河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』、そして退位論と読売新聞

 退位論、「人間宣言」、昭和天皇とメディアの関わり、地方巡幸、皇太子の外遊と結婚などを通して、象徴天皇制の成り立ちについて論じた本。
 なかなか面白い部分もありますが、「象徴天皇」というものをその法的性格から考えるのか、それとも現象から考えるのか、あるいは昭和天皇をはじめとする当時の政治家たちの意図から考えるのかがはっきりしていないため、分析としてはややちぐはぐなものになっています。
 例えば、この本でも書かれているように、戦後になると昭和天皇の「人間性」をアピールするために巡幸を行ったり、文化人との座談会のようなものを企画したり、宮内庁おつきの記者たちとの会見を行ったりするわけですが、一方で、昭和天皇終戦から講和までの間、あきらかに「象徴」の地位を踏み越える政治的行為を行っています。1951年2月10日の昭和天皇とダレスの会見なんかはその代表例なわけですが、この本にはそういった「象徴」という地位と実際の昭和天皇の行動の間の矛盾や摩擦のようなものが描かれていない。
 だからこの本を読むと、宮中なり政府なりの意図の通りに「象徴天皇」というものが、国民の間に多少の摩擦は起こしつつも、すんなりと立ち上がったように思えてしまうわけです。
 でも、実際は政府の内部や昭和天皇の中にも、もっとさまざまな葛藤があったんじゃないでしょうか?

 
 ただ、興味深いのはこの本で書かれている退位論をめぐるさまざまな動き。
 終戦直後、東京裁判の判決が下った1948年前後、そして講和条約とともに最後の退位論の盛り上がりがあります。
 その最後の講和条約の時期の退位論に関して、この本によれば読売新聞が明確に退位論をプッシュしています。1951年12月には、1948年にも退位論を主張していた矢部貞治が読売新聞紙上の座談会で退位論を主張するわけですが、これは読売から退位論を話題にしてくれと頼まれてのことなのです。
 同じ頃、国会で退位論を主張した中曽根康弘は矢部貞治の教え子。で、中曽根といえば渡辺恒夫との深い関係。もちろん、このころの渡辺恒夫は読売新聞を動かす立場にはなかったわけですが、何か矢部貞治と読売の思想的な繋がりのようなものはあるんでしょうかね?
 ちなみに読売新聞の中興の祖である正力松太郎は、天皇機関説を支持したとして 1935年暴漢に襲われています(本当の動機かどうかは不明)。


「象徴天皇」の戦後史 (講談社選書メチエ)
4062584603