『家族を想うとき』

 ケン・ローチフランチャイズの宅配ドライバーのリッキーとその家族を描いたドラマ。見る前は邦題がダサいと思いましたが、見終わってみるとこれでいいのかもしれません。見た後にずっしりとしたものを残す社会派ドラマとなっています。

 

 映画はリッキーが宅配ドライバーの仕事を面接を受けるシーンから始まるのですが、そこで強調されるのは、これは雇用関係ではなく、個人事業主として契約するのだという言葉です。「自由にやれる」「がんばった分だけ稼げる」ということが強調され、リッキーはこの仕事を始める決心をします。

 ただし、日本のコンビニなどを見てもわかるように、この「自由」は建前に過ぎない場合も多いですし、「限界以上に頑張らなければ稼げない」ということを意味したりもしています。

 

 リッキーの妻のアビーは訪問の介護ヘルパーの仕事をしています。仕事はパートタイムですが、朝食・夕食の世話を中心に行っているために、朝は早く夜は遅いです。また、この映画ではヘルパーの感情労働としての一面が非常によく描かれており、現代の対人サービス業の苦しさというようなものを浮かび上がらせています。

 子どもは反抗期を迎えている長男のセブと、賢くて健気な長女のライザ。基本的にはこの家族4人が中心となってストーリーは進みます。

 

 イギリスにおける労働者階級を描いた映画は数多くありますが、本作の特徴はやはり両親の職業ということになるのだと思います。以前は炭鉱や工場といった第2次産業で働いていた人々は、その職場を失い、サービス業へとそのはたらきの場を移さざるを得なくなっています。

 この映画では、アビーが訪問先の老人たちと話すシーンがいくつかありますが、その1つの中で、アビーの勤務が7時半〜9時近くだと知り、「8時間労働じゃないの?」と驚くシーンがあります。また組合活動の思い出も語られたりするのですが、そうした労働運動の成果はいつの間にか消え去ってしまっているのです。

 

 リッキーの始めた宅配ドライバーも、個人事業主とは名ばかりで、持たされた端末に追われるかのように一日中荷物を配り続け、しかも休めば罰金という仕組みになっています。

 労働時間だけではなく、有給休暇、労災保険といった、今まで労働者が勝ち取ってきた権利もそこには存在しないのです。

 

 こうした現実を映画は描いていきます。ユーモアもありますし、楽しいシーンもありますが、ラストは苦いです。

 多くの監督であれば、ラストにそれなりの救いをもってきそうなものですが、おそらくケン・ローチは現実が変わっていないのであれば、その現実に沿った物語を描くべきだと考えたのでしょう。

 現代の問題電を鋭く切り取り、ずっしりとした印象を残す良作です。