ウィリアム・T・ヴォルマン『ハッピー・ガールズ、バッド・ガールズ』読了

 ウィリアム・T・ヴォルマン『ハッピー・ガールズ、バッド・ガールズ』を読み終わったんだけど、これはよい!やっぱりヴォルマンは最高。存命の作家の中でもっとも好みの文章を書く作家といってもいいかもしれません。この作品は連作短編のような形で、13の短編とその間に挟まれる「〜の墓碑銘」という話で構成されているんだけど、まず最初の「磁霊」はヴォルマンの情けなさ全開といった作品で、「なんの正当化も伴わない単なる情けなさ」というヴォルマンの特徴がよくでていると思う。他だと「手錠のマニュアル」は訳者も絶賛しているように、フェティシズムにとりつかれてしまった人間が非常によく描けてる。アブノーマルなものに対する嫌悪も賞揚もない、ただ、かなしさは漂っています。かと思うと、最後の「亡き物語の墓」はエドガー・アラン・ポーを主人公にすえた、書くことを中心にした物語。これも非常によい。
 ヴォルマン的な感性というか倫理観というかは、ありそうでない。ふつうの人だったら、「あえて」書くようなちょっとくさかったり、正義がかっているようなことを素直に書ける、というのはヴォルマンの特徴かも。例えば次の部分(266〜267p)

 僕の心は娼婦のようなものだ。バーの止まり木に座っていうるのを遠くから見るとすごい美人に見えるが、近づいてみると年増女だとわかる、そんな娼婦のような。ひくひく震える頬からピンクや白のおしろいが鱗のように剥げ落ち、その目は 〜まるで滅びそこねた怪物の目のように淋しげで、ギラギラ光り、くたびれている。そんな娼婦のようなものだった。もちろん、また遠くから眺めれば、貴婦人のようにゴージャスに飾り立てたその姿にさっきと変わらず目を奪われるが(付きのクレーターを残らず探査するのはそう簡単じゃないのだから)、自分を化けさせるお手並みにどんな感心しても、その姿の胸クソ悪いおぞましさ、ありのままの姿を晒している年増女たちの単純な醜さとは比べものにならないおぞましさを忘れることはできっこない。〜 そこで、僕は思った。自分の心を愛すべき美しいものだなんて考えたのがいけなかったのだ。心だっていつまでも美しいままではいられないんだってことを認めさえすれば、安らかな気分でいられるはずだ…
 ああ、だけどそれこそ、最低最悪の臆病じゃないだろうか?      

 それにしても、この本も絶版中とは…。だれでもいいからヴォルマンの「七つの夢」シリーズ訳してくれ…。
 ウィリアム・T・ヴォルマン『ハッピー・ガールズ、バッド・ガールズ』

晩ご飯は豚肉コンソメシチュー