ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』

 2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンが、自らの研究の成果を一般読者にもわかりやすく説明した本。文句なしに面白いです。
 今まで行動経済学の本を何冊か読んできましたが、ほぼすべての理論の元ネタがこの本で本家によって解説されています。しかも、たんに数々のバイアスを紹介して啓蒙するのではなく、そのバイアスが時に有益で人間にとって必要不可欠だという確固たる視点のもとに書かれています。
 ちなみに、カーネマンはノーベル経済学賞を受賞したとはいえ心理学者。この本も心理学の本で、実は経済学に興味がなくても面白く読めると思います。

 
 この本の内容について著者のカーネマンは「結論」の部分で次のように述べています。

 私は本書で二つの架空のキャラクターを導入し、二つの人種について論じ、最後に二つの自己で締めくくった。二つのキャラクターとは、速い思考をする直感的なシステム1と、遅い思考をする熟考型のシステム2である。システム2はシステム1の監視も引き受け、限られたリソースの中でできる限りの制御を行う。二つの人種とは、理論の世界に住む架空の人種エコンと、現実の世界で行動するヒューマンである。二つの自己とは、現実を生きる「経験する自己」と、記録をとり選択をする「記憶する自己」である。(下巻259p)


 まずはシステム1とシステム2という二つのキャラクター。
 人間はほぼ無意識に相手の表情を読み取り、特にバランスを考えずに自転車に乗り、目測だけで二つの物体の長さなどを比べ、乱雑に書かれた文字を読み取ります。これはよくよく考えるとすごいことです。例えば、凸凹道で自転車を乗りこなすロボットというのは相当難しいように思うのですが、どうなのでしょう?
 ただ、このシステム1には結論に飛びつきやすく、さまざまなバイアスを持っているという欠点があります。この本では次のような問題が紹介されています。

 バットとボールは合わせて1ドル10セントです。
 バットはボールよりも1ドル高いです。
 ではボールはいくらでしょう?(66ー67p)

 こういう問題を出されるとついつい身構えて考える人も多いでしょうけど、とりあえず10セントという答えが直観的に浮かんできてしまいますよね(正解は5セント。10セントだと合わせて1ドル20セントになる)。
 この直感的に「正解」に飛びつくというのがシステム1の大きな欠点です。


 一方、システム2は、例えば17×24といった問題を解くときにその力を発揮します。
 こうした算数の問題を解いたり、履歴書を記入したり、車を狭いスペースに駐車をしたりできるのはいずれもこのシステム2のはたらきです。上記の問題も立ち止まって考えれば10セントという答えがおかしいことがわかるはずです。
 しかし、このシステム2は意識的にはたらかせないと作動しない怠け者で、しかもエネルギーを必要とします。人間はほおっておくとシステム1の出した答えをそのまま追認してしまいます。


 そしてこの本の上巻ではシステム1のもつさまざまなバイアスを説明しています。
 このあたりは実際に本を読んで勉強してもらいたいのですが、この本の特徴はそういったバイアスを紹介しつつ必ずしも「意識してシステム2を使いましょう」といった啓蒙をしていないところ。
 著者はシステム1が陥るさまざまな間違いを紹介しつつも、「けれども大体の場合システム1は正しい」と述べ、システム1が短時間で問題を処理する能力を素直に褒めたたえています。考えてみると、システム2が得意とすることのほうがロボットやコンピューターでもできそうなことであり、逆にシステム1が得意とする事こそロボットやコンピューターにはなかなか真似できない人間の能力ですよね。


 カーネマンがこのシステム1のエラーへの対策として有効だと考えるのは、「啓蒙」ではなく「組織の活用」です。

 ことエラーの防止に関する限り、組織のほうが個人よりすぐれている。組織は本来的に思考のペースが遅く、また規律をもって手続きに従うことを強制できるからだ。(下巻273p)

 「大きな組織は決断が遅く手続きばかり」といった声はよく聞かれますけど、失敗を避けるためにはある程度必要なことではあるんですよね。


 次のエコンとヒューマンという二つの人種の話は、経済学が想定する「合理的な人間」と実際の人間の差異のお話です。
 ここでは、カーネマンの生み出した代表的な理論である「プロスペクト理論」や「保有効果」などが紹介されています。人びとが自分の損得をある「参照点」から考えますし、損をすることを嫌がります。ましてや今まで持っていたものを失うとなるとなおさらです。
 そしてこれも「啓蒙」によってなんとかなるものではありません。経済学が想定するような一貫して「合理的な人間」というのは不可能であり、経済学の「合理的経済主体モデル」では現実の人間を上手く記述することは出来ないのです。


 ここで有名なのは何といっても前述の「プロスペクト理論」なのですが、個人的には「人間はなかなか統計を扱えない」という話を面白く読みました。
 その中でも特に第17章の「平均への回帰」は多くの人が頭に入れておくべき考え方だと思います。
 ここではイスラエルの空軍の教官たちがとり上げられているのですが、彼らは訓練生が失敗をするときつい叱責をします。そしてそうすると次の機会は上手くやると考えています。逆にうまくやった時に誉めるのはそれほど意味が無いと考えています。つまり、叱責によって訓練生は自らの未熟さを反省し、次の機会には上手くやるが、誉めると慢心し、心に隙ができるというのです。実際、教員などでもこのように考えている人は多いでしょう。
 ところが、カーネマンに言わせると、それは単純に「平均への回帰」で説明できます。失敗した時は平均よりも下手な出来だったので次はより上手い飛行が期待できるが、成功した時は平均よりも上手い出来だったので次はそれを下回る場合が多い。単純にしれだけなのです。
 そしてカーネマンは次のように結論付けます。

 彼らは訓練生の出来が悪いとどなりつけ、その叱責は実際には効果がないにもかかわらず、次回はたまたま訓練生がうまくやるという見返りを手にする。そこで、「叱るのがよいのだ」と考えてしまう(上巻259p)

 これは人にものを教えることに携わるすべての人が頭に入れておくべきことでしょうね。


 最後は、現実を生きる「経験する自己」と、記録をとり選択をする「記憶する自己」という二つの自己。
 人は同じ苦痛を経験したときでも最後に苦痛が少しでも和らぐならば、たとえ時間が長引いてもそちらの方を良しとしたりします。また、人生も「終わりよければすべてよし」ではないですが、最後が幸福ならば全体的に良い人生だと感じ、トータルで見れば幸福な人生であっても最後に不幸が訪れれば台無しになったと考えたります。
 人間はさまざまな経験をしますが、それを適切な形で記憶するとは限りません。長い間つづいたそこそこの苦痛よりも、一瞬の大きな苦痛をよく覚えていますし、幸福な一日も最後のちょっとした悪い出来事で「ダメな日」として記憶されてしまうかもしれません。
 この「実際の経験」と「記憶」の差というのは厄介なもので、人々の幸福の感じ方にも大きな影響を与えています。そして、人間のさまざまな心理を鮮やかに切ってきたこの本でも、この「幸福」をめぐる部分に関しては歯切れが悪く思えます。
 この「幸福」をめぐる問題というのは残された課題といった感じでしょうか。


 まあ、上下巻の本なので躊躇する人もいるかもしれませんが、内容は今まで読んだ度の行動経済学の本よりも面白いですしわかりやすいです。また、冒頭にも書きましたがこれは経済学の本ではないので、経済学に全く興味が無い人でも楽しく読めると思います。心理学部に行きたいと考えている高校生なんかは読んでみるといいのではないでしょうか?心理学という学問が実際にどんなものであるかということがわかると思います。
 

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?
ダニエル・カーネマン 友野典男(解説)
4152093382


ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?
ダニエル・カーネマン 友野典男(解説)
4152093390