記号と徴候/『サイン』と『ツイン・ピークス』

 今月は、ヒッチコックの強い影響を受けている映画監督、ブライアン・デ・パルマとM.ナイト・シャマランを比較しつつ、さらにはヒッチコックとの違いについても考える、というようなことを書こうと思ったんだけど、まとまらなさそうなんで、中井久夫の「徴候」の概念を使ってM.ナイト・シャマランデヴィッド・リンチの違いを考える、という話を。(デ・パルマとシャマランについてはヒッチコックの影響という共通点もあるけど、『ミッション・トゥ・マーズ』と『サイン』でモロに宇宙人を出してきたって、共通点があります。宇宙人の登場ってのは失笑以外の何者でもないんだけど、それでも出しちゃうってのはなんででしょう?)


 精神科医中井久夫は、その著書『徴候・記憶・外傷』の中の「『世界における索引と徴候』について」という論文の中で、「徴候」を「未だ存在していない何かを示唆する」という意味で使い、「世界全体が徴候化する場合は『世界破滅感』という病理現象であるかもしれない」と述べています。この言葉を読んで思い出すのがリンチの映画です。もっともこの点に関しては、斉藤環が『文脈病』の中で指摘していることで僕が改めて言うことでもないのですが、「世界全体が徴候化する」という感覚は、まさにリンチの映画でこそ感じられるものだと思います。


 例えば、『ツイン・ピークス』(これは映画じゃなくて、テレビドラマか)では、町自体や、暗い森といったものが不気味な「徴候」を示していますし、なんといっても“丸太おばさん”(いつも丸太を抱えているおばさん)や、眼帯をつけて一日中カーテンの開け閉めをしている女の人といった登場人物が、「徴候」そのものといった感じです。“丸太おばさん”自体が何かまがまがしい存在というわけではないのですが、その存在自体が何かの「徴候」を感じさせるのです。ツイン・ピークスの世界は、こういった「徴候」に満ちており、それが見ている者の不安感を増幅させます。


 中井久夫は同じsignである「徴候」と「記号」について次のように述べています。

 「記号」とは、「記号するもの」と「記号されるもの」とは一組になったものであって、原則的には両者の間に明確な対応関係がある・これに対して「徴候」は、何か全貌がわからないが無視し得ない重大な何かを暗示する。ある時には、現前世界自体がほとんど徴候で埋めつくされ、あるいは世界自体が徴候化する。


 この文章を頭に入れて考えると、シャマラン監督の『サイン』は、『ツイン・ピークス』が「徴候」の映画であるならば、「記号」の映画であるような気がします(ちなみに宣伝ではサインの訳として「兆候」という訳を使っていますね)。『サイン』という映画、後半のスゴイ展開はともかく、前半はヒッチコック的な演出で観客を不安に引き込んでいきます。ミステリーサークルや謎の物音といった「サイン」がこれから起こるであろう事件を暗示するわけです。ただ、最後まで見ればわかるのですが、こうした「サイン」はすべて最後につじつまが合います(そのつじつまの合わせ方がスゴイのですが…)。主人公の妻が死に際に残した謎の言葉や、弟が野球選手だった過去なども、すべてきれいに(?)まとまるのです。


 それに対して『ツイン・ピークス』は、つじつまという点ではほとんど破綻してます、というかリンチにつじつまを合わせようという考えがほぼないと言っていいでしょう。リンチが描きたかったのは筋の通った推理などではなく、まさに中井久夫が言うところの「徴候で埋めつくされた世界」なのでしょう。リンチが描くのは「隠された過去」ではなく、「隠された現在」なのです。


 一方、シャマランの「サイン」は、あくまでも「記号」であり、その「記号」には指し示すものが必要です。そして、あの宇宙人の登場となるわけ。


徴候・記憶・外傷
中井 久夫
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