崎山治男『「心の時代」と自己』読了

 崎山治男の『「心の時代」と自己』を読み終わる。はっきり言って期待したほど面白くなかったですね。前半は感情社会学のあり方とか歴史とかを丹念に論じたもので、非常に行き届いた記述がしてあります。ただ、ふつうの人にとってはやや退屈。後半は看護士への実際のアンケートなどをもとに、感情労働やその中での感情管理のあり方、感情管理の自立化の可能性などを探っているのですが、ここも物足りない。
 何が物足りないかというと、あまりに看護士のアンケートの結果を素直に引用しすぎている点です。現職の看護士へのアンケートということは、相手はそれなりに病院組織での感情労働に適応している人間であり、人によっては強く感じている感情管理への圧力を、あまり感じていない可能性が高いです。ですから、看護職への感情管理の圧力というのを分析するには、バーンアウトしてしまった人へのインタビューなりも必要だと思うのです。
 また、この著者は権力関係への感度があまりにも鈍い。例えば、患者の言うことを何でも聞いてしまっては逆に患者のためにならないといって、患者の要求を断るという看護士へのインタビューに次のようなくだりがあります。

 「それをやってあげるのは簡単だけれども、もし自分が家に帰って、できなくなったとしたら、それは甘やかした看護婦が悪いと思わない?」(193p)

 この部分、確かに患者の要求を断ることが悪いことだとは思わないけど、この言い方。完全なパターなリズム的なものの言い様で、明らかに患者を下に診ているとしか思えないです。著者は本の中で患者と看護職が相補的な関係の中で、互いの感情管理を行っていく、というようなことを主張していますが、多くの場合、患者よりも看護士には権力があります。それは、病気に対する知識であったり、患者の無力さを背景にしているわけですが、こういった権力関係があるからこそ、看護士は大きなストレスを感じずに”相補的な関係”を結べるという点もあるのではないでしょうか?
 老人ホームなどでヘルパーが老人を子ども扱いするのは(例えば、子どもに対するように話しかける)、そうすることで「老人=一人前の人間ではない=老人の言動にいちいちストレスをためなくて済む」というヘルパーの防衛反応みたいなものでしょうが、看護士にも同じような防衛反応が働いている可能性は高いです。本のタイトルに「心に時代」と入れているわけですから、そのくらいの分析はほしいです。
 崎山治男『「心の時代」と自己』


晩ご飯は肉入り野菜炒めとトマト