トマス・ピンチョン『逆光』

辺境が終わり、分断が始まる。(上巻85p)

 前作、『メイスン&ディクスン』で独立前夜のアメリカを描いたピンチョンが、この『逆光』で描くのはフロンティアが消滅した19世紀後半から第1次世界大戦後までの世界。
 『メイスン&ディクスン』は辺境にラインを引く仕事する二人の人間のドラマでしたが、この『逆光』の世界は地図だけでなく階級にもラインが引かれ、資本家と労働者と「分断」された世界。


 無政府主義者で、正体を隠して「珪藻土キッド」として各地で爆弾テロを行うウェブ・トラヴァース。彼にはメイヴァという妻、長男リーフ、次男フランク、長女レイク、末っ子のキットがいる。
 しかし、ウェブは大物実業家のスカールデーズ・ヴァイブの雇った二人組の殺し屋デュース・キンドレッドとスロート・フレズノに殺されてしまう。
 父の仇をとろうとそれぞれの道を行くリーフとフランク。思わぬ運命と愛に巻き込まれるレイク。何も知らないままヴァイブ家と交流を持ち、数学を学ぶキット。
 それに各地で冒険を繰り広げる飛行船<不都号>とその乗組員、<偶然の仲間>のエピソードか絡んで、世紀の変わり目のアメリカと世界を舞台に、トラヴァース家とヴァイブ家の因縁の大河ドラマが繰り広げられる!


 …と、あらすじをまとめたいところですし。普通の作家ならこんな感じのストーリーにすると思うのですが、ピンチョンはそんなきれいな話にはまとめない。上下巻で1686ページの物語は限界を超えて膨張し、荒唐無稽なSF、アブノーマルなポルノ、そして第1次世界大戦の背景まですべてを呑み込んで展開していく。
 1893年のシカゴ万博に始まり、ニコラ・テスラの空中放電の実験、1902年7月14日のヴェネツィアサンマルコ広場の鐘楼(カンパニーレ)の倒壊、1908年6月30日のツングース上空で謎の大爆発、1908年10月8日のオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合…、さまざまな歴史的事実を取り込みながら、地中に潜水艦のように潜る潜砂艦とか謎の日本人女性・釣鐘ウメキの使う四元兵器だとか、写真から動画を作り上げる映写機だとか、ピンチョンならではのホラも満載。
 ストーリーの舞台もアメリカからロンドン、パリ、ベルギー、ゲッティンゲン、ヴェネツィア、ウィーン、メキシコ、トルコ、バルカン、中央アジア、北極圏と際限なく広がっていく。

 
 一応、各地で爆弾テロを行う「珪藻土キッド」の存在とかに注目すれば、ポスト9.11を描いた小説だとも言えなくもない。
 この本が出版されたのは2006年ですが、次の部分なんかはまさに9.11以降のアメリカ社会を描いていると言えるでしょう。

 今日、どんなにばかな資本家の目にも、一世代前には前途洋々に思えた中央集権的国家が国民の信頼をすっかりなくしていることは明らかだ。今、至るところで人々の心をつかむ思想となっているのは無政府主義だ。いずれ一種の無政府主義がすべての中央集権的社会を包囲するだろう(中略)もしも国家が自己の保身を望むなら、取るべき方策はただ一つ、国民を動員して戦争を始めること。(中略)国家という考え方自体が戦争の上に成り立っている。ヨーロッパ全面戦争となれば、ストをやる労働者はみんな裏切り者、国旗の危機、祖国の聖なる大地が汚されるってわけだから、無政府主義者を政治的な地図から抹消するのにおあつらえ向きだ。(下巻602p)

 
 けれども、この小説をポスト9.11ものとして扱うの不適当。この小説は、テロだ戦争だということを超えて、「すべて」を描こうとしている。
 もちろん、小説の中に「世界のすべて」を描くことなんかできっこないわけですが、それでもその不可能な試みにチャレンジしているのがピンチョン。
 19世紀末から20世紀初頭の世界の「すべて」を描くことで、現代社会の問題の起源をすべて書きつくしてしまおうというのがこの小説なんだと思います。
 そのせいで、ストーリーはかなり強引になり、人物同士の関係もぐちゃぐちゃになり、謎の多くは放置されたままになっているわけですが、読み終えたあと、まるでこの100年ちょいの歴史を通り抜けたような不思議な感覚に襲われます。
 話がでかくなりすぎたせいで、「恩寵」に包まれるような美しいラストとはなっていないと思いますが、もうひとつの歴史の可能性、あるいは現代社会のもうひとつの可能性のようなものを感じさせてくれる小説です。


 ちなみにストーリーは直線的ですし、訳文も読みやすいですが、さすがにストーリーを把握するのは大変。
 そんなとき、山形浩生氏による「あらすじ」が非常に役に立ちます。途中で訳が分からなくなった人はここを見てみてください。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070625/p1


逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)
トマス ピンチョン Thomas Pynchon
4105372041


逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)
トマス ピンチョン Thomas Pynchon
410537205X