死刑の増加について

 今日、イラクフセイン元大統領の死刑が執行されましたが、死刑といえば気になるのは我が国のデータ。
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006123001000250.html

死刑判決、最多の44人
 確定囚21人増え94人に

 全国の地裁、高裁と最高裁で今年、死刑判決を言い渡された被告は44人に上り、統計のある1980年以降で最も多かった。死刑が確定したのはオウム真理教松本智津夫死刑囚(51)=教祖名麻原彰晃=ら21人で、死刑囚は計94人となった。

 年間確定数も死刑囚の数も最多。2000−04年ごろの凶悪犯罪多発や遺族感情を重視した厳罰化傾向が反映したとみられる。

 最高裁などによると、死刑判決は東京、大阪、奈良など9地裁と2地裁支部で、強盗殺人4件の西本正二郎被告(30)や姉妹刺殺の山地悠紀夫被告(23)ら計13人。

 東京、大阪など4高裁と1高裁支部では、オウム真理教元幹部の新実智光被告(42)や土谷正実被告(41)ら計15人。うち母子殺害放火の森健充被告(49)ら3人は1審の無期懲役を破棄、死刑とされた。

 最高裁判決は、幼女連続誘拐殺人の宮崎勤死刑囚(44)、女児2人誘拐殺人の久間三千年死刑囚(68)ら計16人。
(共同)
(2006年12月30日 19時01分)

 このように日本でも死刑は増えてます。
 特に今年の死刑判決で気になったのは、上記の記事では触れられていないけど、奈良県の女児殺害事件における小林被告への死刑判決。大きな前科がなく、しかも被害者一人での死刑判決は今までの基準を一歩踏み出すもの。
 確かに、小さな女の子を殺し被害者の母親に遺体の写真をメールで送るなどひどい事件で、小林被告に情状酌量の余地はないとは思うけど、それにしてもこれで死刑判決というのはどうなのか、と。
 もちろん、残され親からすると被告に死刑を望むのは当然でしょうし、小林被告自身も死刑を望んでいたということを考えると、「死刑やむなし」というのもわからなくはないですが、ここで死刑判決が確定してしまったことによって、死刑のハードルが明らかに下がってしまったのではないか?という気がしています。(事実、広島の小一女子殺害事件では、被害者が1人、母国での前科を認めるに足りる証拠がない−として無期懲役が言い渡されました。)

 このことについて、立命館大学法科大学院教授の指宿信氏もブログで
http://imak.exblog.jp/4378609/

死刑が究極の刑罰でありながら、当たり前の刑罰へと変わるとき、どのような変化がこの社会に生ずるであろうか。

 と述べていますが、僕の懸念もまったく同じ。
 僕個人としては死刑制度自体には賛成で、フセインクルド人への虐殺事件のことを考えると死刑で当然でしょうし、麻原彰晃も死刑にすべきだと思います。
 ただ、いくら子供を殺したからといって、いくら性犯罪がらみからだといって、前科なし被害者一人で死刑になってしまっては、子供を殺せば見な死刑という状況になりかねないですし、被害者の遺族の声という名の下に死刑への煽りが繰り広げられるでしょう。(もちろん、被害者の親が死刑を望むのはある意味普通のことで決して悪いことではないですが、裁判所がそれに流されてしまうのは問題です。)
 
 だいたい、このように死刑が普通の刑罰になってしまうのなら、性犯罪社への宮刑を復活させたほうがいいんじゃないでしょうか?
 「宮刑なんて残酷な!」とか「非人道的!」という声もあるでしょうが、人の命を奪う死刑に比べれば「非人道的」なんでしょうか?
 司馬遷は、匈奴との戦いで敗北し匈奴へ下った友人の李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ、死刑を下されましたが、死刑を免れる方法として宮刑があるのを知り、宮刑を受けました。もし、ここで司馬遷に死刑の選択肢しかなかったら『史記』は生まれなかったわけで、死刑の重みというか「取り返しのつかなさ」を感じてしまいます。 

 別に「宮刑復活!」という主張をしたいわけではありませんが、究極の刑罰である死刑の適用については、あくまで最後の手段だという考えでもって、もうちょっと慎重な適用があってもいいと思います。


晩ご飯は鍋→おじや