Kendrick Lamar / Mr. Morale & The Big Steppers

 Kendrick Lamarの5年ぶりのニューアルバム。「ザ・ビッグ・ステッパー」と「ミスター・モーラール」というタイトルの2枚組の構成という形になっています。 「DAMN.」がアルバム全体を通じてやや重苦しいムードがあったのに対して、今作はトラックもバラエティに富んでいますし、生の楽器を多用したトラックもいいと思います。相変わらず、Kendrick Lamarのラップもキレがあります。

 前半だと5曲目の"Father Time (feat. Sampha)"のラップはいいと思いますし、ほぼ放送禁止用語のみで男女の罵り合いが繰り広げられる"We Cry Together"もインパクトがありますね。

 

 後半は、暗めのピアノのトラックにどこか寂しさも漂うラップが乗っかる"Crown"、ダーク感じで押し通すかと思いきや、どこか高揚感も感じさせるような"Savior"がいいですね。

 

 さすがの出来ではあるのですは、個人的には「DAMN.」に比べると良いけど、「To Pimp A Butterfly」に比べるとインパクトは弱いといった感じでしょうか。まあ、歌詞がきちんと聞き取れるような英語力がないので、歌詞を含めてきちんと聞いている人だと、また評価は変わってくるのかもしれません。

 


www.youtube.com

 

 

郝景芳『流浪蒼穹』

 短編「折りたたみ北京」や長編の『1984年に生まれて』で知られる郝景芳のデビュー作にして、本格的な火星SFとなっています。

 裏表紙に書かれた紹介は次のようになっています。

 

22世紀、地球とその開発基地があった火星のあいだで独立戦争が起き、そして火星の独立で終結した。火星暦35年、友好のために、火星の少年少女たちが使節「水星団」として地球に送られる。彼らは地球での5年にわたる華やかで享楽的な日々を経て、厳粛でひそやかな火星へと帰還するが、どちらの星にも馴染めず、アイデンティティを見いだせずにいた。なかでも火星の総督ハンスを祖父に持つ“火星のプリンセス"ロレインは、その出自ゆえに苦悩していた……。ケン・リュウ激賞、短篇「折りたたみ北京」で2016年ヒューゴー賞を受賞した著者が贈る、繊細な感情が美しい筆致で描かれる火星SF。

 

 主人公のロレインは火星に育ち、地球で5年間を過ごして火星に戻ってくるのですが、この小説が描くのは地球と火星という2つの世界の間で引き裂かれる若者たちの姿です。

 

 火星の社会はある意味で「健全」です。多くの人から推された総督のもとで厳しい火星の環境で生き残るためにガラスを使った都市が建設され、人々は「スタジオ」と呼ばれる組織に属して働いています。

 人々は強く管理されていますが、火星で生き残るために必要なことだと考えられていますし、何よりもそうした合理的なしくみが大きな科学技術の進歩を生み、地球を上回るテクノロジーをもっています。

 若者は「コンテスト」と呼ばれる、自らのアイディアを披露する機会に優秀な成績をおさめて、よりよい「スタジオ」で働くことを夢見ています。

 

 一方、地球には自由がありますが、それはコマーシャリズムに汚染された自由であり、金がものを言う世界です。

 人々は社会全体のことよりも、金儲けのことを考えており、科学技術では火星に遅れを取っています。

 

 火星の管理社会の様子だけを見ると、この小説はディストピア小説なのですが、単純にそうならないのは、主人公のロレインは火星の素晴らしい点も、地球のダメなところも受け止めている点です。

 ロレインにとって火星は故郷であり、誇るべきものをもった場所なのですが、地球の自由を知ってしまったあとでは、やはり何かがおかしい社会でもあります。

 地球にいった「水星団」のメンバーの中には、「火星のやり方は間違っている」と断じるものも出てくるのですが、ロレインはそこまでは割り切れないながらも、火星のやり方に疑念を持ち始めます。

 

 ここで多くの人が、「火星=(理想的な)社会主義国会」、「地球=資本主義国家」という図式を思い浮かべると思います。

 これは間違いではなく、おそらく作者もそのようにイメージしながら書いているのでしょうが、ポイントはこの小説の主眼が2つの世界の優劣を示すことではなく、2つの世界を知ってしまった人間の寄る辺のなさを描こうとしている点です。

 この感覚は、おそらく欧米や日本に留学した中国人学生の一部などにも見られるものなのではないでしょうか?

 本書は、この感覚を非常に丁寧に描き出しています。

 

 小説としては、デビュー作ということもあって書きすぎな面もあります。2段組650ページ超というボリュームですが、おそらく100ページくらい減らしてもこの物語は描けたのではないかと思われます。

 ただし、たびたびカミュが引用されるような饒舌さこそが、若者の特徴だとも言えるわけで、著者としては必要な長さだったのでしょう。

 主人公たちとともに曲がりくねった道を行くというところに本書の面白さがあるのかもしれません。

 

 

リン・ハント『人権を創造する』

 タイトルからして面白そうだなと思っていた本ですが、今年になって11年ぶりに重版されたのを機に読んでみました。

 

 「人権」というのは、今生きている人間にとって欠かせないものだと認識されていながら、ある時代になるまでは影も形もなかったという不思議なものです。

 中学の公民や高校の政治経済の授業では、社会契約説の思想家たちの、「たとえ国家がなかったとしても、すべての人間には一定の権利・自然権があるはずでしょ」という考えが、「人権」という考えに発展し、アメリカ独立革命フランス革命で政府設立の目的の基礎として吸えられた、といった形で説明していますが、そもそも社会契約説が登場する前には「すべての人間には一定の権利があるはずでしょ」という議論は受け入れられなかったと思うのです。

 

 こうした謎に1つの答えを与えてくれるのが本書です。

 人権というと、どうしても法的な議論が思い起こされますが、本書が注目するのは「共感」という感情であり、18世紀に流行した書簡体小説です。

 人間が他者に共感し、その身体の不可侵性などを感じるようになったからこそ、「人権」という考えが成立し得たというのです。

 政治史→文化史という流れはよく見ますが、文化史→政治史という流れを指摘しつつ、その後の人権の発展にも目を配った面白い本です。

 

 目次は以下の通り。

序 章――「われわれはこれらの真理を自明なものと考える」
第一章 「感情の噴出」――小説を読むことと平等を想像すること
第二章 「彼らは同族なのだ」――拷問を廃止する
第三章 「彼らは偉大な手本をしめした」――権利を宣言する
第四章 「それはきりがありません」――人権宣言の結果
第五章 「人間性という柔らかい力」――なぜ人権は失敗したが,長い目で見れば成功したのか

付録 三つの宣言――一七七六年,一七八九年,一九四八年

 

 アメリカ独立宣言には、「われわれはこれらの真理を自明なものと考える。つまり、あらゆる人間は平等に創造されていること、彼らはその創造主によっていくつかの譲渡しえない権利をあたえられていること、そしてこれらの権利には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること、がそれである」とあります。

 しかし、この文章を書いたトマス・ジェファソンは奴隷の所有者ですし、同じように普遍的な人権をうたった人権宣言を出したフランスにおいても、女性の権利などは退けられました。

 

 今からだと普遍性をうたっていながら多くの問題を抱えていたということになりますが、逆に、それだけの偏見を抱えていながら、どうして「すべての人間の権利」といったことが言えたのか? という問いも出てきます。

 そして、この一見するとちぐはぐな様子の中に、著者は感情のはたらきを見るのです。

 

 ルソーと言えば『社会契約論』の著者であり、フランス革命にも影響を与えたことで有名ですが、『社会契約論』を出す前年に『ジュリまたは新エロイーズ』というベストセラー小説を出しています。

 この小説はジュリという貴族の女性の主人公が平民出の男との恋をあきらめ、父の意向に従って年長の男と結婚し、かつての恋人と再開して愛を誓うが不幸にしていなくなってしまうという話で、これを書簡体小説という形式で書き上げています。

 いわゆる身分によって引き裂かれる恋人を描いたものであり、ありきたりのストーリーにも思えますが、当時はこれが人々の間に猛烈な感情を呼び起こしました。

 人々は主人公のジュリに共感し、自らの感情をジュリに重ね合わせたのです。

 

 このスタイルはルソーの独創ではなく、サミュエル・リチャードソンによる『パミラ』、『クラリッサ』という先行作がありました。

 『パミラ』も『クラリッサ』も女性が主人公であり、その女性たちが望まない結婚を強いられそうになったり、貞操の危機に陥ったり、悲劇的な最期を遂げたりします。

 この女性主人公たちに男性を含めた多くの人々が感情移入し、女性主人公との一体感をいだきました。

 主人公の内面を吐露する書簡体小説というスタイルが、当時の人々に今までにはなかったような感情をもたらしたのです。

 

 これらの作品はすべて若い女性が主人公で、現在から見ると古臭い話にも思えますが、当時の「男女の読者はともに、女性たちがそれだけの意志、それだけの個性をみせたがゆえに、これらの登場人物と自分を同一視した」(54p)と言います。「彼らが、彼女たちのように、その悲劇的な死にもかかわらずクラリッサやジュリのようにさえ、なりたかった」(54p)のです。

 こうした小説を通じて、人々はあらゆる人間は(女性でさえも)、自律を望んでいることを知ったのです。

 

 奴隷制廃止論者もこうした動きを利用しようとし、「解放された奴隷に、ときとして虚構もまじえた小説的な自伝を書き、芽生えつつある奴隷制廃止運動への支持者を獲得するように勧めた」(62p)のです。

 

 1762年、ルソーが『社会契約論』を出版した年にカラス事件が起きています。

 これはジャン・カラスという64歳のプロテスタントが息子をカトリックに改宗させないために殺害したとして処刑された事件で、ヴォルテールがこの事件に疑問を持ったこともあって冤罪事件だったことが明らかになりました。

 ヴォルテールは当初、宗教的な偏狭さを「人権」という言葉を用いて批判しましたが、さらに共犯者を自白させるために当たり前のように行われていた拷問をはじめとする司法手続きに疑問を持ち、拷問の廃止を主張していくことになります。

 

 18世紀になるまで、死刑は見世物として行われていましたし、鞭打ちや焼きごて、八つ裂きや火刑といった刑罰も当たり前のように行われていました。刑罰の中心は人前での加虐であり、より重大な犯罪にはより残虐な刑が加えられるのが当たり前でした。

 

 ところが、18世紀後半になると拷問や残虐な刑罰を問題視する動きが起こります。

 きっかけの1つは1764年に刊行されたチェーザレ・ベッカリーアによる『犯罪と刑罰』で、ベッカリーアは拷問や残虐な刑罰だけではなく死刑そのものにも反対しました。

 それまで拷問や残虐な刑罰に疑問をいだいていなかった人々も、2,30年ほどでこうした行為を間違ったものだと考えるようになっていきます。

 「身体は、18世紀をとおしてより独立し、より自制的になり、より個性化するにつれて、より積極的な勝を獲得し」(80p)、身体の侵害に対して否定的な反応を引き起こすようになったのです。

 

 同じ頃、舞台では1回立ち見席がなくなって座席が設置されるようになり、フランスの住宅においては個人が「寝室」を持つようになりました。肖像画も大量に書かれるようになるなど、「個人」やそのスペースを尊重するような動きが起こっていきました。

 

 こうした中で苦痛を公開の見世物とすることは急速に支持を失います。

 「伝統的な理解においては、身体の苦痛は個々の囚人に全面的に帰属するものではなかった。それらの苦痛は、共同体の救済というより高次の宗教的・政治的目的をもっていた」(93p)はずなのですが、苦痛は個人のものとされ、そして人々はそれを嫌悪し始めるのです。拷問についても同じです。

 

 こうした他者への「共感」が人権の誕生を用意するわけですが、その人権は「宣言」という形をとることになります。権利が「人間自身の本性から生じたのだということを、後世の人びとに向けて文書化」(118p)する必要があったのです。

 

 アメリカにおいてはイギリスからの独立が普遍的な権利を要請しました。

 当時の人の多くはイギリス人の歴史的に基礎づけられた個別的な権利について議論していましたが、独立をするとなればそのイギリスから切り離されることになります。一種の「自然状態」になるわけであり、人々はホッブズやロックのいう普遍的な権利に注目することとなったのです。

 そしてヴァージニア権利章典で書き込まれた人々の普遍的な権利と、具体的にあげられた自由(出版の自由や宗教上の違憲の自由など)が、独立宣言や合衆国憲法へとつながっていくのです。

 そして、アメリカの動きはイギリスにも影響を与え、イギリスでも普遍的な権利が議論されるようになりました。 

 

 フランスでは、1614年以来となる三部会の招集をきっかけに革命が起こるのですが、この招集のきっかけはアメリカ独立戦争にフランス側が植民地側に立って参戦したことによる財政の悪化でした。

 フランスでは革命の進行とともに普遍的な権利を宣言する動きが起き、それはあっという間に人権宣言へと結実します。この宣言では、特定の集団を明記せずに、「人間」「各人」「あらゆる市民」といった言葉で普遍的な権利を位置づけました。

 

 起草者たちは想定していなかったことかもしれませんが、これが奴隷や女性といったそれまで政治的な地位を持っていなかった人々の権利の問題を呼び起こします。

 そして、エドマンド・バークの激ししい批判を呼び起こしながらも、「人間の権利」という言葉はヨーロッパに広がっていくことになりました。

 

 そして、「あらゆる市民」の範囲は拡大していきます。フランスでは、まずは「非カトリック」の権利が問題になり、さらにユダヤ人の権利が問題になります。

 フランスでは投票資格として、「当地の3日分の労賃に等しい直接税を払っていること」、「召使いでないこと」などを規定しましたが(156p)、女性と奴隷を除外することは前提でした。 

 

 1790年の3月、フランスの議員たちは植民地を人権宣言から切り離すことを決めますが、ハイチの白人農園主から代表者を出す要求がなされ、さらにハイチの自由黒人やムラートも声を上げます。

 結局、有色自由人の権利を認める方向に動いていくのですが、そうなると今度は奴隷制の廃止が議論にのぼるようになります。植民地での反乱もあり、1794年にはフランスは全植民地で奴隷を廃止することとしました。

 ナポレオンによって植民地の奴隷制は復活しますが、それでも「人間の権利」という考えは奴隷制の維持を難しくしたのです。

 

 こうした中でも女性の政治的権利について気にかけた者は少数でしたが、それでも1792年に離婚の権利が認められ(ただし1816年に復活した王政がこの権利を廃棄)、財産の相続権も獲得します。

 女性の政治参加が認められなかったのは、女性が「フランス革命以前には明白に独立した政治的カテゴリーを構成していなかった」(180p)からです。 

 女性は夫である男性を通じて意思が表示されると考えられており、わずかな議員が財産を持つ未亡人に投票権を与えても良いと考えていただけでした。

 オランプ・ドゥ・グージュは『女性の権利の宣言』を書きましたが、彼女は「自然に反する存在」(男のような女」)としてギロチンにかけられ」(183p)ています。

 

 その後の人権は順調に発展したとは言えませんでした。

 ナポレオンは征服地で宗教的少数派の権利を擁護しましたが、フランスでは言論の自由を制限しましたし、自由を求めた植民地の人々を弾圧しました。

 ナポレオンは各国のナショナリズムを活性化させ、「民族」という言葉が政治的に重要な意味を持ったことで少数派の民族の権利が制限されるようになりました。

 

 人権の前提として人間の同一性がありますが、「男が女にたいして、白人が黒人にたいして、あるいはキリスト教徒がユダヤ教徒にたいして自分たちの優越性を維持しようとするなら、差別はより堅固な根拠をもたなければ」(201p)なりませんでした。

 そこでより悪質な性差別や人種主義、反ユダヤ主義も登場することになったのです。

 

 19世紀には社会主義も盛り上がりを見せましたが、社会主義者の多くは人権に懐疑的でした。

 カール・マルクスは、人間に必要なのは宗教からの自由なのに人間の権利は宗教的な自由を保障し、財産からの自由が必要なのに自分の財産への権利を承認したというのです。

 社会民主主義者は人権を重要視しましたが、革命を目指す人々は人権をブルジョア国家の道具と見ていました。

 

 人権が再び脚光を浴びるのは、2つの世界大戦後、特に第二次世界大戦後です。ユダヤ人の虐殺を含む多くの蛮行は、多くの人々の衝撃を与え、できたばかりの国連憲章にも人権が書き込まれることになりました。

 大国からの抵抗はありましたが、ラテンアメリカやアジアの国々の要求やアメリカ国内のさまざまな団体からの声もあり、1948年には世界人権宣言が承認されました。

 世界人権宣言が出されたからといって世界中で人権が守られるようになったわけではありませんが、こうした宣言は「「もはや容認できない」ものの感覚を引き出し、それがまた違反をいっそう容認できないものとするのに寄与した」(231p)のです。

 

 このように、本書は18世紀に人権がいかに誕生し、そしてそれがどのように定着した(あるいは定着しつつある)のかを論じています。

 インパクトがあるのは、人権が書簡体小説などを読んだ人々の「共感」から生まれたという部分だとは思いますが、その後の展開もフォローしてあり、法学的ではない人権論としても非常に面白いと思います。

 

 政治哲学などの議論ですと、どうしても何らかの堅固な基礎の上に「権利」や「正義」といったものが構築されていくわけですが、本書はそれとは一味違った「正義」の道筋を示しているようにも思えます。

 

 

 

 

『シン・ウルトラマン』

 いろいろと賛否両論あるみたいですが、個人的には面白かったです。

 なんといっても山本耕史メフィラス星人は最高ではないですか。ここ最近の実写のキャラの中ではピカイチと言ってもいいくらいで、「私の好きな言葉です」のセリフといい、このキャスティングといい、これだけで本作は成功したと言い切れるのではないかというレベル。

 主人公の神永=ウルトラマンを演じる斎藤工も宇宙人っぽさが出ていてよかったと思いますが、映画開始後すぐにウルトラマンと融合し、その後は宇宙人っぽく行動するために、歴代ウルトラマンの主人公的なヒーローっぽさはないですね。

 賛否のある長澤まさみの描き方ですが、これは完全にミサトさん的なキャラで、アニメでそれなりの尺をつかって造形したミサトさんという人物を、実写の2時間位でつくり上げようとしたところにやや無理が生じたのかな、とは思いました。個人的にはそんなに気になるレベルではありませんでしたが。

 

 実は初代のウルトラマンは全部ちゃんと見たことがなく(セブンや「帰ってきた」やエースやタロウ、レオは小学生時代に再放送で見てて、特に「帰ってきた」とエースは熱心に見たけど、初代は小学校時代に再放送していなかった)、どのくらいTVシリーズをなぞっているのかはわからないのですが、怪獣(本作では「禍威獣」)中心ではなく。宇宙人(外星人)中心に上手くストーリーをまとめていると思います。

 バルタン星人とかレッドキングとかゴモラとか、おなじみの面々は出ないのですが、やはりメフィラス星人が効いています。

 

 そして、あんまり書くとネタバレになりますが、少し劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林』を思い出させるところがありますね。

 ウルトラマンに登場する宇宙人たちの多くがなぜ敵対的なのか? という問いに対して、『三体Ⅱ』の「暗黒森林理論」は1つの答えになりうるものです。

 

 『シン・ゴジラ』からの流れとしては、当然政治への言及も期待されるわけで、いまいちポジションははっきりしないものの政府の重要人物として竹野内豊が出てきたりもするのですが、『シン・ゴジラ』における虚構は基本的にゴジラだけだったのに対して、今作では禍威獣、外星人、ウルトラマンといった形で虚構が多いですし、科特隊(本作では禍特対)も巨災対よりも虚構性の強い組織なので、『シン・ゴジラ』ほどの政治ドラマ的な面白さはないですね。

 また、ラストに関してもヤシオリ作戦ほどのビジュアル的なインパクトは用意できなかったので、そこは弱いかなと思います。

 

 でも、『シン・ゴジラ』における長谷川博己石原さとみの関係性よりは、今作の斎藤工長澤まさみの関係性のほうがきちんとしているので、人間ドラマとしての良さはあると思います。

 あと、禍特対の室長を演じた田中哲司、担当大臣を演じた岩松了もいいですね。班長西島秀俊も含めて、このあたりの上司たちの人間っぽさもまた、山本耕史斎藤工の宇宙人っぽさを引き立てていてよかったと思います。

 

Fontaines D.C. / Skinty Fia

 アイルランド・ダブリン出身のバンドの3rdアルバム。ジャンルとしてはポスト・パンクで、前作の「A Hero's Death」から聞き始めてます。

 とにかく非常に雰囲気の良いバンドだと思ったのだけど、この手のバンドの難しさは雰囲気の良さで押せるのは最初だけで、キャリアを積むに連れ迷走が始まってしまうことが多い点。

 

 ところが、今作は今までの雰囲気の良さは維持しつつ、初期衝動の余力みたいのではない音楽的な進化もあります。

 アルバムの構成も巧みで、1曲目の"In ár gCroíthe go deo"で勢いよく始まって、2曲目の"Big Shot"はダークで落ち着いた感じと緩急がついている。3曲目の"How Cold Love Is"も目新しいわけでないけど、耳に残るメロディを印象深く聴かせて、4曲目の"Jackie Down the Line"は同じく耳に残るメロディを今度はやや軽い感じで聴かせてくる。

 メロディ自体が良いのですが、それ以上にその聴かせ方が上手いバンドだと思います。やや箸休め的な感じの7曲目の"The Couple Across the Way"もなんてことのないメロディをボーカルが歌っているのですが、これもなかなか良いです。

 

 そして、後半の"Skinty Fia"〜"I Love You"とつづくダークなボーカルも印象的。特に"I

Love You"のラップ的なボーカルはいいですね。

 最後の"Nabokov"は歪んだギターが印象的な曲でアルバムの終わり方としてもセンスのある終わり方だと思います。

 3rdでこの感じなら、今後も長く期待できるバンドかもしれません。

 

 


www.youtube.com

 

『RE:cycle of the PENGUINDRUM [前編] 君の列車は生存戦略』

 昨年、放送から10周年を迎えたTVアニメ「輪るピングドラム」の劇場版。

 子ども姿で記憶をなくしている冠葉と晶馬が池袋のサンシャイン水族館で不思議な赤ちゃんペンギンに出会うところから映画はスタートします。TV版の最終回で冠葉と晶馬は子どもの姿になっていたので、TV版が終わったあとの話ということなのでしょう。

 ペンギンに導かれるように冠葉と晶馬はペンギンの帽子をかぶった桃果に出会い、そこで自分たちの過去が書かれた本を読むことになります。

 

 この導入部はもちろん新しく撮られた部分ですが、その後は基本的にはTV版の総集編となります。

 ただ、TV版を見たのが10年以上前に1度きりという状況なので、かなり忘れているんですよね。見ながら思い出していくわけですが、見ている先のストーリーというのは全然思い出せず、それもあって新鮮な気持ちで楽しめました。

 だから、ストーリー上のTV版との異同というものは正直なところよくわかりませんでした。

 

 もともと幾原邦彦の作品のストーリーというのは思い出しにくいもので、同じく10年以上前に1度だけ見た「魔法少女まどか☆マギカ」のストーリーはけっこう鮮明に覚えているのに、「輪るピングドラム」は覚えてない。でも、どちらが好きかと聞かれれば「ピングドラム」なんですよね。

 幾原作品は、ケレン味のあるシーンやキャラを必然性を持ってつないでいくというところに特徴があって、文字にしてみるとけっこう無理があるような話でも、映像にするとそこに必然性を見てしまうというところがあります。

 

 また、「一方的な想い」というのも幾原作品の特徴で、AがBを想っているが、BはCを想っている的な形がよく見られますが、個人的にはこのあたりが今回の劇場版でどのようになっていくかが注目ではないかと思います。

 今回の前編では、荻野目苹果(りんご)の話を丁寧に拾っていたと思います。とりあえずは苹果→多蕗(たぶき)という「一方的な想い」が中心になりますが、晶馬に対する隠された気持ちというのも丁寧に拾われていて、ひょっとしたら晶馬と苹果を使って「一方的な想い」ではない関係を後半で描くのかな?とも思いました。

 

 というわけで後編を見てみないと、この劇場版のたくらみと、それが成功したのかどうかはわからないですが、やはりキャラデザと音楽はいいですし、「生存戦略!」のシーンは大スクリーンになってもすべてを持っていくパワーがあります。

 満足しつつ、後編を待つという感じですね。

 

オリヴィエ・ブランシャール/ダニ・ロドリック編『格差と闘え』

 2019年10月にピーターソン国債経済研究所で格差をテーマとして開かれた大規模なカンファレンスをもとにした本。目次を見ていただければわかりますが、とにかく豪華な執筆陣でして、編者以外にも、マンキュー、サマーズ、アセモグルといった有名どころに、ピケティと共同研究を行ってきたサエズやズックマンといった人々もいます。

 

 そして、時代が変わったなと思うのは、「格差は是か非か」「政府の介入は是か非か」という原則論が戦わされているわけではなく、格差の是正の必要性重、政府の介入の必要性を認識を共有しつつ、「では、どのような原因があり、どのような政策対応が可能なのか?」といった点で議論が進んでいる点です。

 例えば、サマーズとサエズの論説は対立していますが、それは資産税という方法の是非をめぐるもので、政府の介入の是非をめぐるものではありません。

 「格差の是正策として、労働市場規制緩和社会福祉の削減によって市場の自由に任せよ、と提案した人は1人もいなかった」(xii p)とあるように、一定のコンセンサスの上に立っており、その分中身のある議論になっています。

 

 目次は以下の通り。

 

序章 格差拡大を逆転させる手段はある(オリヴィエ・ブランシャール&ダニ・ロドリック)

 第Ⅰ部 状況の展望
第1章 先進国の格差をめぐる10の事実(ルカ・シャンセル)
第2章 状況についての議論(ピーター・ダイアモンド)

 第Ⅱ部 倫理と哲学の元
第3章 経済理論に新たな哲学的基盤が求められる時代か?(ダニエル・アレン)
第4章 経済学者が対処すべきはどんな格差か?(フィリップ・ヴァン・パリース)
第5章 なぜ格差が問題なのか?(T・M・スキャンロン)

 第Ⅲ部 政治の次元
第6章 資産格差と政治(ベン・アンセル)
第7章 格差への対処に必要な政治的条件(シェリ・バーマン)
第8章 アメリカで経済格差に取り組む際の政治的な障害(ノーラン・マッカーティ)

 第Ⅳ部 人的資本の分配
第9章 現代のセーフティーネットジェシー・ロススタイン、ローレンス・F・カッツ、マイケル・スタインズ)
第10章 教育の未開拓の可能性(ターマン・シャンムガラトナム)

 第Ⅴ部 貿易、アウトソーシング、海外投資に対する政策
第11章 なぜ「チャイナショック」は衝撃だったのか、政策にとって何を意味するのか (デヴィッド・オーター)
第12章 貿易、労働市場、チャイナショック――ドイツの経験から何が学べるか(クリスチャン・ダストマン)
第13章 格差との戦い――先進国の格差縮小政策を再考する(キャロライン・フロイント)

 第Ⅵ部 金融資本の(再)分配
第14章 (するべきなら)富裕層に増税する方法(N・グリゴリー・マンキュー)
第15章 資産税は格差との戦いに役立つか?(ローレンス・H・サマーズ)
第16章 資産に税を課すべきか?(エマニュエル・サエズ)

 第Ⅶ部 技術変化のスピードと方向性に影響を与える政策
第17章 (過度な)自動化を後戻りさせられるか、させるべきか(ダロン・アセモグル)
第18章 イノベーションと格差(フィリップ・アギオン
第19章 技術変化、所得格差、優良な仕事(ローラ・ダンドレア・タイソン)

 第Ⅷ部 労働市場についての政策、制度、社会規範
第20章 ジェンダー格差(マリアンヌ・ベルトラン)
第21章 所有権による格差の解消策(リチャード・B・フリーマン)

 第Ⅸ部 労働市場ツール
第22章 万人への雇用保障(ウィリアム・ダリティ・ジュニア)
第23章 仕事を底上げする(デビット・T・エルウッド)
第24章 労働市場における効果的な政策手段を設計する際の法的執行力の重要性(ハイディ・シアホルツ)

 第Ⅹ部 社会的セーフティネット
第25章 社会的セーフティネットの向上を基盤にミクロとマクロのレジリエンスを高める (ジェイソン・ファーマン)
第26章 子供のいる世帯向けの社会的セーフティネット――何が有効か、さらに効果を上げるにはどうするか?(ヒラリー・ホインズ)

 第Ⅺ部 累進税制
第27章 再分配政策を支援する税制についての考察(ヴォイチェフ・コプチュク)
第28章 私たちはなぜ再分配の増加を支持しないのか?――経済学的調査からの新しい説明(ステファニー・スタンチェヴァ)
第29章 資産税に効果はあるか?(ガブリエル・ズックマン)

『格差と闘え』解説(吉原直毅)

 

 たくさんの章があるの、ここではいくつか面白かった章の紹介に留めますが、まずは第1章の「先進国の格差をめぐる10の事実」(ルカ・シャンセル)が、格差の現状についてまとめています。

 

 最初に指摘されているのが格差を捉えることの難しさです。ピケティは税のデータをもとにして格差の動きを追いましたが、税法は国ごとに異なり、時とともに変更されるために国や時代を横断した比較は難しくなっています。そしてもちろん、脱税の問題もあります。

 それでも20世紀のはじめから1980年代まで縮小傾向にあった格差が、それ以降は国ごとの差はあっても基本的は拡大してきたことは確認できます(7p図1.1参照)。

 地域差で言えば、EU圏に比べてアメリカでの下位50%の所得の低迷ぶりが際立っています(8p図1.2参照)。

 

 富裕国での経済成長は続いていますが、90年頃から公的資本の価値は減少しつつあります(10p図1.3参照)。

 国内では富裕層に富が集中しつつありますが、特にアメリカでは上位0.1%への集中が大きく、1979年に7%だった彼らの資産シェアは現在は約20%に拡大しています。

 一方、アメリカでは下位90%の資産シェアが低下しましたが、これは下位90%の貯蓄率が1970代から2010年代にかけて10%から0%になったからです。

 

 国内の格差よりも国同士の格差のほうが問題だという見方もありますが、近年は国内の格差が大きな影響力を持ちつつあります(16p図1.5参照)。

 また、格差の大きさは社会移動の少なさと相関しており、アメリカでは過去20年にわたってこの社会移動が低水準にあると言います(18p図1.6参照)。

 ジェンダー間の格差は、男女の税引前所得比で1960年代の350%超から2014年には180%と大きく改善しましたが、それでも差があるのが現状です。

 人種による格差も改善しましたが依然として残っていますし、資産格差については拡大の傾向が見られます。

 

 格差の拡大を防ぐ方法としては課税が注目されますが、アメリカとヨーロッパを比較すると、ヨーロッパの下位層のほうが早く所得増を達成できたのは、課税による再分配ではなく、高等教育へのアクセスや職業訓練の違いの影響が大きかったと分析されています。また、保健医療制度や労働市場の違いも影響を与えています。 

 

 次に第6章「資産格差と政治」(ベン・アンセル)をとり上げます。

 経済格差が政治の分極化を進めるといいますが、本章では資産格差、特に住宅価格に注目しながらそれを論じています。

 1990年代以降、先進国では前例のない規模で住宅価格が上昇しました。この影響もあって「住宅を保有していたか/していなかったか」で大きな資産価格が生まれたはずです。

 住宅保有者は、これに伴って固定資産税や相続税の減税を望むようになったり、社会保障政策への支持を弱めるかもしれません、

 

 実際、イギリスでのパネル調査によると、住宅価格の10万ポンドの上昇は完全雇用政策への支持を約10%低下させたといいますし、アメリカの調査でも住宅価格の上昇がソーシャルセキュリティ支出への支持を低下させているそうです(74p)。

 ただし、同時にこの効果は中道右派有権者に偏っており、左派の有権者は住宅資産に関係なく再分配に好意的です。

 

 さらに住宅価格の低下はポピュリズム支持と強い相関があるといいます。ブレグジットを問う住民投票において、イングランドウェールズの各地域の住宅価格と残留支持の割合はかなりきれいに相関しています(77p図6.1参照)。

 こうした傾向はデンマークにおける、デンマーク国民党(DPP)支持との関係にも見られます。住宅価格が上がると、ポピュリズム政党とされるDPPへの支持が下がるのです。

 本章はこのように非常に興味深い材料を提供しています。

 

 第10章「教育の未開拓の可能性」(ターマン・シャンムガラトナム)では、教育の問題がとり上げられていますが、国全体の教育のパフォーマンスを高めるには、うまく機能している公立学校のシステムがあり、教師の質と適正なカリキュラム基準を確保するために政府が大きな役割を果たしているという指摘は興味深いです。

 スウェーデンでは1992年に教育制度の分権化し、学校運営を民間セクターに移管する決定をしました。全国バウチャーシステムによる学校間の競争と親の選択により教育水準が上がると期待されましたが、2000年から2012年の間にスウェーデンではPISA参加国のどこよりも成績が急降下しました。

 著者は「公立校の運営は個別ではなくシステムとして行うという考えを、私たちはおろそかにしてはならない」(109p)と述べています。

 また、高等教育を学問志向から実学志向へと転換することも主張しています。

 

 第11章「なぜ「チャイナショック」は衝撃だったのか、政策にとって何を意味するのか」(デヴィッド・オーター)は、タイトルからもわかるように、アメリカにおける「チャイナショック」を分析したものです。

 アメリカでは製造業の雇用は第2次世界大戦以来、一貫して減少してきたと思われていますが、これは雇用シェアと製造業の労働者数を混同した議論だといいます。アメリカの製造業の雇用者数は1945年後半の1250万人から1979年後半には1930万人まで増え、80年代から減少に転じ、1999年までに200万人縮小しました。

 ただし、2000年までは、労働組合が弱く教育水準が引く地域では比較優位を生かして労働集約的な製造業が生き残っていました。

 

 しかし、2000年(中国のWTO加盟)〜07年にかけて製造業で雇用されていた非大卒成人は大幅に減少し、労働集約的な製造業が強かった地域が大きな影響を受けました。

 その結果、非大卒の賃金は低迷し、それまでつづいていた地域間格差の収斂の動きも止まってしまったといいます。

 

 一方、ドイツでは製造している製品の違い、労使関係や職業教育制度の違いなどもあってアメリカのようなチャイナショックが起きなかったことが、第12章「貿易、労働市場、チャイナショック――ドイツの経験から何が学べるか」(クリスチャン・ダストマン)で指摘されています。

 

 第13章「格差との戦い――先進国の格差縮小政策を再考する」(キャロライン・フロイント)では、チャイナショックにうまく適応できた国としてドイツと日本、適応できなかった国としてアメリカとイギリスが俎上に上がっています。

 ドイツや日本の特徴として、①貿易黒字を維持した、②特に数学と科学において中等教育の質が高かった、③労働者を構造変化に適用させやすくする放出弁が、雇用調整ないし地域雇用創造事業という形で備わっていた、という3点があげられています。

 日本は積極的な労働市場政策は十分ではないが、自治体が雇用創出に取り組む地域雇用創造事業がうまくいったという評価です。

 

 第14章「(するべきなら)富裕層に増税する方法」(N・グリゴリー・マンキュー)は、マンキューが登場ですが、「(するべきなら)」とあるように本人的には金持ちへの課税へ乗り気ではないのですが、「するべきなら」アンドリュー・アンの提唱する付加価値税+月1000ドルのベーシックインカムという政策に魅力を感じるとのことです。

 

 第15章「資産税は格差との戦いに役立つか?(ローレンス・H・サマーズ)」では、サマーズがサエズとズックマンの資産課税の提案に対して反対しています。

 サエズとズックマンはアメリカの税システムの累進性の低下と格差の拡大を誇張しており、資産税による税収も過大に見積もっていると言います。

 それよりも租税回避の穴を塞ぐことや、キャピタル・ゲイン税の改正、トランプ減税の廃止などをすべきだというのがサマーズの主張です。

 これに対して、次の16章ではサエズが資産課税について説明しています。

 

 第17章「(過度な)自動化を後戻りさせられるか、させるべきか」(ダロン・アセモグル)では、自動化について分析しています。

 今まで、基本的に自動化は生産性を上げる「良いもの」として捉えられてきました。自動化には「離職促進効果」がありますが、自動化は別のタスクを生む、より高い生産性をもった仕事を労働者に提供する「復職促進効果がはたらくと考えられていたからです。

 ところが、アセモグルらの研究では、1987年以降は離職が加速する一方で復職の効果が弱まったと言います。税政策で資本投資に補助金が出されていること、巨大なテック企業が自動化を強力に推進していること、政府の研究開発支援が弱まっていることなどを理由に、取り立てて生産性の向上をもたらさない過度の自動化が起きていた可能性があるというのです。

 

 第18章「イノベーションと格差」(フィリップ・アギオン)では、イノベーション(特許件数)が上位1%の所得シェアを引き上げるものの(186p図18.1参照)、ジニ係数は拡大させないことを示した上で(187p図18.2参照)、ロビイングも上位1%の所得シェアを引き上げることを指摘しています。

 巨大IT企業が引き起こしたイノベーションアメリカの総生産性を引き上げましたが、ロビイングや巨大IT企業が築いた参入障壁はかえって総生産性にブレーキをかけていると言います。

 

 第20章「ジェンダー格差」(マリアンヌ・ベルトラン)はタイトル通りに縮まってはきたもののまだ残るジェンダー格差について論じたものですが、女性が数学関連の分野に進まないのは数学分野が苦手だからではなく、言語の能力が高いからかもしれないという研究を紹介したあとの次の文章はいろいろと考えさせられる。

 ブレダとナップ(Breda and Napp 2019)は、数学の勉強を志すかどうかの男女差は、若者が特定の分野で成功するために必要な能力が自分にあるかどうかより、好きかどうかで進学先と職業を決めているという事実によって主に説明できることを示している。もしこれが正しいなら、若い女性(と男性)が進学先について後戻りしにくい決断をする前に、教育の選択が所得と職業に影響するという広い視野を持たせるため、高校での教育とキャリアカウンセリングの役割が重要ということだ。(211p)

 

 第24章「労働市場における効果的な政策手段を設計する際の法的執行力の重要性」(ハイディ・シアホルツ)がとり上げるのは、最低賃金以下の時給、労働時間外の労働、違法な天引き、チップの召し上げなどの「給料窃盗」の問題です。

 本章によると、アメリカではこれらの給料窃盗を合計すると低賃金労働者は年間およそ500億ドルを失っていると言います。一方、強盗、侵入強盗、窃盗、車上荒らしによる総被害額は年間130億ドルです(246p)。

 このような給料窃盗が放置されているのは、労働組合が弱体化したり、アウトソーシングが進んだりしているからですが、これを政府の力によって正していくべきだというのが著者の主張です。

 

 第28章「私たちはなぜ再分配の増加を支持しないのか?――経済学的調査からの新しい説明」(ステファニー・スタンチェヴァ)では、格差が拡大しているのにアメリカでは再分配政策が支持されないのはなぜかということがとり上げられています。

 問題は政府が「解決策」ではなく「問題」とみなされていることで、著者は次のように述べています。

 本章で取り上げたすべての調査で、アメリカにおける政府への信頼は総じて極端に低い。回答者の89%が「ワシントンにいる政治家たちは自分たちと選挙資金の最大献金者を豊かにするために働いており、大多数の国民のために働いていない」に同意している。また、回答者にまず政府について気に入らない点を考えさせると(ロビイストや金融機関救済についての意見をたずねるなど)、この実験に反応して政府への信頼が低下する。ほとんどの再分配政策への支持はこれによって大幅に減少し、政府の政策よりも優れた格差縮小の手段として「民間の慈善事業」の支持が増える。(289p)

 

 この「本章で取り上げたすべての調査」というのは著者らの調査であって、メジャーな調査ではアメリカの政府への信頼は必ずしも極端に低いわけではないそうですが、後半のロビイストや金融機関救済を想起させると再分配政策への支持が下がるというのは政治の機能不全とともに、再分配を否定するグループの宣伝が簡単に通りやすい現状を示しているのかもしれません。

 

 このように本書では格差をめぐるさまざまな議論が行われています。基本的にアメリカの話なので日本の参考になりにくものもありますが、これだけの一流の学者たちが一定の前提を共有した上で提言を行っているので、興味深い論考がたくさんあります。

 ここでとり上げたもの以外でも面白い提言はいろいろありますし、今までになかった意外な切り口をもった論考もあります。

 格差とその対策を考えていく上で、間違いなく有益な本だと言えるでしょう。