憲法記念日ということで護憲派の物言い

 ここ最近、愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書)、長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書)という2冊の新書を読んだんだけど(長谷部恭男『憲法とは何か』はまだ読み途中)、そこで気になったのが護憲派の国民に対する「愚民視」。確かに国民が常に正しい判断をするとは限らないし、今改憲したとして現在の憲法よりもましなものができるって保障は全然ないんだけど、それにしてもこの「愚民視」はけっこうひどいと思う。

 まず、愛敬浩二の『改憲問題』での議論。解釈改憲をブレーキをかける意味でも、9条に対する国民投票を行うべきだという違憲に対して、

 私が首相ならば、国民投票を前にして(中略)「改憲案が承認されない場合、国民は憲法九条の文言を支持したと解されるので、自衛隊をただちに解散し、日米安保条約を即時破棄をせざるをえなくなる」と「過激な訴え」をするだろう。世論調査をみる限り、まだ多数を占める「憲法九条も、自衛隊も必要」と考える人びとを改憲賛成派に引きずり込むための戦術である。九条改定が成功する可能性は高まるだろう。
 他方、万が一、改憲反対派が勝利した場合には、私はその責任をとって、内閣総辞職をする。次期の内閣は、先の「過激な訴え」を「狩田首相(狩田首相というのはこの本の主人公?の狩田教授から)の個人的パフォーマンス」と評して、改憲派の「思惑」を可能な限り実現するべく、従前通り解釈改憲に邁進するだろう。(147〜148p)

 って述べて、護憲のための国民投票って考えを否定しているんだけど、いくらなんでも政治家もここまで無責任ではないし、そんな政治家を許すほど国民はバカではないでしょ。

 こういった「愚民視」は長谷部恭男『憲法とは何か』にもあって、憲法改正のための手続きがなぜ厳格かということについて、

 意味のないことや危なっかしいことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立法プロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動に無駄にエネルギーを注ぐのはやめて、関係する諸団体や諸官庁の利害の調整という、憲法改正論議より面倒で面白くないかもしれないが、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家の方々がコストをかけられるようにと、憲法はわざわざ改正が難しくなっている。(21p)

 と述べてます。「政治家は外交とか国の基本方針とかを決めるんじゃなくて、利益配分にいそしんでください。ちょうど戦後の自民党が国防と外交をアメリカに丸投げして、地方の利益配分に邁進したように」っていうような言い方は、やっぱり政治家をバカにしてるし、同時にその政治家を選んだ国民をバカにしていると思う。
 憲法の改正手続きが厳格なのはトクヴィルのいう所の「多数者の専制」を防ぐためであって、「憲法について考えさせないため」ではないはずです。

 さらに長谷部恭男『憲法とは何か』からもう一つ引用します。

 たとえば、憲法九条の文言にかかわらず自衛のための実力の保持を認めることは、立憲主義を揺るがす危険があるという議論があるが、これは手段にすぎない憲法典の文言を自己目的化する議論である。
 (中略)
 九条の文言は、たしかに自衛のための実力の保持を認めていないかに見えるが、同時に、「一切の表現の自由」を保障する二一条も表現活動に対する制約は全く認めていないかに見える。それでも、わいせつ表現や名誉毀損を禁止することが許されないとする非常識な議論は存在しない。二一条は特定の問題に対する答えを一義的に決める「準則(rule)」ではなく、答えを一定の方向に導こうとする「原理(principal)」にすぎないからである。(71〜72p)

 これについては、「わいせつ表現の禁止は許されない」という議論は本当に非常識なのか?というのももちろんありますし。憲法三六条の「拷問の禁止」などは、「準則」として理解されるべきものでしょう。もし、この「拷問の禁止」が一種の方向性にすぎなく、場合によっては制限されて然るべきものであるならば、テロを防ぐという目的で容疑者としての人権が全く与えないままにアルカイダのメンバーを拘束しているというアメリカのグァンタナモ米軍基地も正当化されることになってしまいます。
 長谷部氏にとってみれば、人権規定を多少あやふやにしてまでも九条というものは守るべきものなのかもしれませんが、個人的にそれは間違っていると思う。九条というのは、今日の朝日新聞内田樹が言っているように「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」かもしれないし、変えない方が今の所日本の利益になるような気がするけど、それでも憲法の中心というのは基本的人権の保障や国民主権の部分であって、九条のために人権保障が曖昧になるような辞退は絶対にさけるべきだと思う。

 もちろん改憲派の、「愛国心」とか「国民の責務」を憲法に書き込もうとする姿勢も一種のエリート主義であって個人的には全く評価しないんですけど、ペシミズムというか憂国の志というかを国民と共有しようとする姿勢において、まだ護憲派の「愚民視」よりは支持を得やすい構造になっているんだと思う。
 「愛国心」を憲法に書き込まなかったからといって日本が滅びないのと同じように、九条が改正されてもすべてが終わるわけでもないはず。また、九条を復活させることだってできるのですから。

改憲問題
愛敬 浩二
4480062998

憲法とは何か
長谷部 恭男
4004310024


晩ご飯は豚肉とピーマンとタマネギの味噌炒め