問題を抱える子どもに対する「応答性・継続性」において、里親やファミリーホームの持つ限界を超えることができるとの見方を示しました。

 こうした知見が広まって受け入れられていくとしたら、行政の方針も変わっていくかもしれません。

 教育社会学者の新谷周平によるフリーターについても研究は、彼らが地元の仲間集団との場を共有することを優先してフリーターになっていることを明らかにしていますが、これだと経済的支援を行って進学を促したりしてもその効果は限られます。

 対象に寄り添った観察や分析が既存の見方の修正を迫るのです。

 

 もちろん、こうした研究は再現性の問題なども含むのですが、対象に近づく、あるいは対象の認識に近づかないと見えてこないものというものは確実にあり、ここに社会学の存在意義といったものもあるのでしょう。

 

 そして、これは社会学に限らない社会科学のポイントなのだと思います。

 例えば、アメリカにおける共和党支持者と民主党支持者の分極化なども、それが何を意味するのかは実際にそれぞれの支持者に寄り添ってみないとわからないでしょうし、「分極化」という言葉の広がりが人々の行動を変えている面もあるでしょう。必ずしもフィールドワークが必要なわけではないでしょうが、人々が持つ世界観のようなものを探る必要があるはずです。

 

 というわけで、社会学を学ぶ人だけではなく社会科学に興味を持つ人ならば読む価値のある本だと思います。

 

 

 おまけに、ここ最近の社会学の本で面白いと思ったものをあげておきます。

 

morningrain.hatenablog.com

 

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呉明益『雨の島』

 昨年は、『複眼人』、『眠りの航路』ときて、さらにこの『雨の島』と刊行ラッシュとなった台湾の作家・呉明益。『歩道橋の魔術師』や『自転車泥棒』が文庫化され、売れ方はわからないのですが完全にブレイクした感じですね。

 ただ、これだけ翻訳が続いても読ませるのは呉明益の引き出しが多いからで、この『雨の島』と『眠りの航路』ではずいぶんと作品から受ける印象は違います(『複眼人』とは少しにている)。

 

 本書は連作短編ですが、後記に「ネイチャーライティング」という言葉が使われているように、自然を題材としたノンフィクション文学のような趣もあります。特に各短編の前の置かれた呉明益自身によるスケッチは美しく、生物に対する繊細な視点が感じられます。

 「雨の島」とは台湾のことであり、その山や森林、海の様子が描かれています。そして、その自然に魅せられた人間たちが描かれるのです。

 

 ただし、あくまでも本作は小説であり、そのための仕掛けもあります。

 舞台は基本的に現代または近未来なのですが、どの短編でも1つのキーとなるのが「クラウドの裂け目」と呼ばれるウイルスによる秘密の暴露です。このウイルスは侵入すると当人が隠しておきたいファイルを探り出し、それを見るのにふさわしい人物に送りつけるのです。

 これによって本作の登場人物は、親しい人の思わぬ秘密や謎を知ることとなります。

 

 自然というのは人々を癒やしてくれる存在でもありますが、本作の登場人物たちには自然に癒やされるというよりは、そもそも人間の社会の中ではうまく生きられずに自然の中でしか生きられないような人々です。

 彼らは孤独になる必要があり、その孤独を与えてくれるのが台湾の山であったりします。

 

 個人的に特に好きなのが、まずは「人はいかにして言語を学ぶか」。

 狄子(デイーズ)は幼い頃から自閉症気味でしたが、鳥の鳴き声を音符にすることができるという特技をもった少年でした。彼は大学に入り鳥類の研究者となりますが、母の死をきっかけに聴力を失ってしまいます。

 このようにもともと言葉が得意でなかった彼は、得意な鳥の鳴き声を聞くことさえできなくなってしまいます。しかし、ここから手話を学んで言葉を取り戻します。

 物語時代は比較的淡々と進んでいくのですが、この過程が非常によく描けています。

 

 もう1つ強烈な印象を残すのがラストの「サシバベンガル虎および七人の少年少女」。

 呉明益の作品ではおなじみの台北の商場を舞台にした作品で、高校卒業後に浪人生だった叔父さんが市場で鷹を連れてきてしばらく飼っていたという思い出が語られるとともに、「叔父さんはどこからどのように鷹を連れてきたのか?」という謎と、叔父さんと友人たちが市場で虎を見たという話が語られます。

 終わり方はショッキングでもありますが、人間と自然の関係の歪みをわれわれに突きつけるような内容でもあります。

 

  全編を通じてエコロジーではあるのですが、ぱっと思い浮かぶ「エコロジー」とは少し違った「エコロジー」が展開しています。

 個人的には「エコロジー」的な仕掛けが目立った『複眼人』よりもこちらのほうが好きですね。

 『歩道橋の魔術師』に引き続き、呉明益の短編作家としての上手さを感じさせてくれる本でもあります。

 

『クライ・マッチョ』

 クリント・イーストウッド、91歳にして監督と主演を務めた作品。

 舞台は1980年、かつてはロデオ界のスターだったが、落馬事故をきっかけに落ちぶれた年老いたカウボーイのマイク(クリント・イーストウッド)は、かつての雇用主で恩人でもある人物に「メキシコで元妻と暮らす息子のラフォを連れ戻してほしい」と頼まれ、メキシコに向かうが、その元妻は想像以上にひどくて、ラフォは家を出て路上で闘鶏をしながら暮らしているような状況。そのラフォをアメリカまで連れ戻すというロードムービーになります。

 

 イーストウッドが主演なわけですが、さすがに91歳でやる役ではないというのはあって、途中でイーストウッドが荒馬を馴致するシーンがあるのですが、もはやあの足取りでは危険すぎますよね。脚本的に65〜70歳のくらいの役者がやるべきだったのではないでしょうか。

 ただし、一方でイーストウッドのようにカウボーイであり、なおかつチャーミングな老人というのもなかなかいないのかもしれません。

 立ち寄った街で、レストランを経営する50代くらい?の女性に好意を持たれるシーンがありますけど、イーストウッドなら納得です。

 

 イーストウッドが少年に対して自らの生き様を見せるという点では『グラン・トリノ』と共通するのですが、イーストウッドが枯れたぶん、もっとあっさりしていて、その分、身も蓋もなくイーストウッドだという感じがあります。

 

 まず、「家族」に対して一貫して冷ややかな視線を向けているイーストウッドですが、今作も露骨にそう。

 ラフォノは母親はフォローしようがないほどひどいですし、父親だって碌なものではありません。「家族」こそが怖いもので、問題含みなものなのだというトーンはこの映画でも際立っています。

 この「家族」に対するスタンスがイーストウッドを単純な「保守派」から区別するものなんでしょうね。

 

 そして、本作のテーマはマッチョイズムの否定でもあるわけですが、「マッチョイズムの有害性」をことさらに描いたり、それを象徴するようなシーンを特につくりこまずに、あっさりとイーストウッドの口から「俺はわかったんだ」と言わせて終わらせるところが味わい深いです。

 このあたりは脚本的に物足りないと感じる人もいるかも知れませんが、「マッチョイズムを否定するマッチョイズム」という罠もありますから、個人的にはこれでいいんじゃないかと思います。

 

 『運び屋』に比べると、主人公の年齢とイーストウッドの年齢があってない、ストーチートして弱いといった欠点はありますが、それでも個人的にはいい映画だったと思います。

 

松林哲也『政治学と因果推論』

 新しく刊行が始まった岩波の「シリーズ ソーシャル・サイエンス」の1冊。このシリーズは筒井淳也『社会学』も読みましたが(本書のあとに紹介記事を書く予定)、どちらも面白く期待が持てますね。

 

 ここ数年、因果推論に関する本がいくつも出ており、基本的には中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』、伊藤公一朗『データ分析の力』あたりを読めば近年の進展はわかるのですが、両書とも経済学の人間が書いた本になります。これに対して本書はタイトルに「政治学」とあるように政治学者の書いたものであり、題材も政治に関するものとなっています。

 因果推論における近年の進歩といえば、まずはRCT(無作為化試験)が思い浮かぶわけですが、政治の世界ではこのRCTがしいくいです。このため本書ではRCT以外の手法の紹介に紙幅が割かれています。

 また、自己選択バイアスの説明が非常に丁寧であるのも本書の特徴でしょう。

 

 目次は以下の通り。

第1章 政治学と因果推論

第2章 因果効果の定義と自己選択バイアス

第3章 統制に基づく比較の限界と自己選択バイアスの克服

第4章 無作為割り当てを利用する比較:無作為化実験

第5章 偶然の割り当てを利用する比較:自然実験

第6章 カットオフ周辺での割り当てを利用する比較:不連続回帰デザイン

第7章 偶然が引き起こす連鎖反応を利用する比較:操作変数法

第8章 経時的変化を利用する比較:差の差法

第9章 因果推論のはじめかた

第10章 因果推論のゆくえ

 

 政策は一般的に何らかの効果をあげるために行われますが、実際に効果があがっているのかわからないときもあります。例えば、小学校で道徳が教科となりましたが、「それによって子どもたちの道徳心を向上しているのか?」と聞かれれば、「よくわからない」と答えるしかないのではないでしょうか。

 それでも、やはり何らかの検証が必要なわけで、そこでさまざまな因果推論、つまり原因と結果を取り出す手法が生み出されているわけです。

 

 まず、問題となるのが自己選択バイアスです。

 例えば、「新聞を読むと政治に関する知識が向上するのか?」という疑問があったとき、大抵の人は「東スポとか以外なら向上するんじゃない?」くらいに考えると思いますが、厳密にこの因果関係を証明しようとすると大変です。

 例えば、「新聞を購読しているか否か?」と「政治に関する知識をどれくらいもっているか?」を調べて、「新聞を購読している方が政治に関する知識がある」ことを示せても、「新聞を購読している人はそもそも学歴が高い」という事実があれば、その知識は新聞のせいではなく学歴のせいかもしれません。

 学歴が「新聞購読」と「政治に関する知識」の両方に影響しているかもしれないのです。このとき学歴を交絡変数と言います。

 また、そもそも学歴が高い人が新聞を購読しやすい傾向もあるかもしれません。これを自己選択バイアスと言います。

 

 この自己選択バイアスというのはなかなか厄介で、例えば、「女性議員が増えると育児政策に関する予算が増える」という仮説があり、それを検証した結果、女性議員比率が高い国々は女性議員比率が低い国々に比べて育児関連予算が増えるということがわかったとします。しかし、それでも女性議員比率が高い国は、もともとリベラルで大きな政府志向であるという自己選択バイアスがあることが考えられるのです。

 

 こうした問題を乗り越えるために、先程の「新聞購読と政治に関する知識」では学歴を統制することが考えられます。大卒と非大卒に分けて分析すればいいわけです。

 しかし、これでも不十分です。「新聞購読」と「政治に関する知識」はともに所得の影響を受けているかもしれませんし、もともと政治に興味があるから新聞を購読しているということも考えられるでしょう。自己選択バイアスを取り除くのは難しいのです。

 

 そこで考えられるのは対象を無作為に選ぶという方法です。新聞を購読していないん人を無作為に選んで一定期間新聞を購読してもらって、購読前と購読後で政治に関する知識を測れば、新聞購読が政治に関する知識に与える影響がわかるわけです。

 

 これがRCTで、原因と結果の関係を明らかにするために有効な手段なのですが、この実験を行うのは大変です。お金もかかりますし、一定の期間フォローしていくのも大変でしょう。

 また、「経済学部に行った場合と文学部に行った場合でどれだけ年収が変わるか?」といったテーマの場合、興味深いかもしれませんが、人の人生を左右してしまうわけで今度は倫理的な問題が浮上します。

 

 第4章でRCTの手法が詳しく紹介されていますが、例としては倫理的な問題をあまりはらまないようなものが紹介されています。

 1つ目はサーベイ実験と呼ばれるもので、「世論調査において調査者によい印象を与えたいと思って嘘を言う人がいるというがどれくらいるのか?」ということが調べられています。これについて面接方式(PAPI方式)とコンピュータによる自己回答方式(CASI方式)に対象者を無作為に割り付けて比較することで明らかにしようというのです。

 面接では相手によく思われようという感情がはたらきますがコンピュータ相手ならそうはならないだろうというわけです。実際、「選挙で投票する」は面接方式が高めに出て、「役所に相談する」は面接方式で低めに出ています(66p図4.3参照)。

 「選挙では投票すべき」「役所に相談するのは恥ずかしい」という規範があって、これが回答のバイアスを生んでいると考えられます。

 

 もう1つがフィールド実験で、対象者に無作為に何らかの情報等を与えた上でその行動を観察します。

 ここではアメリカで行われた「啓発活動は投票率を高めるか?」ということを調べた実験がとり上げられています。コネティカット州で行われた対象者が3万人という大規模なもので、戸別訪問、電話、はがきの効果が調べられています(戸別訪問は投票率を10%ポイント高める効果があった)。

 他にも政治家が白人有権者と黒人有権者の問い合わせにどれほど応えるかという実験も紹介されています(共和・民主に限らず白人議員は黒人有権者に対する応答が悪い)。

 

 このようにRCTは強力なツールですが、実験できるものは限られています。そこで登場するのが第5章で紹介されている自然実験です。これは人間が左右できない外部の力による偶然の割当を利用するものです。

 とり上げられている例は、「雨あふると投票率は下がるのか?」というものですが、確かに天気は人間が左右できるものではないです。

 

 具体的には2017年の衆院選における台風の影響が調べられています。投票日は10月22日でしたが、ちょうど21日から22日にかけて台風21号が日本に上陸・縦断したのです。

 この台風の影響を用いて降水が投票率に与える影響を調べようというわけですが、降水量の多い地域は関西や東海に多く、このあたりを補正しながら調べます。

 分析の結果、降水量が1mm増えると投票率は0.05%ポイント下がり、1時間10mmの雨が投票時間中ずっと振り続けると投票率が6.5%ポイント下がるという推定されます。

 

 他にもイタリアのベルルスコーニが率いる会社の傘下にあるテレビ局が視聴できることがベルルスコーニの率いる政党フォルツァ・イタリアの支持に与える影響が調べられています。電波状況によって視聴できる地域と視聴が難しい地域があったためです。

 この結果、視聴できる地域ではフォルツァ・イタリアの得票率が高く、その影響は放送開始当時に10歳以下と55歳以上に顕著だったという分析結果が出ています。

 

 第6章では不連続回帰デザインが紹介されています。これはある基準によって分割されてしまう事象を利用してその効果を調べようというものです。

 例えば、日本の小学校は35人や40人といった基準を超えるとクラスが分割されますが、そのギリギリ分割されたクラスとギリギリ分割されなかったクラスを比較することで少人数教育の効果が測れるのではないかというわけです。

 

 本書では現職が選挙で優位になる「党派的現職優位効果」がどれほどあるのか? ということを調べる研究がとり上げられています。

 ただし、これを調べるのはなかなか困難です。例えば、自民党議員について調べようと思っても「そもそも自民が強い選挙区」なども存在し、現職優位効果のみを取り出すことは難しいのです。

 そこで衆議院小選挙区制において、自民がギリギリ勝った選挙区とギリギリ負けた選挙区の次回の得票率を見ていきます。現職優位効果があるなら、ギリギリ勝った選挙区はギリギリ負けた選挙区に比べて次回の自民の得票率に違いが出てくる、つまりギリギリ勝った選挙区の得票率がジャンプするはずなのです。

 分析結果を見ると、この「党派的現職優位効果」はほとんど出てないのですが、この要因として日本の衆議院選挙制度では比例復活があることがあげられます。小選挙区で負けても現職議員となるケースは多いのです。また、接戦の選挙区には野党が重点的に資源を投入してくるといった要因も考えられます。

 

 この不連続回帰デザインについては応用例も含めてもう少しわかりやすい例があってもよかったと思います(選挙の勝ち負けは偶然の産物なのかという疑問がある。例えば、政党はかなり戦略的に動きそうですし、途上国であれば不正の存在なども考える必要がありそうですし)。

 

 第7章は操作変数法です。偶然性によって生み出された変化が、連鎖的な反応を引き起こすさまを分析します。

 第5章では降雨が投票率を引き下げることを明らかにした研究が紹介されていましたが、投票率の低下は特定の政党に有利になるのでしょうか? 一般的に組織票を持った政党は投票率の低下が有利になると言われていますが、それが本当かどうかを検証しています。

 ここでは組織票が強いとされる、自民・公明・共産の比例での得票率が分析されています。投票率が1%上昇すると、自民の得票率が約0.3%ポイント、公明の得票率が0.35%ポイント下がり、共産の得票率は0.2%ポイント上がるとの分析結果が出ていますが(141p表7−2参照)、統計的には有意ではありません。

 他にも、いくつか独特な操作変数を使った事例が紹介されています。

 

 第8章は差の差法です。ある時点において何らかの介入がなされたグループと介入がなされなかったグループを比較します。

 本書では日本の女性議員の少なさに関する研究がとり上げられています。日本の小規模な自治体の地方議会選挙では、かなり少ない票数で当選できるため、地縁や血縁で票を固めることができる候補者が当選しやすいです。そして、こうした地縁や血縁は男性の方が女性よりも利用しやすくなっています。

 ところが、大規模な自治体になれば地縁や血縁だけでは当選できず、政党の組織力などが必要になり、女性にも当選のチャンスが広がります。

 

 しかし、一般的に小規模な自治体は地方にあり大規模な自治体は都市部にあるため、両者を比較しても単純に風土を比較しただけになってしまいます。

 そこで市町村合併というイベントに注目します。合併が行われると有権者が増え、地縁や血縁に頼った選挙は難しくなります。そこで、市町村合併の前と後で女性議員増加のトレンドを見ることで、有権者数の拡大が女性議員の増加に与える影響を見ようというのです。

 このとき、比較の対象になるのが合併しなかった自治体です。合併しなかった自治体の増加傾向と合併した自治体の増加傾向を比べて、合併した自治体の増加傾向が合併を機に屈折して上がっていれば、有権者の増加が女性議員を増やすはたらきをすると言えるわけです。

 実際、合併のあった自治体は合併を機に女性議員増加のトレンドが上振れしています(159p図8.3参照)。

 

 さらに本章ではイベントスタディと合成統制法という差の差法を発展的に利用した手法も紹介されています。特に合成統制法は比較の対象となるものを合成して作るというもので、歴史的事象などを分析するときに使える技法です。

 ここでは、コンゴ内戦が森林破壊に与えた影響を熱帯林の面積が大きい国22カ国と比較して明らかにする研究が紹介されており、内戦が森林破壊を進めたことが示されています。

 

 第9章では親切にもどのように因果推論の研究をすべきかということを教えてくれています。

 さらに第10章では因果推論の抱える問題や、今後の日本の政治学のあり方にも言及しています。

 

 第9章なんかは特にそうですが、全体的に分析のステップが親切に示されており、これから因果推論を使った研究をしていきたいという人には非常に良いのではないかと思います。

 また、最初にも書きましたが、この手の本は今まで経済学者によって書かれていたので、政治学を学びたい人にとってはやはりこちらのほうが自分の知識に引きつけて考えることができるでしょう。

 

 政治学者の書いた因果推論の本といえば、久米郁男『原因を推論する』があります。本書と『原因を推論する』を比較すると、本書のほうが最新の手法を丁寧に紹介していてより先端的な手法を学ぶことができます。 

 政治学(特にポリティカル・サイエンス)を勉強するのだと決めた人には本書がお薦めです。

 

 ただ、「ちょっと政治学に興味がある」くらいの人は『原因を推論する』のほうがいいかもしれません。本書に出てくる例、「新聞を読めば政治に関する知識が増えるか?」「雨が降れば投票率は下がるのか?」という問いは、多くの人にとって「まあそうじゃないの」で終わる話だからです(もちろん、それを実証することに価値があるのですが)。

 一方、『原因を推論する』のほうが素人にも興味を引く例をあげていますし、政治学のブックガイドにもなっています。

 というわけで、本書はある程度政治学に足を突っ込んだ人向けの本ということになると思います。

 

 

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『決戦は日曜日』

 宮沢りえ2世議員を、窪田正孝がその秘書を演じた選挙をテーマにした映画。社会科の教員としては見ておかねばと思って見に行ってきました。

 

 谷村(窪田正孝)は、地方都市に地盤を持ち民自党で防衛大臣も務めたことがある(映画中で言及はないけどかなりの当選回数を数えているはず)衆議院議員・川島昌平の秘書をしています。

 ところが、その川島が脳梗塞で倒れ、県議や市議の間で後継候補がまとまらないなか、娘のゆみ(宮沢りえ)の白羽の矢が立ちます。

 川島の地盤は盤石で普通にやっていれば勝てるような状況なのですが、ゆみはかなり空気が読めない人間で、谷村はそれに振り回される…という設定です。

 

 違法を認識しつつ戸別訪問を行ったり、選挙期間中の弁当の領収書を表に出せる部分と出せない部分で書き分けたり、日本の選挙の実情の一端を垣間見せてくれる部分もありますが、基本的にはコメディであり、まずは何よりも宮沢りえの怪演を楽しむ映画と言っていいでしょう。

 

 おそらく小池都知事あたりの振る舞いを参考にしているのではないかと思うのですが、ゆみは世の中から少し浮き上がっているような女性であり、すぐにその場で自分中心の世界をつくり上げてしまうような人間です。そして、小池都知事にはある周囲の空気を読む能力がゆみにはまったくない。

 これでなんとなく厄介な人間であることがわかっていただけたと思うのですが、こうした人間を宮沢りえが非常にうまく演じています。

 そして、時には演劇的と言ってもいいような感じになる宮沢りえの演技を窪田正孝が独特のソフトさで受けており、いいコンビだと思います。

 

 途中からは政治の世界の嘘にうんざりしたゆりと谷村が落選を目指すというドタバタ気味の展開になりますが、「人気の失墜を狙って炎上を目論むがその炎上がかえって人気を引き寄せてしまう」という展開が、いかにも今の時代っぽくて面白いですね。

 

 選挙の描写としては、「小選挙区で地方都市なのに5人も立候補しているのはいかがなものか?」とか「ライバルが公示後に体調不良を理由に選挙から降りるんだけど、供託金を払ってしまった段階でそう簡単にはおりないんじゃないか?」とか疑問もなくはないですが、笑える映画に仕上がっていますし、何も知らないし空気も読めない2世議員とその振り付けをする秘書という設定は面白いです。

 入りとしてはあんまりよくなくて、比較的早くに終わってしまいそうな雰囲気がありますが、見て損はない映画だと思います。

 

小林悠太『分散化時代の政策調整』

 著者の博論をもとにした本で副題は「内閣府構想の展開と転回」。興味深い現象を分析しているのですが、なかなか紹介するのは難しい本ですね。

 タイトルの「分散化時代」と言っても「そんな言葉は聞いたことがないし、何が分散したんだ?」となりますし、「政策調整」と言ってもピンとこない人が多いでしょう。

 

 そこでまずは第2次以降の安倍政権時に言われた「官邸一強」の話から入りたいと思います。

 90年代後半の橋本行革によって1府12省庁制となり、首相と内閣府の権限が大きく強化されました。それまで日本では各省庁からボトムアップの形で政策形成がなされており、首相のリーダーシップは弱いままにとどまっていましたが、この改革によって「政治主導」の実現が目指されたのです。

 このしくみをうまく利用したのが小泉政権や第2次安倍政権でした。特に安倍政権では内閣人事局の発足も相まって、省庁の官僚を首相や官房長官、あるいは官邸官僚と呼ばれる人々が支配するトップダウン型の「官邸一強」の政治が実現したとの見方があります。

 

 このように内閣府というのは政治主導を実現するためのもので、それが第2次安倍政権ではさらに強化されるようになったというのが一般的な理解だと思います。

 これに対して、本書では内閣府がどのような構想のもとでつくられ変化してきたかを追い、内閣府が政策調整のために省庁側からも必要とされる形で発展してきたと主張します。

 省庁の対応すべき仕事が増加したにもかかわらず人員は増えないという中で、他省庁との協力・調整のために内閣府のような組織が必要とされたのです。

 また、こうした分析を通じて第2次安倍政権による「官邸一強」政治がいかなるものであったのかということも見えてきます。

 

 目次は以下の通り。

序章   本書の目的と構成
第1章 政府中枢に関する理論的検討
第2章 省庁官僚制の長期的変容
第3章 内閣府構想の展開と社会政策
第4章 内閣府の拡充と融解
第5章 政策調整の構造分析
第6章 内閣官房と政策調整会議
第7章 内閣府構想の意義と限界

 

 行政の仕事はそれぞれの官庁による分業制がとられていますが、例えば、クリーンエネルギーの導入などに関しては経済産業省環境省がかかわることになるでしょうし、複数の省庁間の調整が必須となる事業もあります。

 

 日本では1付12省庁制の導入を始めとして何度か行政改革が試みられてきましたが、実は行政改革が行われていない時期に内部部局が変化するという「改革なき変化」があったといいます。

 そして、日本では公務員の定数に対する「総量規制方式」が採用されているために、課の新設には別組織の廃止を伴うというスクラップ・ビルドの原則も生まれました。

 官僚の採用は絞り込まれたことで組織の高齢化も進みます。組織の高齢化は昇任圧力を生み、審議官などの統括整理職が増えることとなりました。

 

 このように課についてはスクラップ・ビルドが行われましたが、一方で課の上にある局については安定していました。

 そして増加したのが室です。室は課の下につくられますが、1989年に235室だった省令室は2018年には575室と約2.5倍増加しています(59p)。これは新たな行政需要に対して課を新設することが難しいので、課の資源を分割して室をつくることでこれに対応しようとしたと思われます。 

 

 この室の増加などに見られる意思決定の分散化は政策調整の必要性を増します。この「分散化」がタイトルにある「分散化時代」の「分散化」になります。

 一方で、省庁の高齢化と管理職の増加は調整を行える人材を生み出しているとも言えます。

 

 では、この分散化時代につくられた内閣府はいかなる存在なのかというのが第3章と第4章の議論です。

 橋本行革以前、省庁をまたがる政策調整にあたったのが経済企画庁科学技術庁国土庁総務庁などの大臣庁や総理府などでした。特に総務庁は青少年対策、北方領土対策、交通安全対策、同和事業など雑多な調整案件を担当しており、総合調整を担う組織でした。

 

 橋本行革ではこの調整機能をどうするかが課題となりましたが、ここで1つの論点となったのが省庁再編によって誕生する巨大省庁に対して、それに対抗する強力な政府中枢が必要だという考えです。分権的な日本の行政機構において省庁再編はその分権性をさらに促進するとの危惧もあったのです。

 また、男女共同参画や防災などの総合調整が必要な案件も内閣府が担当する方向で議論が進みました。

 

 ただし、パワフルな巨大省庁の誕生という予測に関してはやや外れた面もあります。この時期には先述の分散化がすでに進行しており、省庁は少ない資源をさまざまな行政需要になんとか振り分けているような状況だったからです。

 

 実際に内閣府がスタートすると、まずは小泉政権下で経済財政諮問会議が存在感を見せました。この場で積極的に発言することで経済政策において小泉首相がリーダーシップを発揮する構造が見られましたが、2005年の郵政選挙以降はその存在感を低下させ、第2次安倍政権以降でもそれほど大きな存在感を見せているとは言えません。

 

 内閣府の人員は増加しています。2001年度に内閣官房515人、内閣府2210人の計2725人ですが、19年度には計3638人と33%伸びています(101p)。

 ただし、内閣府2210人の中には出先機関沖縄総合事務局の人員もカウントされていますし、人員の増加の理由には原子力防災担当の新設もあります。

 大臣官房の人数はほとんど変わっておらず(103p表4−2参照)、政府中枢が拡大しているとは言えないのです。

 

 内閣府の人員には各省庁からの出向者が多くいます。

 かつては、例えば経済企画庁の幹部ポストが大蔵省や通産省からの出向者によって占められており、それが総合調整を難しくしているとの議論がありました。

 内閣府では経済企画庁国土庁防災局などが再編され政策統括官組織がつくられますた。これは局や課よりも所掌事務の柔軟な配分を可能とするものです。

 そうした中で、科学技術的政策担当や共生社会政策担当などでは機能強化にともなって各省庁との間の組織ネットワークを強化する動きもあります。「政府中枢と省庁官僚制の境界が曖昧となり、相互に侵食しあう「融解」とでも呼ぶべき現象が生まれている」(126p)のです。

 

 内閣府誕生以降も、やはり一部の幹部ポストは出向者によって占められる傾向が見られますが、経済財政分担担当の政策統括官組織で自治省農水省出身者が登用されているなど、人事慣行については変わってきている面もあります。

 

 予算に関しては、補助金や委託金などのプログラム的予算が拡大しており、総合調整だけではなく、自ら政策実施に介入していくようになっていることがうかがえます。

 内閣府が司令塔で各省庁がその手足となっているという形にはなっていないのです。

 

 政策調整と言ってもその内実はさまざまですが、この構造については第5章で分析されています。

 著者がまず注目するのが共管法です。共管法は複数の主務大臣を擁するもので容器包装リサイクル法などがこれにあたります。

 また、食育基本法などに見られる、議員立法によってつくられた基本的な理念や推進体制について定めた法律も増加傾向にあります。

 さらに環境分野では環境政策以外の領域にも環境への配慮を要請するといったことが起きています。

 こうした動きは「主流化」という用語で他の分野でも見られるようになっており、例えば、あらゆる政策にジェンダーの視点を埋め込む「ジェンダー主流化」といったものもあります。

 

 このうち共管法ですが、共管法を所管する省としては農水省経産省国交省環境省が多く、内閣府が関与するものは限定的です。ここから見ると、必ずしも政府中枢に政策調整が集中しているわけではないことがわかります。

 一方、内閣府において存在感が増した分野は共生社会政策担当です。これには犯罪被害者対策や自殺対策、少子化対策、子どもの貧困、食育などが含まれます。

 これらの政策は一般的に政治家の関心が高いものであり、そのために首相の手元に集められたとも考えられますが、著者は「省庁官僚制の弱点を積極的に補ってきたと解釈できる」といいます。「繁忙の度合いを高める厚生労働省や、もともと政策管理能力の低い文部科学省に関連する政策調整を」内閣府が吸収したというわけです(180p)。

 

 第6章は「内閣官房と政策調整会議」という題で、さまざまな政策調整会議と内閣官房の役割やその変化が分析されています。

 第2次以降の安倍政権で目立ったのは、さまざまな会議の乱立と菅官房長官の存在感でしたが、その内実を教えてくれてもいます。

 中央省庁の再編時に想定されたのは内閣府特命担当大臣による府省間調整でした。ところが、実際には内閣官房による調整が行われています。これはなぜなのか? というわけです。

 

 政府入りした政治家が行政官や有識者とともに政策決定を行う場を政策会議と言います。この政策決定会議には儀礼的を含めてさまざまなレベルのものがありますが、本書では、その中でも「①内閣官房もしくは内閣府が庶務に関与する合議体であり、かつ②府省の代表として政治家もしくは官僚が関与するもの」(158p)を「政策調整会議」と定義して分析しています。

 

 本書ではこの政策調整会議について、首相を含む首相主導型、首相を含まず内閣官房長官を含む官房長官参加型、その他の閣僚級の人物が出席する閣僚委任型、それ以外の政治家が参加するその他の型に分けて分析しています。

 第1次安倍政権の2007年、第2次以降の2013年、2019年を比べると、政策調整会議はいずれの型も増加傾向で、さらに2013年と19年を比較すると官房長官参加型の増加が目立ちます(163p表6−1参照)。このあたりには菅官房長官の権力の増大がうかがえます。

 

 小泉政権では経済財政諮問会議が大きな役割を果たしたのに対して、第2次以降の安倍政権では政策調整会議が次々とつくられ、それが総合調整を行いましたが、この政策調整会議の濫造によって内閣府の存在感は低下したとも言えます。

 第2次以降の安倍政権における首相と官房長官の役割分担では、警察、外務、法務、国交の4省に関する政策調整の多くが官房長官に委ねられています。これは内閣府や共管法ではカバーできない部分の調整が官房長官のもとに回ってきていると考えられます。

 さらに政務の内閣官房副長官などを議長とする官房長官ラインの政策調整会議が局長級の官僚を束ねる政策調整の場となっており、ここにも官房長官の影響力の拡大がうかがえます。

 

 こうした分析を受けて、著者は第7章で次のように述べています。

 省庁再編時に予測された強力な大型官庁は、結局のところ姿を表すことはなかった。むしろ分権型組織管理の継続により府省横断的な資源配分が困難な状況で、省庁間のキャパシティー格差が大きく顕在化したのが21世紀の行政官僚制なのである。ここで「内閣府構想」のB面とでも呼ぶべき、旧総理府総務庁系を継承した「その他調整」の共生社会政策への発展は大きな意義を持つ。「警察、司法行政と連絡調整」に関する経験を軸としつつ相対的に政策調整能力が低下した省庁の限界を補完することで、重要政策会議や御三家型ネットワークでは対応しきれないタイプの行政需要を吸収することを可能にしたからである。(182p)

 

 これだとわかりにくいかもしれませんが、もともと定員を抑えられたことと組織の高齢化で数少ない資源を室に分散させてなんとか新たな行政需要に対応していた省庁は、省庁再編によっても大きな資源を手にできたわけではなく、特に他省庁とのネットワークを持たずに(この御三家は146pの農水・国交・経産の「新御三家」とイコールでいいのかな?)巨大な仕事を抱えた厚労省や調整下手の文科省などは新たな行政需要に対応する能力を失っていってしまった。だから、それらの官庁に代わって調整を引き受ける内閣府の役割が増大したのだ、という感じでしょうか。

 

 このように本書は、「首相権力の強化のために内閣府もその規模を拡大し、いわゆる「官邸官僚」が跋扈するよいうになった」というイメージを修正しています。

 もちろん政治主導という「上からの要因」もあるのですが、資源が限られる中で省庁が政策調整のために内閣府を頼り、それが内閣府の規模拡大につながっているという「下からの要因」もあるのです。

 

 そんなにわかりやすい叙述ではないですし、何よりもとり上げられていることはマニアックなのですが、「安倍一強」「官邸一強」などと呼ばれた政治の内実や、「ポスト安倍・菅政権」を考える上でもさまざまな示唆を与えてくれる本となっています。