松沢裕作『日本近代社会史』

 副題は「社会集団と市場から読み解く 1868-1914」。

 タイトルにあるように「近代」の「社会史」なのですが、副題にあるように「社会集団」(身分集団)と「市場」の関わりを軸にして、明治から第1次世界大戦が始まるまでの社会の変容を描いています。

 著者の以前の著作、『町村合併から生まれた日本近代』(講談社選書メチエ)、松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書)、『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)などを読んだ人はわかるかと思いますが、著者は以前から身分制の解体局面に注目する形で日本の近代を捉えてきましたが、本書ではそれを広いスパンで、さらに「市場」という身分制に取って代わったものに焦点を合わせる形で論じています。

 

 本書は著者が大学で行っている「社会史」の講義をもとにしたもので(コロナ禍のオンライン授業の原稿がもとになっているという)、テキストブックということになりますが、高校の日本史の教科書で「貨幣経済が浸透した」、「階層が分化した」、「社会関係が流動化した」などと書かれている部分において実際のところどんな変化が起きたのかが分かる内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

序 章 社会史とは何か? 日本の近代とは何か?
第1章 近世社会の基本構造──領主・村・町
第2章 近世社会の解体(1)──廃藩置県と戸籍法
第3章 近世社会の解体(2)──地租改正と地方制度の制定
第4章 文明開化・民権運動・民衆運動──移行期社会の摩擦
第5章 景気循環と近代工業──資本主義の時代の到来
第6章 小農経営と農村社会──農家とその社会集団
第7章 女工と繊維産業──「家」から工場へ
第8章 商工業者と同業組合──家業としての商工業とその集団
第9章 職工と都市雑業層──「家」なき働き手と擬制的な「家」
第10章 都市の姿──有産者の結合と都市計画
第11章 教育と立身出世──「家」の世界からの離脱
第12章 メディアの変化──流通する情報
第13章 政治の役割──地方利益誘導と救貧政策
第14章 労働組合と初期社会主義──個人の問題から社会の問題へ
第15章 日露戦後の社会──地方改良運動と都市民衆騒擾
終 章 日本近代社会の構造と展望

 

 本書はまず近世社会の説明から入ります。 

 近世社会においては将軍や大名といった領主が存在し、領主が村を支配していました。ここでポイントになるのが領主は個人ではなく村を把握していたことで、年貢も村請制という形で村単位で徴収していました。村は共同体であり、支配のためのまとまりであり、入会地などの共有財産を管理する存在でした。

 外様大名の領地に関しては領域的に連続していることが多いですが、譜代大名や旗本領、幕府領は複雑に入り組んでいました。本書の27pに信濃の所領分布が載っていますが、これを見てもその複雑さがわかります。

 

 都市では「町」がその単位となっていましたが、当初は刀の鞘を作る職人が集まる「南鞘町」のように、職業別に集住しており、それぞれ「役」が割り当てられていました。

 これは『自由民権運動』でも指摘されていましたが、著者は人々が身分という「袋」に入れられ、その「袋」が積み重なったものとして江戸時代の社会を捉えています。

 

 しかし、この身分制は明治になって解体されます。ただし、これは理想に基づき計画的に進められたものではありませんでした。

 明治政府は治安対策のために戸籍の作成しようとします。当初は身分別の戸籍を想定していましたが、その複雑さに断念され、属地主義の戸籍が出来上がりました。新しい戸籍が身分制の解体を進めたことになります。

 

 武士身分については版籍奉還廃藩置県によって解体されていきますが、これも計画的なものではありませんでした。

 版籍奉還は朝敵とされた姫路酒井藩の藩主が生き残りのために願い出たことから動き出し、廃藩置県熊本藩知事・細川護久が建白し、主導権を取ろうとしたのに対して、薩長が乗っかったことから行われています。

 このあたりについて著者は「複雑な社会を正確に把握できず、また、諸藩を含めて社会から信用されていない新政府は、生き残りのために、一か八かの飛躍を行うほかに選択肢がなかったのである」(49p)と述べています。

 

 戸籍法と廃藩置県が、都市の住民と武士の身分性を解体したのに対して、百姓(村)の身分制を解体したのが地租改正です。

 地租改正は土地の所有者に地価を記入した地券を発行し、それをもとに徴税するというものでした。当初は自己申告を中心に地価を決定する方式が模索されますが(ここで神田孝平が出したアイディアはエリック・A・ポズナー/E・グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』で紹介されているアーノルド・ハンバーガーの考えとほぼ同じなのは面白い)、結局は収穫量から地価を決める方式に落ち着きました。

 

 地租改正のポイントは村請制を廃止し、税金の納入を個人の責任としたことでした。

 村請制の時代、村の誰かが年貢を納められないとなれば他の村人、または名主などの村のリーダーが穴埋めをしました。

 近世の村は明治になってからも残り、名主は「戸長」となって村をまとめていくことになるわけですが、戸長には村の年貢を取りまとめて納入する責任はありません。

 ただし、人々の習慣はそう簡単に変わるわけではなく、明治になっても年貢が払えないといった相談が村人から戸長に持ち込まれます。そして、今までの人間関係から戸長はこれを断りにくいわけです。

 

 こうした問題を解消するために、いくつかの村をまとめた「明治の大合併」が行われます。いくつかの村が合併し新しい村(行政村)が誕生しました。

 こうした「村」という百姓をまとめていた「袋」は大きく変わっていくことになります。百姓たちは直接、政府機関や市場と向き合うようになるのです。

 なお、この町村合併の過程で被差別部落の問題も浮上しています(63−64p)。

 

 身分性が解体する中で、人々は「結社」をつくってつながりをつくろうとしました。そして、この「結社」を基盤に自由民権運動が起こっていきます。

 自由民権運動というと反政府運動としても捉えがちですが、例えば嚶鳴社は司法省の管理の沼間守一を中心に結成されており、官吏や在野の知識人の間に欧米流の近代社会を目指すという共通の考えがあったこともうかがえます。

 

 一方、民衆の間にまでその考えが共有されているとは言えませんでした。1881年からいわゆる松方デフレが始まりますが、この中で借金を返せなくなった農民たちは、各地で借金の帳消しを求める負債農民騒擾を起こします。

 農民たちの要求には借金の帳消しや繰延、質に入れた土地の買い戻しなどが含まれていましたが、これは江戸時代には一定程度認められていた考えでした。これが「板垣公」や「自由党」による救済願望と結びついたのが秩父事件です。

 

 松方デフレは不況をもたらしますが、この中から日本鉄道と大阪紡績という2つの大企業が生まれ、それが呼び水になって80年代後半になると株式会社の設立が相次ぎます。

 しかし、このブームは資金需要の増大→金利上昇という流れの中で破綻し、恐慌が起こります。こうした恐慌は日清戦争後、日露戦争後にも起こっています。

 こうした中で、一般の民衆も景気変動の影響を受けるようになり、人々の生活と市場が結びつくようになっていくのです。

 

 農村では松方デフレによって多くの農民が土地を失います。日本では大農経営が定着しなかったこともあり、土地を失った農民の多くは地主のもとで小作農となりました。

 近世においては村請制が行われていたために、まずは年貢が徴収され、そのあとに地主の取り分が決まるという形が多かったのですが、地租改正後にはそれがなくなり、小作料などは地主と小作人の個人の関係の中で決まっていくことになります。

 

 こうした中で地主が互いに小作料の減免や免除を勝手に行わずに横並びで対処しようという動きも起こってきます。例えば、小作人が小作料を払えなかったときは当該地主の土地だけでなく、他の地主もその小作地をとり上げるといったことが取り決められました。

 「村」という集団がなくなったことによって人々の関係性は不安定化しますが、地主はそれを独占的な団体をつくることで安定化させようとしたのです。

 

 村の解体は他にもさまざまな影響を及ぼしています。例えば、かつての村である大字では、山林盗伐・濫伐や農作物の窃盗や草の無断刈り取りを禁止する「改良規約」を結ぶところがありました。これはかつての村の掟を引き継ぐもので、村の解体で流動化した秩序を取り戻そうとするものです。

 しかし、同じ頃、国有地である原野を勝手に開墾する動きも起こっています。こうした土地はかつては入会地などとして「村」が管理していたわけですが、明治になるとそこで「抜け駆け」して利益をあげようという者も現れるのです。

 近世の村の秩序は「改良規約」に見られる相互監視で維持されようとしましたが、それは「抜け駆け可能」な秩序でもあったのです。

 

 また、「家」に目を向けると、この時期の農家では現金収入のための副業が行われており、その副業の中心的な労働力として戸主の妻がいました(113p表6−2参照)。家事や育児は主に戸主の母や娘によって担われており、家が一種の企業であったことが見えてきます。

 

 家を一種の企業と見た場合、女工の置かれた状況というのもわかりやすくなります。

 本書で紹介されている諏訪地方の製糸工場で働いていた24歳の女性・ゆうのケースだと、まず、契約はゆうの父である戸主と工場主の間で結ばれており、女工が家の意思に従って働いていたことがわかります。

 

 諏訪の製糸業では、当初近隣の知り合いなどから女工を集めていましたが、事業が拡大すると遠く離れた地域からも募集するようになります。

 このときに起こったのが女工の奪い合いです。ある工場で働くことにあっている女工を途中で勧誘したり、騙して別の工場に連れていくということも行われたそうです。

 そこで諏訪の製糸業者は製糸同盟をつくり、そのもとで女工登録制度をつくります。前年にある工場で働いた女工を別の工場は雇ってはいけないというふうにしたのです。

 ところが、この権利に基づいて引き渡しを求めても、女工本人が拒否するケースもありました。本人というよりも女工の家の意思で行われたケースも多く、より有利な条件の工場へ娘を移籍させようとしたのです。この時期、女工を働かせるためのキーは「家」にありました。

 

 一方、紡績業の女工はより待遇が低く、いずれは家に戻って結婚することが想定されていた製糸業の女工に比べ、「家」から切り離されて過酷な労働に従事させられました。

 ただし、紡績業でも女工の引き抜きはあり、暴力的な手段が使われたり、自社の女工を他者に送り込んで引き抜くということも行われたようです。

 紡績業の女工は家から切り離されている分、自由ではありましたが、家の保護を受けられない存在でもありました。

 

 明治になっても江戸時代以来の中小の商工業者は残りました。これを経済史では「在来産業」といいます。

 岐阜県東部の陶磁器業では多くの小規模な窯屋が存在しており、そこに近隣の農民の次男などが弟子入りし、分家していくというスタイルが取られていました。

 綿織物でも、織元が綿糸を仕入れて製造者に原料を渡して織らせる賃織というものが行われており、農家の副業となっていました。これは農閑期に行われるために、安い労賃で織らせることが可能でした。

 

 こうした産業では問屋が活躍しましたが、江戸時代のように株仲間を結成して営業を独占することはできなくなっていました。

 そこで彼らは同業組合を結成します。政府も品質確保のためにこれを認めましたが、中には職工の引き抜き禁止や賃金協定、被雇用者に贅沢をさせないなどの取り決めを結んでいるケースもありました。

 ただし、こうした決まりは組合内の紳士協定(内容は全然紳士ではないですが)のようなもので、「抜け駆け」が可能でした。江戸時代のようなお上のお墨付きのあるものではなかったのです。

 

 重工業では、江戸時代に職人だった者が現場で働くケースも多かったですが、そのために工場内に親分−子分の関係が持ち込まれました。「親方」職工が作業グループの長(職長)として作業を指揮・監督したのです。

 この親方職工には賃金の分配権を握る者とそうでない者がいましたが、特に前者の親方の権限は絶大で、中間搾取や賄賂もつきものだったといいます。

 また、夫婦で工場で働くケースも多く、炭鉱でも男性が石炭の採掘、女性が石炭の搬出を行う形で夫婦が働いていました。

 

 職工はいずれは独立して小工場を経営し「家」を構えることを夢見ていましたが、貧民窟にはそういった「家」を構える展望もない人々が集まっていました。貧民窟では必ずしも血縁や姻戚関係にない者が同居しており、男女で住んでいても正式な結婚をしているケースは稀だったといいます。

 こうした人々の間でも親分−子分的な関係があり、北海道の土木労働者の間では一番下の序列から上がる時に親分・子分の杯を交わす習慣がありました。こうして擬似的な「家」がつくられたのです。

 

 都市でも「町」が解体され、大阪や京都では小学校の学区を中心としたまとまりができていきますが、東京では有力者を中心に区が形成されていくことになります。

 東京では道路の拡幅などを中心とした市区改正事業が行われましたが、この過程の中で地借の権限は弱められ、地主が優位に立つことになります。

 

 公教育のシステムも近代になって導入されたものです。一般的に小学校就学率は1902年に90%、09年に98%を超えたとされていますが、この数字はこれだけの児童がきちんと小学校に通って卒業したことを示すものではありませんでした、学齢簿からは一年以上居所不明の児童が除かれていましたし、09年頃でも女子の3割以上、男子の2割弱が卒業していませんでした(185p図11−3参照)。

  

 勉強による「立身出世」も目指されましたが、1900年以降、高等学校への進学は狭き門になり(188p図11−4参照)、進学できない独身男性の間では独学がブームになりました。また、働きながら進学を目指す苦学生も増えましたが、彼らは肉体労働などをするしかなく搾取されることも多かったといいます。

 

 第12章では新聞や雑誌がとり上げられていますが、雑誌への投書・投稿から読者同士の交流も広がっており、これも進学熱や立身出世熱を煽った1つの要因でした。

 

 こうした中で、政治は自由民権運動から初期議会のころの「軍拡の政府」VS「民力休養の民党」といった構図が日清戦争前後から崩れ始め、民党が増税を認める代わりに道路や鉄道の建設などの地方への利益誘導を求めるようになっていきます。

 こうした利益誘導は、場合によっては地域からの反発も受けましたが、府県レベルで決定し、さらに市場へのアクセスの向上によって経済が発展するといった理屈で

その反発が乗り越えられていくことになります。

 

 政治には困窮者をどうするかといった問題も持ち込まれましたが、恤救規則が対象をあくまでも「家」の保護を受けられない者に限定していましたし、恤救規則より対象を広げた窮民救助法案が1890年の最初の帝国議会で否決されたことからもわかるように、政治は困窮者には冷淡でした。

 

 政治が冷淡な中で、社会問題の解決を目指したのが初期社会主義者でした。唯物論キリスト教社会主義、非社会主義キリスト教徒と、彼らの立場はさまざまでしたが、彼らの間には緩やかな連帯もありました。ただし、この連帯は日露戦争をきっかけとして崩れていくことになります。

 

 労働運動ではアメリカ帰りの高野房太郎らが労働組合の結成に動きますが、先程述べたように疑似家族的な親分−子分関係が残り、「家」の形成が目的だった職工たちが「労働者」としてまとめるのは困難でした。

 日露戦争前後になると、職場に新たな技術が導入され親方の権限が後退します。こうした中で労働現場とは関係のない上級職長の権限が拡大し、それが現場からの反発を呼びました。1907年には争議が頻発しました、その背景にはこうした問題がありました。

 ただし、ここでの争議の内容はあくまでも特定の職場内での対立であり、「労働者VS資本家」という大きな構図は形成されにくいままでした。

 

 一方、政府が日露戦争後に行ったのが地方改良運動です。この運動内容は多岐にわたっていますが、本書では近世の村が持っていた林野で林業を営み、町村財政の不足を補う部落有林野の統一事業、「一町村一社」を目標に神社を合併していく神社合祀、納税を集団で取りまとめさせる納税組合の組織化が紹介されています。

 これは近世の村の機能を一部で復活させようとする動きにも見えますが、狙い通りにはうまくいかなかったようです。

 

 都市部では日比谷焼き討ち事件に見られるように暴動事件が増えます。これはナショナリズムの高まりといった要因もありましたが、それ以上に暴動の主体となった都市の下層の若者たちが「家」を形成するのぞみを失って、その不満を爆発させたということにあります。

 こうした閉塞感の中で、個人の自律を重視する修養主義が注目されますが、これは「家」から切り離された個人の「人格」の向上を目指すもので、学歴エリートから労働者までを包摂できる考えだったと言えます。

 

 そして、第一次世界大戦のころになると、男性の稼ぎ手と専業主婦からなる「家庭」が出現するようになり、今までの「家」中心の社会とは少し違った様相を見せ始めるのです。

 

 著者は明治から第一次世界大戦までの日本社会の特徴を次のようにまとめています。

 抜け駆けを防止できないという意味では、近代日本の社会集団は弱い力しかもたないが、一方で、常に抜け駆け可能であるがゆえに、常に相互を監視し合うという性格をもつことになる。日本近代社会では、近世に比べて、諸経営・諸個人の自発的な行動、自己利益の追求、新規事業への挑戦の余地は広まった。このことが、同時に、社会集団も、規律維持のために、内部の監視に頼らざるをえないという結果を生んだのである。(253−254p)

 

 本書を読むと、基本的には江戸時代にもあったはずの家父長制が、明治になるとより重苦しい感じになってくる理由なども理解できると思います。身分があって、村があって、家がある近世社会から、家しかない近代社会になったことで、家の重要性は高まり、同時に抑圧的になったのです。

 

 家(あるいは個人)が市場に直接さらされるようになる困難については、著者は『生きづらい明治』(岩波ジュニア新書)でも描いていますが、『生きづらい明治』が思想的な面からそれを説明しているのに対して、本書は社会構造や制度の面からそれを説明しています。

 どちらに説得力を感じるかは人それぞれだと思いますが、個人的には本書の説明がより興味深く思えました。

 

 

 

 

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