成田善弘『改訂増補 青年期境界例』読了

 成田善弘『改訂増補 青年期境界例』を読了。
 前にマーガレット・I. リトル『原初なる一を求めて』(id:morningrain:20060810)を読んで、境界例にたいする接し方や治療法が、普通の神経症なんかとずいぶんと違うふうに書かれていて、「それはやっぱりそうなんだろうか?」と思って、この本を手に取ってみたんだけど、この本も非常におもしろかった。

 成田善弘は1941年生まれの精神科医なんだけど,神田橋條治に非常に影響を受けている。例えば、境界例患者と精神科医の似た部分をあげた次の部分。

 人が精神療法家を志す動機はさまざまであろうが,その一つは,彼が鋭いあるいはときに哀しいほどの感受性をもっていながら、現実世界での実行力に乏しいことにあると思われる。身体的に頑健で運動能力に秀れている、あるいは現実処理が巧みで諸事万端そつなくこなす人物が精神療法家であることは少ないであろう。(32p)

 「ぎゃー」ってほど鋭い指摘だけど、これはid:morningrain:20041129で紹介した神田橋條治の『追補 精神科診断面接のコツ』の次の部分の変奏ですよね。

 体が弱く、活動を制限されている子どもは、その年齢で当然味わうべき、正常な万能感の体験を剥奪される。そのような子ども時代を過ごした者は、長ずるにおよんで、万能体験を渇望し、追い求めるという、神経症的行動を発展させてくる。表現型はいろいろであるが、いずれの場合も、その万能感の源が、しっかりと自分自身の「身についている」という確信を必要とする。したがって、飛行機の操縦よりも、武術を身につける方を好む。後者の方が、万能感の源が全部自分の身についているからである。
 わたくしが、医学の中で精神科を選んだ時、そのような欲求がいくらか作用していたし、面接や精神療法にひかれていったときには、同じ欲求が大いに作用していた。(後略)

 
 また、<患者の内在する>という部分の次の所なんかも、非常に神田橋條治っぽい。

 治療者は行動化に至る直前の患者に身を重ね合わせてみて、そのなかで自身の感情を見つめ,言語化する。治療者の感情は患者に内在しようとする努力のなかから出てくるもので、治療者の個人的材料が不必要に流出したものであってはならない。治療者は自分の感情、体験、歴史をいったん土のなかに埋める。自己表出を断念する。その過程で、いったん埋めておいた土のなかから,患者によって触発されて芽を出してくる感情を生かして発言するのである。(151p)

 もちろん,この本は成田善弘への神田橋條治の影響が面白いってだけじゃなくて、境界例の解説としても優れていると思います。それほどむずかしい用語や理論も使っていないため、特に精神医学の本を読んでいる人だけじゃない人にも,境界例の特徴やその接し方のポイントがわかるのではないでしょうか。
 例えば、境界例は時に精神科医との間で二者関係の病理をつくり出すと言われていますが、次の記述などを見ると,精神科医境界例患者に「ハマる」理由の一端も見えてきます。

 境界例においては本来精神内界において象徴的に行われるべきことが、外界の現実と化すことがある。昨今の境界例青年は「母を殺したい」とか「父を殺したい」とか比較的容易に口にする。母親の下腹部をじっと見つめて「お父さんと離婚して僕と結婚してくれ」といった例もある。彼らは実際に母親に暴力を振るったり,性的と思われるような近づき方をしたりする。こういう激しい攻撃衝動や性衝動(とくに近親相姦的衝動)は、古典的神経症であればまずめったに口にしない。表現されるにしても偽装された形で、つまり症状とか夢とか空想とかいう形で表現され、現実の行動に移されることはまずない。(中略)彼らの病歴や生育歴はときとしてギリシャ神話のように,ギリシャ古典の悲劇のように読める。恐るべき事態が連続して生じているが,痛ましいと同時に聖性を感じさせられるときがある。こういう患者と関わる治療者は,人間の本質的なもの、普遍的なものが眼前の患者に顕現しているように感じる。いかにも人間深いところにかかわっているように,神話的世界に参入しているかのように思えてくる。これが治療者にある高揚感を与え、ときにはナルシシズムを満たす。(93ー94p)

 さらに<共感から「不思議に思う」へ>の部分では、共感一辺倒ではなく、患者の矛盾した発言を「不思議に思う」ことで直面化させる技法が述べられているのですが,そこでの次の部分などを見ても二者関係の病理の罠というものがわかります。

 患者の感情にできるだけ共感し、さらに患者がまだ意識していない感情まで汲みとろうとする治療者の努力は、しばしば怒りとか無力感とか空虚感といった,どちらかというと患者の評価を低下させる、ひいては自我の脆弱化につながるような感情を強調してとり出す結果になりやすい。(192p)

 
 こんな感じで境界例の病理と、治療あるいは接し方におけるポイントが著者の経験をもとにして語られている非常に読み応えのある本なのですが,最後に「患者からの贈り物」という、ふつうの精神医学の本ではあまり取り上げることのない部分から一つ。
 ヨシエという境界例の患者からの贈り物を受けた例を振り返って

 ヨシエの贈り物も今しばらく受け取っておくべきであった。わたしが贈り物を受け取りながら、しかし決して彼女に支配されたり呑み込まれたりすることなく、その贈り物によって成長してゆくこと(クラシックがわかるようになり、小説の理解を深めてゆくこと)を示すべきであった。ヨシエはそういう治療者を見て、他者の愛を受け入れることがみずからの主体性の喪失につながるものでなく、むしろ成長を可能にするものであることを学ぶことができたかもしれない。(122p)


青年期境界例
成田 善弘
4772408282


晩ご飯は餃子とキュウイ