クリステンセンの書いたベストセラー『イノベーターのジレンマ』(邦訳のタイトルは『イノベーションのジレンマ』)は、イノベーションによって一時代を築いた企業が、なぜ次のイノベーションを起こせずに没落してしまうのかということを分析した本で、1997年出版の本ながら、いまだに多くの読者を得ています。
これは実際にこの「イノベーターのジレンマ」を起こしている企業が数多くあると感じられるからでしょう。例えば、2012年にフィルムで一時代を築いたイーストマン・コダックが倒産した時は、フィルムで大成功を収めたがゆえにデジタル時代に対応できなかったという「イノベーターのジレンマ」が語られました。
このように「イノベーターのジレンマ」とはなかなか説得力のある理論に思えるのですが、では、本当にそうなのか? データからもそれは支持できるのか? ということを実証してみせようとしたのがこの本です。
著者はイェール大学の准教授で、まさに経済学の最前線にいる人物。そんな著者が、軽い語り口で数式などを一切使わずに、それでいて先進的な理論をばりばり使って「イノベーターのジレンマ」を実証してみせるというのがこの本です。
ネタも豊富なのでビジネス書としても読めると思いますし、「イノベーターのジレンマ」という題材を使った、因果推論や経済学の入門書としても読めると思います。
しかも300ページを超えるボリュームなのに税抜き価格1800円とお買い得です!
この本では「イノベーターのジレンマ」を検証するためにいくつかの仮説が提示され、それは以下のようにまとめられています。
1既存企業は「共喰い現象」のせいで「置換効果」に後ろ髪を引っ張られている。
2一方で、未来のライバルに対する「先制攻撃」として、「抜け駆け」イノベーションに打って出るインセンティブにも、駆り立てられているはずだ。
3そして、純粋な研究開発能力においては、既存企業と新参企業のどっちが優れているのか、その答え次第で「共喰い」と「抜け駆け」のパワー・バランスも変わって来る。(25p)
1に関しては、先ほどあげたコダックの例がわかりやすいかもしれません。世界初のデジタルカメラを開発したのはコダックでしたが、フィルムで利益をあげていたコダックにとって、デジタルカメラはその利益を侵食する、つまり「共喰い」する存在です。新しいイノベーションは自社の商品の利益を奪う存在かもしれず、イノベーションに対する姿勢はどうしても及び腰になります。
一方、既存企業の方が資金をもっているわけですから、2のイノベーションの芽を買ってしまうという作戦も可能です。特に近年のIT企業ではこれがさかんであり、フェイスブックは次世代のSNSと言われるインスタグラムをすでに買収済みです。
既存企業が没落するのは「能力」の問題なのか?「やる気」の問題なのか?というのが3です。既存企業は研究開発で新興企業に劣るから負けるのか、それとも研究開発では新興企業をリードしているものの、イノベーションに対する「やる気」によって負けるのか、これを見極める必要があるのです。
まず「共喰い」と「置換効果」の問題ですが、この本でとり上げられている例の一つが、ビタミンCの生産です。ビタミンCはかつてロシュ、武田薬品、Eメルク、BASFが四大メーカとして君臨していましたが、2000年代以降、中国の国有企業が市場を席巻しています。これは従来の「一段階合成法」に替わる「二段階発酵法」という新製造法を中国企業が取り入れたからです。
武田をはじめとする他のメーカーもその製造法を取り入れればよかったじゃないかと考えてしまいますが、旧来の製造法でもそれなりに利益が出ていた既存のメーカーと新参のメーカーでは、そもそも新製造法によって新たに得られる利益が違うのです。新参メーカーにとっては新製造法の利益が丸々利益になるのに対して、既存のメーカーにとって新製造法の利益の一定の部分は旧来の製造法の利益が置き換わっただけです。これを「置換効果」と言います。
「既存企業は「既」に「存」在しているがために、イノベーションによる追加的な利益はそのぶんだけ少なくなってしまう」(55-56p)のです。
「共喰い」が起きにくい新製品であれば、既存企業はイノベーションにゴーサインを出すでしょうが、新しい商品が自分たちの既存の商品とかぶってしまう場合、イノベーションの導入に慎重にならざる得ない状況に直面することになるのです。
しかし、既存企業をイノベーションに駆り立てる要因もあります。それが「抜け駆け」、「先制攻撃」というものです。
勝者総取りのような競争が行われている場合、プレイヤーはできるだけ速く動くべきです。この本では夏目漱石の「こころ」を題材に「抜け駆け」の誘引が語られています(実際に、「私」は「K」に対して「抜け駆け」をすることで「お嬢さん」を手に入れている)。
例えば、検索事業は現在グーグルの一強です。ここに「ぐぐ〜る」なる新サービスが登場し、市場の半分を獲得できる可能性があるとします。現在、グーグルが1件100円×10億件の広告の売上を得ているとして、ここに「ぐぐ〜る」が登場すれば、広告1件あたりの単価は50円に下がり、案件は5億件ずつ分け合います。
「ぐぐ〜る」の売上は50円×5億件で250億円です。一方、グーグルが失う売上は今までの100円かける10億件=1000億円が250億円になるわけですから、その差の750億円です。つまり、ベンチャーファンドなどが「ぐぐ〜る」に対して払える金額が250億円であるのに対して、グーグルは750億円払うだけの理由があるのです。
つまり、「共喰い」現象とは違って、既存企業には独占的地位を守るためにイノベーションを追い求める誘引も持っているのです。
既存企業には、カネがあり、人がおり、技術があり、信用があり、ブランドがあります(107p)。
一方で、これらが揃っていても競争に敗れるケースがあります。アメリカのレンタルビデオ・チェーン店ブロックバスターは、オンライン配信の波に乗り遅れたために2010年に倒産しましたが、実はネットフリックスよりも前の2006年にはオンライン配信の事業の立ち上げに成功していました。しかし、やはり旧来の店舗を徹底的にリストラすることは難しく、後続企業に敗れたと考えられます。前に述べたコダックの例もそうですが、カネ、人、技術、信用、ブランドが揃っていても生き残ることはできなかったのです。
一方で、純粋に技術力がなくて負けた既存企業というものあるでしょう。実証分析を行う場合には、既存企業と新興企業の研究開発・イノベーションの能力の差というものを測る必要が出てきます。
これはなかなか難しい問題で、「イノベーション」という言葉を普及させたシュンペーターも初期は新興企業の力を評価していましたが、後期になると大企業の組織力や研究開発能力を評価するようになっています。
「相関関係はデータの中にある。しかし因果関係は、我々の頭の中にしかない」、これは第5章で紹介されている著者の指導教授だったエド・リーマーの言葉です(131p)。
イノベーションを起こす能力を測ろうとして、まず思いつくのが特許件数です。おそらく大きな会社ほど特許件数が多いという相関関係が見えてくるでしょう。しかし、だからといって既存の大企業の方がイノベーションを起こせるとは言えません。
「すべてのイノベーションが特許の対象になるわけではない」し、「すべての特許がイノベーションを伴うわけではない」(134p)のです。また、あえて特許を取らないという戦略もありますし、有望な特許をとった企業は大企業に成長していくということもあるでしょう。
表面的なデータを見るだけでは、イノベーションを起こす能力のようなものは見えてこないのです。
そこでここからが実証の出番になります。著者は第6章以降で、クリステンセンが『イノベーターのジレンマ』の中でとり上げたハードディスク業界を使って、「共喰い」、「抜け駆け」、「能力格差」の3要素を実際に計測していくのです。
この本では、まず「共喰い」の度合いを測るために需要関数を推計し、「抜け駆け」の原因を測るために利潤関数を推計し、「能力格差」を測るために投資コスト(埋没費用)を推計し、シミュレーション分析を行います。
これは「構造分析」と呼ばれるやり方で、この「構造分析」に関する一般書は日本語だけではなく、英語でもないだろうと著者は言っています(159p)。
というわけで、ここから先の実際の推計についてはぜひ本書を読んでください。
すごく大雑把に言うと、「共喰い」に関しては新旧製品間の需要の弾力性を計測します。操作変数法などによって導き出された新旧製品間の需要弾力性は2.3です(新製品が1%値下がりすると、旧製品を買う人が2.3%減る(170p))。
「抜け駆け」に関しては、まずハードディスク市場がライバルが増えるに従って利益が徐々に減少するクールノー市場であることを突き止めた上で、真の利益を突き止めるために真のコストを計測し、利潤関数を推計します。その結果、独占が崩れ2社、3社、4社、5社の競争となっていったとき、独占が2社になった時の利益の減り方が、例えば4社が5社になった時の減り方よりもかなり大きいことが見えてきます(204p)。ライバルに先駆けてイノベーションに踏み切るメリットというのはそれなりに大きいのです。
「能力格差」に関しては、投資コストを計測するわけですが、この本では、まず投資から得られる期待価値と、一度投資したら戻ってこない費用(埋没費用(サンクコスト))を比較し、投資に踏み切るかどうかのタイミングを調べます。
さらにハードディスク業界において、5.25インチHDDから3.5インチHDDへのイノベーションに注目し、企業を、5.25インチだけを売っている既存企業(イノベーション前)、3.5インチと5.25インチを両方売っている既存企業(イノベーション後)、3.5インチだけを売っている新参企業の3つに分類し、いつイノベーションに踏み切れば、あるいはいつ参入すれば最も高い利益を上げられてかを調べていきます。
こうしたことを調べていった結果、イノベーションのコストに関しては、既存企業の方が少ない、つまり「素のイノベーション能力」では既存企業の方が優れているというデータが出てきます(249p)。
つまり、「既存企業が鈍重なのは、能力不足のせいじゃない。意欲や、努力が、欠如している」(251p)ということなのです。
ここから、この本では今まで積み上げたデータを元に反実仮想シミュレーションを行っていきます。
例えば、既存企業が「共喰い」のジレンマを避けるために新部門を分社化したらどうなるのか?というシミュレーションを行っていますが、このシミュレーションでは既存企業と新参企業の差が小さくなります。つまり、分社化によって新部門が「共喰い」を気にせずに行動できるようにするというのは有効な戦略なのです(それでも新参企業ほど積極的に新製品を販売できてはいないが(256p図表9-4)。
また、「抜け駆け」の誘惑がない状態(イノベーションに対して盲目)であると、既存企業と新参企業の間には大差がつきます。
以上のような分析を受けて、第10章では「では既存企業はどうしたらよいか?」、第11章では「イノベーションを促進するにはどのような政策をとればよいか?」ということが簡単に触れられています。
そして、著者は本書のまとめとして次の3点をあげています。
1 既存企業は、たとえ有能で戦略的で合理的であったとしても、新旧技術や事業間の「共喰い」がある限り、新参企業ほどにはイノベーションに本気になれない。(イノベーターのジレンマの経済学的解明)
2 この「ジレンマ」を解決して生き延びるには、何らかの形で「共喰い」を容認し、推進する必要があるが、それは「企業価値の最大化」という株主(つまり私たちの家計=投資家)にとっての利益に反する可能性がある。一概に良いこととは言えない。(創造的「自己」破壊のジレンマ)
3 よくある「イノベーション促進政策」に大した効果は期待できないが、逆の言い方をすれば、現実のIT系産業は、丁度良い「競争と技術革新のバランス」で発展してきたことになる。これは社会的に喜ばしい事態である。(創造的破壊の真意)(313p)
ここでは本書の実証の流れをたどってきましたが、挟まれる実際の企業のエピソードも豊富で、最初にも述べたようにビジネス書的な面白さもあると思います。
そして何よりも、最新の経済学の実証がどんなふうに行われているのかということを、難しい数式なしで直観的にわからせてくれるというのが本書の最大の売りだと思います。
また、この本で示されている「既存企業は別に奢っているわけでもバカなわけでもないのだけれど新参企業との競争に負ける」という事実は、日本経済にとって耳の痛い話かもしれません。
日本には長命の企業が多く、それが一種の安定性を生み出していることは事実なのでしょうが、そうした中ではイノベーションは望みにくいわけです。世界を制覇した日本の電機産業が苦況に陥っている原因は、「経営者がダメだった」、「政府の経済政策が間違っていた」というふうに理解されていると思いますが、この本によると、「そもそも企業としての寿命だった」とも言えそうで、ある意味で厳しい事実を示した本だと言えるのかもしれません。