『ジョーカー』

 ようやく見てきました。

 評判通りホアキン・フェニックスの怪演はさすがで、まずその演技に惹きつけられました。主人公のアーサーのちょっとずれたようなダンスも印象的で、主演の存在感が際立った映画だったと思います。

 これだけ公開から時間が経つとだいたいのストーリーは耳に入ってきてしまっているわけですが、それでも緊迫感をもって見ることはできましたし、基本的にはよくできた映画なのだと思います。

 

 ただ、ジョーカーを描く上でハードルとなるのがクリストファー・ノーランが『ダークナイト』で描いたジョーカーの存在です。ヒース・レジャーが鬼気迫る演技を見せ、トラウマなどのすべての説明をあざ笑うかのようなジョーカーの存在は、その前日譚を語ることを難しくしました。

 本作では、基本的にジョーカー誕生の理由を説明しつつ、ジョーカー本人を信頼できない語り手とすることで、「トラウマと孤独と差別=ジョーカーの誕生」という図式をなぞりつつも確定はさせないような内容となっています。

 

 これはよく考えられたアイディアだとも思うのですが、「ダークナイトのジョーカーとのギャップがあるのでは?」という疑問に対するエクスキューズをラストでしていることに対してはややモヤモヤしたものも残りました。

 このラストは、「この映画は暴動を煽っているのではないか?」という疑問に対するエクスキューズにもなっているのですが、そこもちょっと日和っている印象を受けます。

 

 また、「社会派」っぽいけど映画では社会の問題をほとんど描いていない点も気になりました。劇中ではアーサーがエリートビジネスマンが殺して、それが人々の思わぬ支持を受けることが物語の転換点となるのですが、それだけの支持が集まる背景を今の現実社会の文脈に投げてしまっていて、「時代を超えるような作品足りうるのか?」と感じました。

 最後に人々の不満が爆発するわけですが、その爆発に至る過程や、不満を持つ人々の存在は殆ど描かれていないと思うんですよね。

 そのあたりをアーサーと同じアパートに住む黒人のシングルマザーのソフィーあたりをつかってうまく描けなかったものかと思いました。