足立啓二『専制国家史論』

 中国社会を日本と対比させながら、中国の社会、政治、経済の特徴を鋭く抉り出した本として評判でありながら絶版で、古書の価格がびっくりするくらい高くなっていた本が、このたびちくま学芸文庫に入りました。
 20年前の本で、前半はけっこう硬さも感じられて決して読みやすい本ではないのですが、日本社会をはじめとしてさまざまなものと比較しながら中国社会の特徴を指摘してく筆は鋭く、中盤以降は非常に面白く読めました。


 目次は以下の通り。

第1章 専制国家認識の系譜
第2章 専制国家と封建社会
第3章 専制国家の形成
第4章 封建社会専制国家の発展
第5章 近代への移行―その一 経済
第6章 近代への移行―その二 政治
終章 世界統合と社会


 第1章は中国の顧炎武や梁啓超、日本の内藤湖南、さらには戦後の日本での中国史研究の整理で、著者の本格的な議論は第2章から展開されます。
 日本のムラはメンバー同士が強く結び付いた濃厚な共同体でしたが、中国の村落にはそういった濃厚な共同性は見られませんでした。
 鎌倉後期以降に発展した日本の惣村では、寄合によって意思決定がなされ、やがて江戸時代には村方三役という形で執行機構も整えられていくわけですが、中国の村落にはこうした意思決定機構や執行機構は存在せず、メンバーの出入りも比較的自由でした。
 日本では江戸時代の村請に象徴されるように、共同体に乗っかる形で領主による統治が行われましたが、中国では人為的な社会編制が行われました。明初における南京の創出はその代表例で、旧来の住民を雲南に放逐する一方、江浙先進地の上戸四万五千余家の大規模な強制移住が実施され、行政編成されて、各種役目を担当する戸が組織され」(81p)ました。
 これ以外にも明初には各地で農民の強制移住が行われたわけですが、この村落の共同性の強さの違いを説明するのが第3章以降の議論になります。


 第3章は、それこそサルの社会の説明から始まるわけですが、ここでは中国の春秋中期以降の社会と支配体制の変化の部分から見ていきたいと思います。
 それまでの中国は氏族社会であり、諸侯はその国内の最有力の氏族であり、国内の氏族の合意のもとで支配を行っていました。
 ところが、春秋中期以降、この氏族社会が解体していきます。鉄製農具の普及により、個別家族を単位とする経営が成り立つようになり、小農経営が確立していくのです。
 この小農経営確立は、諸国との軍事競争の中で軍事編成単位として小農を自立させようとする諸侯の政策の結果でもあり、諸侯は国人などを通じて農民を把握するのではなく、小農を直接把握するようになります。
 そして、諸侯を支える氏族に代わって官僚制が整備されるようになり、諸侯の権力は強まっていくのです。


 こうして中国は専制国家としての姿を固めていきます。この専制国家は社会における団体的結合を強化せず、むしろそれらを統一的な管理にとって邪魔になるものとみなしました。
 この時期に生み出された儒教倫理もそうした社会の変化に対応したものだといいます。

 そこでは社会構成員の間で、確定的・一般的に共有されるべき道徳律が存在せず、個々の人間関係の局面において、個別的な「情」にしたがって採用すべき行動原則が現れてくる。共同体も確定した規範も存在しない社会に照応する行動倫理であり、個別的な服従の総体として人倫は体系づけられる。(131p)

 また、この時期以降、中国では「神」の存在感が薄れ、それまで人格神として性格を持っていた「天」もその人格性が急速に薄れていきます。


 このような中国社会で大きな変化が起きた春秋戦国時代のころ、日本では弥生文化が始まりました。その後、日本は中国専制国家の後を追う形で国家形成が進んでいきます。律令制や公地公民制は、まさに専制国家の先進モデルの導入だったといえます。
 しかし、著者が「多面で、こうした専制国家的支配機構が、決定的な政治的・軍事的対決を伴うことなく実現したことは、国家機構の形成が本格的には社会再編に裏付けられていなかったことを意味する」(143p)というように、専制国家を支える小農の自立は実現しないままでした。国家権力のレベルでは、乙巳の変壬申の乱といった大きな出来事はありますが、いずれも社会再編を促すような長期にわたる変動ではありません。
 結局、旧国造層が郡司へと横滑りし、社会は前国家的な結合によって支えられていたのです。


 社会的再編成を伴わない公地公民制は早々に行き詰まり、田堵による請作が始まり、さらには軍団制も廃止されます。地方支配も国司による請負となり、職の体系が整備されていきます。
 この後、鎌倉時代になると日本でも鉄製農具が普及し、小農の自立が進んでいくわけですが、そこに中国のような専制国家の姿はなく、惣村という共同体と領主によって社会が形作られていくことになるのです。

 「古代国家」形成過程で、日本社会は本格的な再編を経験していなかった。個別家族を基礎とする小経営の一般的形式と、それを基礎とする社会の特化・再編過程、それが生み出す新しくより強い集団相互の対立関係、したがって生じる軍事的緊張状態を、中国は春秋時代から始まり戦国時代に至る過程で経験した。日本は同様な過程を、中世の開始から近世の平和が実現するまで、封建社会の形成と成熟の時期を通じて経験することになった。日本においても「戦国時代」とは、本質をついた名称であった。(164p)


 中国では、漢の武帝の時に古典的専制国家が完成し、さらに唐代にいたる均田制のもとで農民を直接編成する制度の構築が進みます。
 とは言っても、100戸単位で編成された里も必ずしも人工的なものではなく旧来の邑などの性格を引き継いでいましたし、100戸単位できれいに切り分けられていたわけでもありませんでした。
 また、中央では丞相が大きな力を持ち、高官による大規模な朝議が行われていました。まだ皇帝に完全に権力が集中したわでではなかったのです。
 しかし、同時に皇帝にすべての権力を集中させようとする動きも起こります。皇帝は、自己責任にもとづく決済能力を官僚から奪い、それとともに監察組織を肥大化させていきます。中間的監察機関は増大し続け、重層的な官僚機構が出来上がるのです。また、科挙による官僚登用制度は、官僚を家や社会的地位から分離させることになります。


 さらに唐宋期に農業技術の進歩などによって農民がより通年的に土地に結びつくようになると、農民を労働力として徴発することは難しくなります。代わりに両税法が導入され、農民を軍事編成から解除します。
 ここに日本の近世とは違った形で「兵農分離」が進むことになります。兵士は農民の税によって支えられる傭兵となり、財政は膨張することになります。これに伴なって「国家的物流システムの整備が求められ、専売制度が強化され、国家的支払手段としての銭が大量に供給されるように」(177p)なるのです。
 

 日本では農業の生産力の向上とともに、村落共同体のつながりが強まり、領主権力が強化され、自律的団体を媒介にして社会が緊密に統合されていくこといなるのですが、中国では共同体の形成には結びつかず、専制権力の強化はかえって官僚の社会管理能力の低下をもたらしました。


 中国では早くから流通の仕組みや商業が発展しました。税を中央に吸い上げる専制国家は巨大な流通機構を必要としましたし、均分相続によってつねに零細化の圧力にさらされた農民はさまざまな副業を行い、そこでつくられた商品が流通していきました。
 こうした流通は生産地に買い付けにいく客商や、仲買人の牙人(がじん)によって担われましたが、いずれも零細で分散的でした。自律的団体の弱かった中国では安定した信頼関係が構築されず、大きな問屋的な存在はなかなか生まれなかったのです。
 一方、日本では公家や寺社から独占権を与えられた座などが商売を独占します。これらの制度は一見すると商業の発展を阻害するかに見えますが、固定的・閉鎖的な関係はある種の信頼を生み出します。そして、こうした信頼とイエ制度が三井のような大商人を生み出すことになるのです。


 市場における自由競争こそ効率を高めると一般的に考えられていますが、近世における中国と日本で起きていたのは次のような逆の事態です。

 中国の流通経費の高さを、封建的な市場構造に帰する解説は多い。しかし実際にはむしろ封建的でなかったことに原因がある。商業資本の市場支配と搾取に求めるのも誤りである。むしろ市場支配力のない零細な修行資本の乱立が、高い流通経費を生んでいた。日本では、封建的な独占性と固定制が、大局的には流通経費を引き下げ、しかも先の買次問屋で銀両表示1000両程度の粗収入を生んでいた。(210-211p)

 また、封建社会における固定的な関係が長期的な雇用関係を可能にしたともいいます(213-217p)。


 19世紀になると、欧米との取引も本格化し、中国でも産業資本が生まれてくるのですが、固定的・系統的な集荷構造が存在しない中国では安定的な原料を確保することができませんでした。流通経費の高さも改善せず、「日本や欧米に比べてはるかに安い価格で農民の手元を離れた原料作物が、産業資本のもとに届く頃になると、欧米より高くなることすら」(224p)ありました。
 1930年代になると、経済に対する国家による統制が進み、中国市場の問題点にメスが入ります。「国家の経済への介入=統制は、恐慌後の世界的趨勢でもあったが、中国においては、安定成長への欠陥となっていた中国的な市場・産業構造の国家の本格的介入として、固有の意義を持っていた」(229p)のです。


 政治の面においても、日本の近代化は村落共同体を利用して行われました。地租改正の作業なども村落の協力がなければできないことでしたし、議会も地方議会から始まり、そこから国会開設を求める動きが高まっていきました。
 一方、中国では近代化の局面においてこうした村落共同体に頼ることができませんでした。国民政府が試みた田賦整理事業は地租改正と同じく農民の土地所有と土地税の再確定を目指すものでしたが、なかなかうまく行きませんでした。日本に倣ってつくられた村里委員会は機能せず、江西省では航空測量が行われました。中国では政府が社会を把握する術が非常に貧弱だったのです。


 では、人びとはどうやって社会的な問題を解決していたのかというと、それはさまざまな任意団体を通じてのものでした。
 清の後半になると慈善団体や勧農業務を行う団体などさまざまな団体があらわれ、貧弱な国家の機能を補います。これらの団体は地方政府の補助を受けたり、官僚や郷紳の寄付を受けたりしながら事業を行っており、地方政府から正式な位置づけを与えられ、農民から強制的に金銭などを徴収する権限を持つものもありました。
 このような任意団体が続々と生まれたというと何か素晴らしいような気もしますが、公的なものではないこれらの団体は容易に私物化されます。当初の目的は 立派なものでも、しだいに私利の追求に走る団体も多かったのです。
 

 こうした団体性の弱い中国社会において、社会を把握するための形として形成されたのが党=国家制でした。それを始めたのは国民党でしたが、国民党を上回る党組織でもって権力を固めたのが共産党でした。これについて、著者は次のように語っています。

 国民党より質量とも格段に強化された党組織を通じて、中国共産党は現実に社会を動かした。しかし現実に社会を動かすことができるようになったがゆえに、非団体的社会を一定の方向で組織化することの困難は、より本質的な形で示されざるをえない。社会は一見すると高い操作性を示した。しかし、政策を受け入れ、自ら具体化すべき自律的社会の無いがゆえに、政策は安定的に実質化されなかった。「上に政策あれば下に対策あり」。政策は面従腹背と過大報告で応えられた。(276p) 


 ご覧のように、引用した文章などは硬いですが、中国社会を考える上で重要なポイントを教えてくれる本だということがわかると思います。
 「習近平の独裁強化」と「創意工夫に満ちたデジタルエコノミーの発展」という現在の中国の2つの側面は、一見すると両立しがたいようにも思えますが、中国の歴史を振り返るとそれほどおかしなことではないのです。個人独裁の強化は社会を逼迫させるように思えますが、この本の描く中国の歴史からすると、個人への権力集中が政府の社会把握能力を低下させるということもあるのです。
 また、芝麻信用などの個人の信頼度を可視化させるシステムが中国社会で広がっているという理由も、この本を読むと見えてくると思います。開放的で流動的な社会において、商取引のネックとなるのが信頼です。それをデジタル技術で補うことができれば、それは社会にとって大きなプラスとなるはずです。
 一方、デジタル技術の発達は、個人独裁の強化と社会把握能力の強化の両立を可能にするかもしれず、そこは注意深く見守っていくことが必要でしょう。


 先程も述べたように、文体は少し古めかしいかもしれませんが、その内容は古びておらず、まさに文庫化するにふさわしい本といえると思います(ただ、ちくま学芸文庫は比較的すぐに品切れになってしまうのですが…。買いたい人は早めに買いましょう)。


専制国家史論 (ちくま学芸文庫)
足立 啓二
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