光市母子殺害事件、司法を破壊する「反省」

 最高裁で差し戻しがなされた時点で当然予定された判決ではありますが、光市の母子殺害で犯人の少年に死刑判決が下されました。
 http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200804220010.html

光母子殺害、元少年に死刑判決 広島高裁差し戻し控訴審

 山口県光市の母子殺害事件で、殺人と強姦(ごうかん)致死、窃盗の罪に問われた元少年(27)に対する差し戻し控訴審で、広島高裁は22日、無期懲役とした一審・山口地裁判決を破棄し、死刑の判決を言い渡した。楢崎康英裁判長は「強姦と殺人の強固な意思のもとに何ら落ち度のない母子の生命と尊厳を踏みにじった犯行は、冷酷残虐で非人間的と言うほかない」と述べた。さらに「虚偽の弁解を展開して罪と向き合うことを放棄し、遺族を愚弄(ぐろう)する態度は反省とはほど遠く、死刑を回避するに足る特段の事情は認められない」と判断。一審の事実認定に誤りはないが、量刑は軽すぎると判断した。元少年側は上告した。

 確かにこの少年は最悪な人物だし、「母胎回帰」とかいうアホなストーリーを考えだした弁護士たちは、弁護士をやめて欲しいとも思います。
 しかし、やはりこの判決には疑問が残ります。
 それは、もしこの少年が一審の後に「犬がある日かわいい犬と出会った。そのまま『やっちゃった』、これは罪でしょうか」とかいうアホな手紙を送らなければ、この裁判は無期懲役のまま終ったと思われるからです。

 
 この事件は確かに悪質です。
 けれども、世間が悪質だと感じたのは事件とともにこの手紙であり、それがヒステリックな「死刑」の声を呼び寄せたのだと思います。
 そして今回の判決でも

 自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述をしながら、他方では遺族に対する謝罪や反省を口にする事自体、遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするものであり、反省謝罪の態度とはほど遠い。
 一審判決と差し戻し前控訴審判決は、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し。その改善更生を願ったものである。ところが、元少年はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの3年9ヶ月間反省を深めることなく年月を送り、その後は虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。現時点では、元少年は反省心を欠いているというほかない。

と、述べられており、反省の態度の欠如が今回の死刑判決に大きな影響を与えたことがうかがわれます。


 しかし、「反省」という要素がここまで大きくとり上げられ、無期か死刑かという判断に大きな影響をあたえてしまっていいのでしょうか。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20070317の「ホリエモンと『反省』」というエントリーで、無罪を争う裁判でここまで「反省」という要素がとり上げられていいものか?ということを書きました。
 今回の裁判は無罪を争った裁判ではないですし、少年が被告なのでそれなりに「反省」が重視されるのはわかります。わかりますが、今回のポイントは死刑か否かです。
 判決文に「自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述をしながら、他方では遺族に対する謝罪や反省を口にする事自体、遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするものであり、反省謝罪の態度とはほど遠い。」とありますが、死刑が目の前に迫っていれば虚偽の供述をしてでも死刑から逃れようとするのは仕方がないことなのでは?


 ここまで、「反省」が重視される刑事司法では、無罪を争うこと、刑の軽減をねらうことがかえって自分に不利な状況を招きかねません。罪をすべて認め。ひたすら反省する被告こそが結果的に頭のいい被告ということになるのかもしれません。
 しかし、そのような司法は間違いなく冤罪を招きます。
 「罪を認めなければ罪が重くなる」という状況は、痴漢冤罪事件を見てもわかるように冤罪の温床をつくり出すでしょう。
 そのことを思うと、今回の判決が健全な司法の破壊につながっていくのではないかという危惧を覚えざるを得ません。