玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』

 失業率は2%台に下がり(2017年4月で2.8%)、有効求人倍率も上がり、「バブル以来の人手不足」などという声もあがっていますが、それに反して賃金が上がっているという実感はないですし、実質賃金は上がっているどころか、むしろ低下の傾向も見られます。
 この一見すると矛盾する現象を、さまざまな角度から説き起こそうとしているのがこの本です。
 近藤絢子、川口大司、太田聰一といった著名な経済学者の他、社会学からは『就業機会と報酬格差の社会学』が面白かった有田伸も参加しており、まさに多角的な分析となっているといえるでしょう。


 目次は以下の通り。

序 問いの背景(玄田有史)
第1章 人手不足なのに賃金が上がらない三つの理由(近藤絢子)
第2章 賃上げについての経営側の考えとその背景(小倉一哉)
第3章 規制を緩和しても賃金は上がらない――バス運転手の事例から(阿部正浩)
第4章 今も続いている就職氷河期の影響(黒田啓太)
第5章 給与の下方硬直性がもたらす上方硬直性(山本 勲・黒田祥子)
第6章 人材育成力の低下による「分厚い中間層」の崩壊(梅崎 修)
第7章 人手不足と賃金停滞の並存は経済理論で説明できる(川口大司・原ひろみ)
第8章 サーチ=マッチング・モデルと行動経済学から考える賃金停滞(佐々木勝)
第9章 家計調査等から探る賃金低迷の理由――企業負担の増大(大島敬士・佐藤朋彦)
第10章 国際競争がサービス業の賃金を抑えたのか(塩路悦朗)
第11章 賃金が上がらないのは複合的な要因による(太田聰一)
第12章 マクロ経済からみる労働需給と賃金の関係(中井雅之)
第13章 賃金表の変化から考える賃金が上がりにくい理由(西村 純)
第14章 非正規増加と賃金下方硬直の影響についての理論的考察(加藤 涼)
第15章 社会学から考える非正規雇用の低賃金とその変容(有田 伸)
第16章 賃金は本当に上がっていないのか――疑似パネルによる検証(上野有子・神林龍)
結び 総括――人手不足期に賃金が上がらなかった理由(玄田有史)


 論文集ということで、どの論文から読んでもいいのでしょうが、第1章の近藤絢子「人手不足なのに賃金が上がらない三つの理由」が全体を概観する良いイントロダクションになっていると思います。
 ここであげられている「三つの理由」とは、「医療・介護などの求人が増えているが、それらの賃金は国の制度によってある程度設定されており、人手不足であっても賃金は上がりにくい」という制度的なもの、「単純に求人が増えているというよりは、コスト削減圧力によって適切な賃金水準を設定できず、「人手不足感」が出ているという」需給メカニズムからくるもの、「賃金には下方硬直性とともに上方硬直性がある」という行動経済学的な知見からくるもの、の3つです。


 まずは、耳慣れない「賃金の上方硬直性」という考えから紹介したいと思います。この考えは第5章や第14章でもとり上げられています。
 賃金の下方硬直性については聞いたことのある人も多いと思います。労働者が名目賃金の低下を嫌がるために、不況になっても経営者がなかなか賃金を下げられないという現象のことです。
 その裏返しとして、好況になっても経営者は賃金の引き上げを渋るようになります。これが賃金の上方硬直性です。
 第5章の山本・黒田論文では、過去に賃下げをなかった企業の方がその後の賃上げを躊躇する傾向があるということが紹介されており、賃金の下方硬直性がある一方で、その裏返しとして賃金の上方硬直性があることが示唆されています。


 次に「規制によって賃金が上がりにくいという問題」。確かに保育士や介護士などの賃金については国の定める水準によって左右されており、人手不足になっても簡単に賃金を引き上げることは出来ません。しかも、医療・福祉は現在最も雇用が伸びている分野で、ここの賃金が制度的要因によって上がらないことが、全体的な賃金の上昇を阻んでいるというのが近藤論文の分析です。


 こうした制度的要因については、「規制緩和」が一つの答えとして提示されることが多いですが、規制を緩和したからといって、必ずしも健全な賃金形成がなされないとしているのが、阿部正浩による「第3章 規制を緩和しても賃金は上がらない――バス運転手の事例から」の分析になります。
 2016年7月現在、自動車運転の職業の有効求人倍率は2.29倍まで上昇しています(34p)。バスの車内などでもバス運転手募集の広告を見かけることも増えたと思います。
 バスの運転手の人手不足の要因と考えられるのが長時間労働と賃金の低迷です。39pには1994年、2000年、2005年、2015年のバスの運転手の賃金プロファイルのグラフが載っているのですが、94年には年功賃金であった給与は05年、15年とかなりフラットな形になっており、20万円台前半で頭打ちになるような形になっています。
 

 もともと、バスの運転手は経験によって生産性の上がるものではないのですが(ベテラン運転手だからより多くの乗客を運べるというものではない)、それでも以前は大手私鉄系を中心に電車の運転士に準じた年功賃金になっていました。
 しかし、00年代前半に規制緩和が進むと、高速バスや貸切バスへの新規参入が相次ぎます。一方、高速バスや貸切バスの黒字で路線バスの赤字を補填するような経営を行っていた既存のバス会社はそれによって打撃を受け、経営が苦しくなり、それがバスの運転手の賃金の低迷につながりました。
 結果、大型自動車第二種免許(バスの運転手に必要)の取得者数は2010年代になると大幅に減少するようになり(37pのグラフ参照)、人手不足やそれに伴う長時間労働時を生んでいます。規制緩和が万能薬というわけではないのです。


 需給メカニズムについては、近藤論文よりも第7章の川口・原論文が面白いかもしれません。
 近年、賃金が上がらない理由としてよくあげられるのが非正規雇用者比率の増大です。雇用者の中で、正規に比べて賃金の低い非正規の割合が増えたことが賃金低迷の理由だというのです。これは他の論文でもしばしば触れられています。
 ただ、人手不足になれば非正規の賃金も上がっていくはずです。この非正規の賃金の伸びが弱い理由として著者らは、非正規の賃金の上昇に伴って非正規労働者の市場に参入する人々の存在を想定します。賃金が低ければ無理して働かないが、賃金が少しでも上がれば働こうと考える人々、例えば主婦や高齢者が存在するというのです。
 著者らはこの状態を開発経済学における「ルイスの転換点」の概念を使って説明しています。ルイスは発展途上国が農業国から工業国へと変わっていく中で、農村部の余剰労働力が工業部門に供給されることによって工業部門の賃金上昇は抑えられると考えました。そして、その農村の余剰労働力がなくなる時点が「ルイスの転換点」です。
 著者らは、日本の非正規市場にも主婦や高齢者の余剰労働力が存在しており、まだ「ルイスの転換点」に達していないため、り非正規の賃金の大幅な上昇は起こらなかったと考えています。これはなかなか興味深い分析だと思います。


 このようにいろいろと面白い分析が盛り込まれている本なのですが、一番インパクトがあるのは黒田啓太による第4章「今も続いている就職氷河期の影響」かもしれません。
 ここでは、2010年と2015年の年齢階級ごとの賃金を比較することで就職氷河期の影響を取り出そうとしています。基本的に多くの年齢階級で2010年から2015年にかけて賃金は上昇しているのですが、その中で逆に下がっているのが2015年時点で35〜39歳の高卒、35〜39および40〜44歳の大学・大学院卒の人びとで、いわゆる就職氷河期世代にあたります。
 特に40〜44歳の大学・大学院卒は5年前に同年代だった世代に比べて月額で2万3千円も給与が下がっています(53ー54p)。しかも、これは就職氷河期世代に非正規雇用が多いからということがだけではなく、それ以上に正社員の賃金の低下が大きな要因となっているのです(60ー62p)。
 この就職氷河期世代の正社員の賃金の低迷にはさまざまな理由が考えられますが、この論文では最後に就職氷河期世代がその前のバブル期就職世代の数が多いせいで昇進・昇格で不利を被ったこと、そもそも小さな規模の企業にしか就職できなかったことをあげ、データで検証しています。
 この就職氷河期世代の問題については第11章の太田論文でもとり上げられており、就職氷河期の後遺症の深さを示すものとなっています。


 この他、賃金表の変化が賃金の上昇を阻んでいるとする第13章の西村論文もなかなか面白いですし、日本では非正規が一種の「身分」のようなものとして捉えられており、それが非正規の賃金を低く押さえているという第15章の有田論文も興味深い視点を示しています(この考えについては有田伸『就業機会と報酬格差の社会学』を参照)。


 やや専門的な論文も混じっていますが、この本で示されているいくつかの分析や視点は、普段働いたりニュースを眺めたりしている中で感じることと通じ合うものであり、多くの人にとって興味深く読めると思います。
 また、アベノミクスに対して失業率の低下や株価の上昇などを評価する声がある一方で、「実質賃金は下がっておりアベノミクスは失敗だった」と断じる声もあります。そうしたマクロ経済の問題を考える上でも、読んでおいて損はない本だと思います(この本を読めば少なくとも「実質賃金があがらないのはアベノミクスのせい」とは言えないでしょう。ただし、この本では金融政策や財政政策が賃金に与える影響についてはほとんど触れられておらず、アベノミクスが賃金にプラスの影響を与えているのかどうかはわからない)。


人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか
玄田 有史
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