見田宗介『社会学入門』と昨日の『ニュー・ワールド』

 今まで300冊近く新書を読んできましたが、その中でもトップといえるのが見田宗介の『現代社会の理論』。その著者の新作として岩波新書のリニューアル第一弾のラインナップとして出たのが、この『社会学入門』。
 テーマ的には『現代社会の理論』の補論といった感じで、「社会学入門」というタイトルはちょっと違うと思うのですが(見田社会学の入門にはなりますが、一般的な社会学の入門とはならないでしょう)、未開社会から近代、そして現代社会へと非常に大きなスケールで社会の変化、人類の変化といったものが捉えられています。ふつうの社会学では「近代」という時代を中心に分析が進むのですが、見田宗介はもう少し広いスケールで社会を捉えています。
 もっともマクロ的な視点だけではなく、詩的ともいえるミクロ的な視点があるのが見田宗介の著作の深みのある所で、この本でも90年代の短歌やネットアイドル南条あやの自殺を通じて、愛や自我の変容を描いてみせる所は見事です。

 で、ちょうどこの本には昨日見た『ニュー・ワールド』と重なる所がある。この『社会学入門』の第2章「<魔>のない世界」は、小林一茶の「手向くるや むしりたがりし 赤い花」の句をとりあげた柳田国男の「色彩の感覚の変化」論を中心に、近代になって失われた<魔>というものを考察しているのですが、この「色彩」というのがまさに『ニュー・ワールド』を貫いている視点なんだと思う。
 この章の最後に

 人々が日々、自分自分の家ごとに、花を飾るということになったのは、近代の美しい習慣のひとつといえる。けれどもこのとき、かつてわれわれの「たった一輪の花を手に折っても、抱き得た情熱は消えてしまった。新たに開き始めた花のつぼみに対して、われわれの祖先が経験した昂奮のごときものはなくなり、その楽しみはいつとなく日常凡庸のものと化した。」(「 」の部分は柳田国男の文章) (67p)

 って部分があるけど、ここはまさしく『ニュー・ワールド』でも描かれていた部分。イギリスのよく手入れされた庭園というのは確かに美しいものではあるのだけど、新大陸でネイティヴアメリカンたちが接した自然に比べれば「死んでいる」。まるで木の剥製が陳列されているようなその姿は、まさしく「近代」というものを象徴しているのだと思う。
 <魔>というのは非常に抽象的なものだけれど、『ニュー・ワールド』を見ればそれがわかるし、逆に『ニュー・ワールド』は一体何が言いたい映画なのか?と考えたとき、この<魔>というものが失われていく過程って考えるとしっくりくると思う。

社会学入門―人間と社会の未来
見田 宗介
4004310091


晩ご飯は牛肉とニンニクの芽炒め