トマス・ピンチョン『V.』読了

 トマス・ピンチョン『V.』を読了。
 1963年発表とは思えない「新しさ」に改めて驚く。
 現代小説において、やはりピンチョン以前/ピンチョン以後のパラダイムがあるってことを感じました。例えば、先日読んだこの小説の四半世紀あとに書かれたリチャード・パワーズ囚人のジレンマ』なんかに比べても、この『V.』は新しさを感じる。

 小説としては元海軍兵プロフェインの都市での放浪生活と、ハーバード・ステンシルが収集した「Vの女」についてのストーリーが交互に絡み合いながら語られ、「Vの女」をめぐる謎が追求されるって感じなんですけど、「『Vの女』をめぐる探求の物語」というには、あまりにも無駄が多すぎですし、謎の地ヴェイシューなど,放置されたままの謎もあります。
 けれども、まずこの無駄なものを詰め込みまくったスケール感というものが過去の小説とは違うところ。
 とにかく,この小説には「わけの分からない歌」や、必要以上に語られる脇役の情報、意味のないドタバタ劇など、およそ「文学」では切り捨てられるようなパーツが満載されています。

 また、登場人物の内面があまり描かれず、代わりに妄想や、唐突な行動によってその人物が描かれて行くのもこの小説の特徴。このあたりは「精神分析以降」のスタイルといった感じで、人間が「症状」として描かれているように思えます。

 そして、この小説や『重力の虹』などの他のピンチョン作品にも共通する特徴は、「文体の密度」のようなものが自由自在に変化する点。
 これは「文学的緊張感」といってもいいようなものですが、普通の小説では冒頭などである種の密度をつくりだし、その緊張感を持続させつつフィクションが構築されます。
 ところが、この小説では、第6章「プロフェイン、路上生活に戻る」のフィーナを巡るくだり、第9章の「モンゲンタウンの物語」,第11章「ファウストの告白」のシスター/神父の死のシーン、第14章の「恋するV」など非常に文学的で美しい部分がある一方で、どうしようもなく下品で無意味なドタバタが繰り返されます。
 
 この「文体の密度」の増減は、前に書いたように無駄なものを詰め込みまくることで生まれているのですが、この文学的な美とガラクタが同じレベルで同居していることこそ、いわゆる「ポストモダン」的状況を表すものです、なんて書くときれいにまとめ過ぎですので、最後に本文からの引用を一つ。

 「なぜってはっきりした理由が言えれば、もうその女は見つけたも同然さ。バーで何人かの女の中からなぜある女を選ぶ?なぜかわかれば問題ない。なぜ戦争が始まる。なぜかわかれば永久に平和だろうよ。彼のこの探求でも、動機は探求の一部なんだ」(第2巻157p)


V. 1 新装版 (1)
トマス・ピンチョン 三宅 卓雄 Thomas Pynchon
4336024464

V. 2 新装版 (2)
トマス・ピンチョン 三宅 卓雄 Thomas Pynchon
4336024472


晩ご飯はナスとピーマンと豚肉の炒め物